人生にはいくつかの大きな分かれ道があると思う。
 自覚できるものは少ないかもしれないが、自分には確実にあの瞬間は、人生の分かれ道だったと今は分かる。
 小さい手をつかんだあの時。
 一緒にいたいと泣いて縋った小さい体を抱きとめた時に、もう道は決まっていたんだ。


if... Act,1

2009.08.04UP




 瞼に強い日差しが当たって、急激に意識が浮上する。
 そこで和希は自分が眠ってしまっていた事に気が付いた。
 そして、瞼を強い日差しから守っていた筈の、読みかけの本の位置を探ろうと瞼を開ける。
「やっと起きた」
「……啓太」
 目の前に居るまだあどけなさの残る少年の右手を見ると、おそらく開かれていたであろうページに指を挟んで目的の物が掲げられていた。
「…帰ってきたのか。もうそんな日にちだったっけ?」
「きっちり10日経ってるよ。まだボケるには年早いんじゃないの?」
「うるさいな。最近忙しかったから疲れてるんだよ」
「この間論文終わったって言ってなかった?」
「この間のは終わっても、次があるんだよ。院生は忙しいの」
 和希は自宅のプールサイドのデッキチェアにのばしていた体を起こして、久しぶりに会えた愛し子の頭を引き寄せて、こめかみに親愛のキスをする。
 それをくすぐったそうに受け取りながら、右手に掲げていた本をサイドテーブルに置いて、こちらも『ただいま』のキスを和希の頬に返した。
「今年も元気だったか?」
「うん。父さんも母さんも朋子もスゴい元気だった。朋子も背が伸びててさ、もう110Bあるんだって」
「大きいな」
「だろ? 兄の俺は伸びないのに、妹は伸びるってずるいよなぁ」
 和希に問われて、啓太は会ってきた自分の家族の話を嬉しそうに聞かせた。


 和希と啓太が共にアメリカに渡って7年が経っていた。
 啓太を連れて渡米した和希の表向きの理由は、啓太が和希と離れたくないと言った事だった。
 だが本当の理由は、7年前に和希の不注意で啓太が感染してしまった研究途中のウィルスの影響を調べる為だ。
 けれど表向きの理由も全くの嘘ではなく、啓太が和希と離れたがらなかった事は事実であり、また和希も啓太と共に居る事を望んだのだ。
 そんな経緯をたどって二人は只の近所の幼なじみと言う関係だけだったのが、今では同じ家に暮らし、兄弟同然に過ごしていた。
 だが元々血の繋がりの無い他人の二人。啓太の両親は和希の家『鈴菱家』に啓太を預ける事を承諾する代わりに、いくつかの条件を出してきた。
 一つは『親権は渡さない』。つまりは啓太はあくまでも『伊藤啓太』なのであって、鈴菱家には『預ける』だけなのだと主張した。
 もう一つは、『必ず一年に一度は家族の元に戻す』という事。その期間は決めていなかったが、その条件はまだ幼い子供を手放すにあたっての啓太の両親の、啓太に対する愛着の現れだった。伊藤家には当然啓太の身に起きた事は伝えられていたので、啓太を鈴菱家に預ける事には大きく反対も出来なかったのだ。それは偏に息子の事を心配しての事だった。感染した当初の処置は完璧だったと伝えられていたが、いつ何時何があるかは、研究段階だったウィルス故に解らない。だから、研究を熟知している家に預けるのが一番安全なのだと啓太の両親は自らを納得させた。だが、やはり会いたい、手元で何かしらの愛情をかけたいという親心からの条件付けだった。
 その条件に従って、学校に上がってからの啓太は夏休みを利用して毎年10日間日本の実家に帰っていた。そして今年も日本の実家に帰省してきて、今日和希の元に戻ってきたのだった。

「これ、母さんから和にいにお土産。また煎餅」
 啓太は左手に持っていた箱を、本に並べてサイドテーブルに置く。
「嬉しい。俺、この煎餅好きなんだよな」
「和にいがそんな事言うから、母さんが調子に乗っていつでもこれ買ってくるんだよ」
「調子に乗ってなんか無いよ。ホントに俺、これ好きなんだよ。年に一度食べられるの心待ちにしてるんだから」
「チープな物が好きだねぇ」
「ジェリービーンズが手放せない啓太に言われたくない」
「俺は良いの。生粋の庶民だから」
 啓太に渡された箱を早速開けて、和希は懐かしい日本の香りの濃い煎餅を一枚口にした。ぱりっといい音をさせて齧ると、途端に醤油の香ばしい香りが鼻腔を満たす。その香りは、幼い頃啓太の祖父母の家でご馳走になったおやつを思い出させて、同時にその頃の気持ちも思い出させてくれる。
 啓太は嬉しそうに煎餅を食べる和希の横のデッキチェアに腰掛けて、和希の飲みかけの氷の溶けたアイスティを飲み干した。
「それにしても、なんでこんな暑い所で態々寝てるの? 昼寝するなら庭の方が涼しいじゃん」
 カリフォルニアの強い日差しを反射させた水面に啓太は目を細める。
 子供の留学の為だけにしつらえたとは思えない広大な屋敷には、啓太のお気に入りの木立がある。そこは適度に日光を遮ってくれて、湿度の低い気候のこの土地では、快適な気温がいつでも楽しめた。せっかく疲れを癒すならそこが良いのではないかと思った啓太の言葉だったのだが、和希は首を振った。
「最近冷房の効いた室内にいる事が多かったからさ。ちゃんと日光浴しなきゃって思ったんだ。それに来週はモナコに行く約束だろ? 少し肌を日光に慣らしとかないと辛いよ」
「え? 一緒に行けるの?」
「当然。だって、啓太が中学卒業したお祝いだもん。その為に予定前倒しにして頑張らせて頂きました」
「やったー!」
 両手を上げて喜んで、はしゃいだ心のまま啓太は和希に抱きついた。
 啓太が勢いをつけて和希に飛びついた所為で、和希の体は再びデッキチェアに沈む。
「ちょっ、啓太!」
 3周り程小さい体に押し倒されて、和希は焦る。
 啓太が和希の首にしがみついている所為で、和希の鼻腔には太陽の様な啓太の香りが満ちた。
 その事に、和希の体は昔と違う変化を起こす。
 子供の頃からこういう事は日常的にあったのだが、いつの頃から変わってしまったのか。
 和希は啓太に対して沸き起こるじっとりとした心の動きを悟られない様に、さりげなく啓太の体を自分の上から退去させた。
「お前、9月からは高校生だろ? もうちょっと落ち着けよ」
「はぁーい」
 素直に和希の言葉に従いながら、啓太はちろりと赤い舌を出してごまかす。
 その舌にも和希の心は動いた。
 その気持ちは正しく『恋』であった。


 和希が啓太への恋心を自覚したのは去年の事だった。
 同じ家に住んでいても当然お互いに私室を持っているのだが、子供の頃の癖が抜けない啓太は、何か理由を付けては和希の部屋の和希のベッドで一緒に眠りたがった。
 和希は出会った頃から啓太を溺愛していたので、啓太がまだ小さい頃は、啓太に付けられた教育係の言う事も聞かずに、毎日の様に啓太を寝かしつけていた。なので、啓太がそれなりに大きくなった後も和希の部屋を訪れても、その頃の癖が抜けずに笑顔で招き入れていた。
 それがある日、夜中に目が覚めた和希は、いつもの様に和希のベッドに潜り込んできて眠っている啓太の寝顔を見て、言いようの無い感情が心を覆うのを感じた。
 安心しきって和希の隣で眠る啓太は、月明かりに照らされて、まだ幼さの抜けない頬のラインが酷く中性的だった。
 睡眠時特有のゆっくりした呼吸に合わせて、赤い唇は誘う様に薄くひらいている。
 その時和希は初めてそれまで啓太に対して思っていた『可愛い』という感情を超えて、その様子を『綺麗だ』と認識した。
 そして、誘われるままに軽く唇を重ねた。
 それは極自然な行動で、唇を重ねた瞬間は何の疑問も抱かなかった。
 だが、唇に啓太の寝息が触れて、そこで初めて自分が何をしたのかを気付いてしまった。
 和希は行動を起こしたのは自分だというのに、思わず悲鳴を上げそうになった。
 一体今、自分は何をしたのかと。
 相手はまだ11歳の子供だというのに。
 しかも男の子だというのに。
 頭ではそう考えていても、それを裏切る様に激しく脈打つ心臓と、自覚した途端反応した自分の雄の部分。
 混乱する思考の中で、とにかくこのままではいけないと、必死の思いでベッドから抜け出た。
 この時ばかりは、いつもは二人で寝るのでよかったと思っていたキングサイズのベッドの広さを恨めしく思った。
 そんな事を経てから、和希はなるべく啓太を遠ざけようと努力した。
 このままでは、いつまた和希は啓太に何かをしないとも限らないと。
 だが啓太はその事に気が付く事は当然無く、夜ごとに和希の部屋を無邪気に訪れる。
 何とかその状況を回避しようと、和希はそれまでなるべく啓太の生活サイクルに合わせて昼に行動時間を決めていたのを、年相応の夜の時間に移行させた。そうすれば、勉強をしている和希の邪魔をする訳にもいかないと、啓太は諦めて自室に戻る様になった。それでもがっかりと肩を落として自室に戻る啓太に、和希は胸を痛めた。
 自分が啓太にこんな気持ちを抱かなければ、啓太に寂しい思いをさせずに済んだのにと。
 和希は毎日の様に自分を責め、心の中で啓太に謝罪し続けた。だが、そんな毎日を送っているというのに、和希の中から啓太への思いが消える事は無かった。


 そんな和希に気が付く事無く、啓太は健やかに成長していた。
 一緒に暮らし始めた当初はまだ幼子であったが、今年で12歳の少年になった。
 赤茶色の撥ねた髪や青い大きな瞳は変わらないが、ふとした仕草や表情は、もう和希が愛した小さな子供ではなくなっていた。
 白人の多い和希と啓太の暮らす地域では体は小さく見えるが、それでも日本人の平均よりは大きく、身長は160Bに届くくらいに伸びている。
 学業も、子供の頃から和希と同じ様に家庭教師がついていた所為か、同じ年の子供達よりも3学年早くスキップ制度で飛ばす事が出来て、今年度からは高校に通うことになった。
 和希の意向としては、自分が急いで沢山の知識を身につけなければならない代わりに、啓太にはゆっくり年相応の楽しみを追って欲しいと思っていたのだが、そこはやはり和希を見て育ってしまった所為か、啓太も和希に習う様に貪欲に知識を吸収していく。飛び級はその成果だったが、今の所啓太はまだ専門の分野を持っていなかった。どの教科も平均よりは遥かに高いレベルを持っているのだが、それら全てが幼い頃よりの英才教育の賜物とすぐにわかる程、特化している科目が無いのだ。故に、この先の高校生活でそれを見つけるのが啓太の当面の課題となっていた。
「でも、ジョシュア先生が和にいは俺に甘いって文句言ってるよ」
 和希の上から大人しくどいて、元のデッキチェアに座り直した啓太はくすくすと笑った。
「甘いかなぁ?」
「先生は『和希様はもう啓太君の年には高校の課程は終わりかけてましたよ』って、俺の成績表みて眉間にしわ寄せてる。だから遊びになんて行ってる暇ないってさ」
 啓太は自分の家庭教師のモノマネをしつつ、笑いながらも嫌そうに肩を竦める。
 それでも啓太も同じ事を思っているらしい事は日頃から和希もわかっていたので、苦笑と共に啓太をからかった。
「じゃあ、行くのヤメる?」
「やめないよ! 絶対行く! その為に俺、日本でもちゃんと勉強してたんだから!」
「おお、えらいえらい。それなら来週はちゃんと息抜きしような」
「うん! 久しぶりに目一杯和にいと一緒に居られるんだから、それまで頑張る!」
 飛び跳ねる様に椅子から降りて、啓太は自室に戻っていった。
 プールサイドに一人残った和希は、その後ろ姿を眺めて、ため息をついた。
(そんなに頑張らなくても良いんだけどな…)
 啓太が真剣に勉強に熱を入れる様になったのは去年からだった。
 その切っ掛けがわからない程、和希は鈍くなかった。
 全ては和希に追いつく為。
 純真な啓太は、和希と同じ時間を過ごしたいが為に、和希と同じ様な道に進む事を自ら望んでしまった。
 鈴菱の家は啓太を引き取った体面上、啓太に和希と同じ教育を施した。
 けれど、和希はそんな事は望んでいない。
 和希自身は幼い頃から神童と言われてきて、更に家の都合もあったからこそ駆け足で学生生活を送っているが、啓太は今は鈴菱が預かっているが、和希が決められている10年の留学期間が終わった後は啓太が希望しない限り伊藤の家に帰る事になっているのだ。そして普通の生活を送ることになる。将来的に和希の側に居るかどうかはその時啓太が判断すれば良いのだ。それには今、これほど啓太が頑張る必要は無い。
 啓太の安全を確保するのと和希と一緒に生活を送る事以外、啓太がアメリカに居る理由は無いのだ。
 年相応に普通に学校に通って学び、同年代の友達と楽しく過ごせば良いと和希は思っている。
 一緒に行こうと手を取ったのは、こんな事の為ではない。
 こんなに啓太に無理をさせるつもりは無かったと和希が考えても、結局は和希の行動が元での現状があり、その根源には和希の啓太への気持ちがあって、和希にも啓太をどう促していいのかわからなくなっていた。
 そして和希自身、啓太への気持ちをどうしていいのかもわからない。
 眠ってしまう前まで読んでいた哲学書にも、その答えは載っていなかった。

 

 

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