花のある家 Act,1

2007.4.29UP




 一寸先は闇。
 この諺を身を持って学習してしまった。

『1年C組の伊藤啓太君。職員室に電話が入っています。すぐに職員室まで来て下さい』
 職員室に電話がかかってくるなんて、ホントにとんでもない事態しか無い。
 その日、職員室にかかって来た俺宛の電話も、当然とんでもない内容だった。
「伊藤です。お手数おかけします」
「ああ、はい…気を確かに…ね」
「…はい?」
 言われた意味はその場ではわからなかったけど、5秒後にはその言葉を有り難く思う事になった。
 両親が、交通事故にあった。
 そして、即死だったと。

 病院に到着した時には二人は並んで寝かされていて、顔には白い布がかけられていた。
 今朝、当たり前の様に挨拶をして、お弁当を持たせてくれて俺を見送ってくれた母は、もう何も言う事はなかった。
 そして、今日出張から帰って来たら一緒に焼肉食べ放題に行く約束をしてくれていた父は、その約束を破った謝罪もしなかった。

 制服に花飾りの喪章を付けて、俺は喪主なんてものになって葬式を出した。
 皆が黒い服を着ている中、赤いブレザーの制服はとてつもなく浮いているけど、そんな事はどうだっていい。
 遺影は一ヶ月前の俺の高校の入学式の時の写真で、こういっちゃ何だけど、俺の通っているBL学園は世間でも名門で通っている所だから、両親とも誇らしげないい顔をしていると思う。でも、こんな事に使う写真の為に、俺はこの学校に入ったんじゃない。
 泣き過ぎて立つ事も出来ない妹を抱えながら、菩提寺のお坊さんに挨拶をして、なんだかんだと忙しく動いていた。だから、悲しみなんてわからなかったし、涙を流している暇もなかった。
 ただ、両親の棺の中の花がとても綺麗だと思っていた。
 両親のまわりを飾った菊だけじゃない。
 カーネーション。
 フリージア。
 スイートピー。
 彼岸花。
 色とりどりの花達は、事故で傷ついた母の顔を隠してくれた。
 表情のない筈の父の顔を、とても誇らしげなものに変えてくれた。

 葬式が一段落した後、警察がやって来た。
 俺は疲れを押しながらも、警察の説明を聞いていた。
 なんでも母の運転する車にトレーラーが高速道路で接触したらしい。
 母さんは父さんを羽田まで車で迎えに行くって言ってたから、その時の事なんだろう。

 でも、そんな経緯なんてどうでもいい。
 本当にどうでもいい訳じゃないけど、今その話をされても、これからどうしたらいいのかわかる訳じゃない。
 俺に縋り付いて、小学生の妹が泣いている。
 まだ11歳の妹。
 これから中学に上がって、高校に入って、能力次第では大学にも行って、運がよければお嫁に行く筈だ。
 親に相談したい事だって沢山ある筈で。
 まだ反抗期も迎えていない妹。
 親の存在が必要なんだ。
 だけど問題はそれだけじゃない。
 人並みに成長する為には、人並みの庇護が必要なのだ。
 社会的信用と、金。
 俺はもう義務教育を終えてるし、「独り立ちしろ」と言われれば断る事は出来ない。
 だけど、妹はそうはいかない。
 今までだってそこそこ仲の良かった妹は、今となってはただ一人の家族だ。どうあっても守ってあげなければならない。




 こんな不幸な事の中でも一つだけマシな事があった。
 俺の両親は堅実な人達で、しっかりと保険にも入っていてくれていたという事。
 しかも、事故の相手は大きな運送会社で、しっかりと保証も受けられた。
 当面、金銭的な問題は無いくらいの金額を提示されて、少しホッとした。
 けれど妹の保護者になる為には、金だけではどうしようもない。
 それに、この先何があるかわからないのだ。
 両親が突然いなくなった様に、俺だっていつ何時いなくなるかわからない訳で。
 つまりは、今手元にある金は容易には使えないという事なのだ。
 総合的に考えれば、やっぱり俺は学校を辞めて働くのが一番だと思う。
 貯金通帳を睨みつけてリビングで一人で唸っていると、心細げな顔をした妹が俺の顔を覗き込んだ。
「…お兄ちゃん」
「ん?何?眠れない?」
 妹…朋子は、葬式以来まともに睡眠を取れない状態にある。
 精神的に追いつめられているのだろう。
 今までは「寝るな」と言っても寝ていた様な子が、目の下に隈を作っている。
 可哀相だ、と、心底思う。
「明日からはもう学校に行かなきゃいけないからな。ちゃんと寝ないと…牛乳あっためてあげようか?」
「お兄ちゃんこそ、ちゃんと寝ないとダメだよ」
「あー…」
 まあ、斯く言う俺も同じ様な状態だけどね。
 でも俺は、精神的に追いつめられているというよりは、どちらかと言うと考えなきゃならない事が多過ぎて寝られないって言った方が合っている。
「…じゃあ、二人分だな」
 乱暴に頭を撫でて、俺は台所に向かった。

 母さんがいた頃は、台所になんか立った事は殆どない。
 だから、何が何処にあるのかって言うのは、この一週間で知ったくらいだ。
 でも自己弁護させてもらえば、同じくらいの年頃の男で、自分の家の台所で何が何処にあるのか把握している様な奴の方が珍しいと思う。
(…でも)
 クラスメイトの顔を思い出していたら、そう言う事を把握していそうなヤツを一人思いついた。
 遠藤和希。
 男子校のくせに何故かある手芸部とかに所属して、教室でも楽しそうに編み物とかしている変わったヤツだ。
 俺が『伊藤』だから出席番号が後ろの『遠藤』とは、結構話をしている。出席番号順の席順だからすぐ後ろだし、何かと話す機会が多い。いつも柔らかい笑顔で、色々と俺の世話を焼いてくれるんだ。
 欠席する事が多いけど、結構仲がいい奴だ。…変わり者だけどね。
 一度、あんまりにも楽しそうに編み物をしているから「誰かへのプレゼント?」ってからかい半分に聞いたら、「いつか彼女が出来た時の為の練習」と、こちらも冗談で終わらせられた。逃げ口上のうまいヤツと、その時は笑った。でも、そういう奴だったらきっと今の俺の状況に放り込まれても、もっと妹にもうまく立ち回れるんだろうなと思った。あんな、心配そうな顔をさせずにいられる言葉を吐けるんだろうなと思った。


 牛乳を鍋で沸かして砂糖を加え、二人分のカップに注いでリビングに戻ると、朋子は両親のお骨の前で何かを考え込んでいた。
「とーも。牛乳湧かしたよ。冷めないうちに飲も?」
「お兄ちゃん…」
 妹の思い詰めた声に、一瞬足が止まる。
 それでも何とか足を動かして、ちゃぶ台の上にカップを置いた。
「何?」
「あたし…おばさんの家に行くよ」
 俺がまだ高校生な事と妹の年齢もあって、母さんの妹は朋子の事を引き取ると言った。
 それも、養育費とかもいらないって言っていた。
 自分の子供として、朋子の事を育ててくれるって。
 母さんとおばさんは本当に仲の良い姉妹で、しょっちゅう電話もしていたし、家の行き来もあった。それに、おばさんは俺達の事も心から可愛がってくれていた。だからおばさんの言葉を疑う事は無かったし、本当に俺達の事を考えてくれた結果だともわかっていた。
 でも、俺はそれに即断りを入れた。
 たった一人残った家族と、どうしても別れたくなかったから。
 父さんと母さんが与えてくれた家族と、どうしても離れられないって思った。
「朋は、兄ちゃんとじゃ不安?俺だけじゃ、朋子は恐い?」
「そんな事ないよ。出来ればあたしだってお兄ちゃんとは離れたくない。でも…あたしがいたら、お兄ちゃんが大変だから…」
「大変じゃないよ。俺は、トモがいてくれて良かったって思ってる。トモがいてくれるから、俺は今色々考えられるんだよ」
 考えて、生きていける。
 こんなに辛い事なのに、俺はちゃんと腹も減るし、前より時間は少なくてもちゃんと寝られる。
 コイツがいてくれるから。
「でも…あたしまだ小学生だから、どうしたってお兄ちゃんの負担になるだけじゃん」
「だから負担じゃないって。たった一人の兄弟だろ?馬鹿な事考えんな。まあ、トモが俺のメシよりおばさんのメシがいいって言うなら仕方ないけどね」
 涙目な妹に態とらしいくらい明るくウィンクをして、俺はちょっと冷めてしまったホットミルクに口をつけた。
「…確かに、お兄ちゃんのご飯はまずい」
「うるさいなぁ。そんな事言うならトモが作れよ」
「いいよ。明日からあたしが作ってあげるよ」
 笑顔の戻った妹の顔を見て、忌引きが終わる明日を思いつつも、葬式以来初めて二人で笑い合った。




「うーん、まあ、そう言うとは思ったけどね」
 職員室で担任に退学の意思を伝えると、案の定眉を顰められた。
「妹もまだ小さいですし、給料安くてもちゃんと会社に勤めた方がいいと思うんです」
「でもなぁ…中卒じゃ、まともな就職先なんて望めないよ?やっぱりちゃんとココ出た方がいいんじゃない?妹さん、まだ小学校5年生でしょ?高校に上がるまでには後5年あるんだし、そうなったら伊藤君だって高卒でちゃんと働いてるんだから問題無いじゃん」
 この学園は授業料は安い。
 名門私立なのに企業が余剰利益で運営している所為で、その辺の公立並みの授業料なのだ。
 だからその気になればバイト代でまかなえるんだけど、それでも生活費とかを考えると足りないと思うんだ。
「でも…女の子だし、この先何があるかわからないから、なるべく親の残したものに手は付けたくないんです」
「うーん…でもねぇ…」
 膝を突き合わせて担任と話をしていると、聞き慣れた声が上から降って来た。
「そんな伊藤君に、いいお話がありますよ」
 顔を上げると、そこにはいつも仲良くしてくれる先輩が立っていた。
「七条さん」
「今日は伊藤君。それと、この度は御愁傷様です」
 いつでも消す事の無い笑顔を消して、七条さんは俺にお辞儀をしてくれた。
「何言ってるんですか。お通夜の時にそれ、言ってくれましたよ」
「まあ、そうなんですけどね」
 七条さんは困った様に俺の頭を撫でた。
 顔の所為か、体格の所為か。俺はいろんな人に頭を撫でられる。一番酷いのはココの学生会会長。俺を見るなり走り寄って来て、グローブみたいな大きな手で人の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜるんだ。
 でもそれが皆の俺に対する愛情表現だってわかってるから、苦笑するしかない訳で。
「それで、いい話って何ですか?」
 話の冒頭を聞き返すと、七条さんはやっといつもの笑みを浮かべて話し始めた。
「先に聞きますけど…先生。僕の記憶ではこの学園はバイト禁止じゃなかったと思うんですが」
「え?バイト?うん、大丈夫だよ」
 ただこの学園で、バイトをする様な必要性を持つ生徒があまりいないってだけなんだけどね。
 この学園は名門だけあって、いいとこのお坊ちゃんが集ってるんだ。その中で庶民な俺はかなり浮いている。
「それでしたら一件、割のいいバイトのお話があります。偶然一昨日僕の所に来た話なんですけどね」
 それは…。
「あの、七条さんの所に来るバイトの話が、俺に出来るとも思えないんですけど」
 この七条さん。知る人ぞ知るプログラムの天才なのだ。今からいろんな大手企業が、七条さんの獲得を狙ってるって話。
「僕に出来ないバイトの話だから、伊藤君にするんですよ」
 七条さんが出来なくて、俺が出来るバイト?
 そんなの、想像がつかない。
「僕も先生が仰る通り、ココで伊藤君がこの学園をやめる事は早計だと思います。今の社会では、高校くらい出ておかないと話になりませんから。妹さんの事を考えるなら、キチンと高校は出ておいた方がいいと思います」
「まあ…そうなんですけど…」
 それでも、学生をやりながら出来るバイトなんて、収入はたかが知れている。それに学費だってかかるんだ。
「そこでですね。先程のバイトのお話です。アルバイトと言っても扱いは準社員で、有休、ボーナスあり。でも不定休です」
 別に不定休なのはかまわない。もともと休みなんて期待していないし。
「それと、その就職先がですね、ちゃんと企業なんですよ」
「…それ、高校生が出来るんですか?」
 さっきの先生の話じゃないけど、中卒で採用する様なものだ。企業がそんな事するのか?
「勿論出来ます。僕の所にまわって来た話なんですから」
 それもそうだ。
「でも職種がですね…」
 …なんだろう。
 凄い変な仕事とか?
「所謂、『メイド』さんなんです」
 …………。
「……メイドさん?」
「はい」
 メイドさんって…あのフリフリのエプロン付けて「行ってらっしゃいませご主人様」とかやるあれか?
「…伊藤君、変な事考えてません?別にフリフリのエプロン付けて「行ってらっしゃいませご主人様」とかやる訳じゃないですよ?」
 うわっ…。一言一句間違えずに言い当てられた。
「ただ単に、家のメンテナンスですね。ああ、家政婦さんっていう言い方もあります」
 なら最初から『家政婦』って言って下さいよ…。
「僕は今母が単身赴任してますので一人暮らしなんですよ。それで、一人暮らししてるくらいならどうかって言われたんですけど、僕は家事が嫌いなので考えるまでもなくてですね」
「でも、俺も家事は苦手ですよ」
「でも今、お家でもやっている事でしょ?」
 それは、やってるんだけど…。
「でも、俺のメシはまずいって妹も言ってます」
 ちょっと膨れて告白したら、七条さんと先生は盛大に吹き出してくれた。
「まあでも…」
 目尻に溜った涙を拭いながら、七条さんは言葉を続ける。
「業務内容はきちんと説明を受けて、それから考えてみても良いんじゃないですか?学業を続けながら出来るって所が魅力なんですし」
 まあ、確かに。
 それに、有休とボーナスは魅力的だ。
 どうしたって妹の学校行事とかで休まなくちゃいけなくなるだろうし、少しでも年収は上がる方が良い。
「伊藤君、取りあえず聞きに行ってみたら?七条君の所に来た話だから、伊藤君でも雇ってもらえるかも問題なんだし。それに、条件的にはいいじゃない」
 そうか。そうだよな。
 俺で雇ってもらえるかも問題なんだよな。
「…有り難うございます。俺、連絡してみます」
 とにもかくにも職を得るのが一番だ。動いてみて、それから考えよう。
「学校の方はもう暫く在籍させてもらいます。成績とか下がっちゃったらすみません」
「それはダメー。わからない所があったら、ちょっとでも聞きに来てくれれば教えてあげるから頑張って!」
「僕も応援させて頂きますよ」
 俺の言葉に、七条さんと先生は安心した様に笑ってくれた。




 3日後。
 七条さんが連絡を取ってくれて、俺は面接に来ていた。
 そこは世界に名立たる鈴菱グループの…経営する学園の職員棟だった。
 つまりは、学内。
 2階が職員室で、今俺がいるのは6階の理事会の人達が利用しているフロアだ。
「…はー…」
 学生が利用する場所との違いに、ため息が出る。
 それはもう、もの凄く豪華だ。
 なんか絵とか飾ってあるし、ソファもふかふか。
 制服でココにいるのはものすっごく場違いな気がするけど、指定された場所がココなんだから仕方ない。
「お待たせしました。伊藤…啓太君ですね?」
「あ…はいっ!」
 ドアの開く音と共に落ち着いた声で呼ばれて、俺は慌てて立ち上がった。
 足音が聞こえなかったんだよな…。絨毯ふかふかだから、歩いても音がしないんだ。
「ああ、そんなに緊張しなくていいですよ。私は石塚と言います」
 穏やかに笑ってくれて『石塚さん』は、俺にソファーを勧めて自分も俺の目の前に座った。
 紺のスーツが似合ってて、すごい大人の男って感じの人だ。
 でも目つきが優しい所為なのか、すごく安心する。
「それでは、簡単な面接をさせて頂きます」
「はい。宜しくお願いします」
 実は俺、バイトって初めてなんだよね。
 っていうか、自分でお金って稼いだ事が無い。
 今年の夏にやってみようって思ってたけど、就労経験は皆無。
 大丈夫なのかな…。
「では、月並みですが希望理由をお願いします」
 手元にある書類らしき紙を捲りながら、石塚さんは俺の言葉を待っている。
「今月、両親を事故で亡くしまして、妹と二人になってしまったので俺が働かなければならなくなったからです」
「ああ、そうですか…それは御愁傷様です」
「あ、いえ…」
 ココでこの言葉を言われるとは思わなかった。
 でも石塚さんは上辺だけで言ったんじゃないみたいで、目に涙まで浮かべている。
 この人、いい人?
「では次に、七条君から話は聞いているかもしれませんが、この仕事は所謂『メイド』です。それについては何か思いますか?」
「メイドって仕事がよくわからないんですが、俺に出来る事なら何でもしようと思っていますので抵抗などはないです」
「えらいですね。その『何でもする』という心が大切なんですよ」
「あ…はは、はい」
 うんうんと頷きながら、石塚さんは笑顔だ。
「どんな仕事でも同じなんです。私は今秘書ですが、秘書もメイドも結局は同じだと思ってます。どんなケースに陥るかわからない訳ですし、結局は『どんな事でも』という言葉に尽きると思いますよ」
 そうだよな。
 いい事言う!
 面接をしてくれている人ってだけだけど、俺はこの石塚さんが好きになって来た。
「志望理由も伊藤君の口から聞きましたし、もともと七条君からも話を聞いてますから、こちらとしては伊藤君に働いて頂いて問題無いです」
 やった!
 俺は心の中でガッツポーズをとった。
 これで少しは心に余裕が持てそうだ。
「それでは業務内容と労働条件を説明します」

 労働条件は、七条さんに聞いた通り。
 扱いは鈴菱薬剤研究所準社員。
 給与は月給制で20万。
 有休は初年度10日。
 ボーナスは年により変動で年二回。(現在2.4ヶ月)
 勤務時間は基本8時間。(完全フレックス)
 夜勤あり。

 給料が大卒以上な所にびっくりした。
 この3日で調べたけど、高卒の給料ですら月額15万がいい所だ。
 夜勤がちょっと引っかかるけど、その日だけ朋子を近所にお願いすれば何とかなるかも。

 そして業務内容は、まあ想像通りの家政婦さん。
 家の中の清掃、管理。
 家主が帰宅時のみ、食事の支度。
 宅急便や郵便物の受け取り。

 主なものがこの3つ。
 今家でやっている事と変わらない。
 だけど、一点大問題が待っていた。
「住込みでお願いします」
 …住み込み。
 って言う事は、今の家を出なければならない訳で。
 家には朋子一人になってしまう。


 途端に曇った俺の表情に、石塚さんは怪訝な顔をした。
「何か、問題がありますか?」
 あるんですよ…。
「あの…俺、住込み出来ません」
 小学生の妹を一人暮らしさせる訳にはいかないもん。
「妹さんの事ですか?」
「はい。俺が家を出たら、妹が一人になってしまいます。妹はまだ小学生ですので、一人暮らしをさせるのはちょっと…」
 まあこれが中学生になってたとしても、女の子を一人暮らしさせる訳にはいかないと俺は思っている。考えが古いかもしれないけどね。
 俺が断ろうとした時、石塚さんは先手を打って口を開いた。
「転校とかは、どうですか?」
「…転校?」
 って、誰が?
「あ、すみません。少しお時間いいですか?」
「あ…はい」
 お時間って…俺が石塚さんの『お時間』を頂いている立場なのに。
 バイトの面接に来た俺に、とても腰の低い石塚さんがちょっと面白かった。
 石塚さんは一旦部屋を出て、3分後には戻って来た。
「お待たせしました。それでですね。よろしければ妹さんもご一緒でという事でいかがでしょうか?」
「…は?」
 仕事に家族を連れて行っていいのか?
 まあいいんなら願ってもない事だけど…。
「いえね。先程からお話させて頂いていて、伊藤君のお人柄がとても気に入ったんですよ。そんなにお若いのに、しっかりとご家族の事を考えていて、そして優しい。家の中に居てもらう人には、とても大切な要素です。その上実直だと思います。これだけの好条件を並べられても、しっかりとご自分の足下を見ていられる事は素晴らしい事です。ですから多少の事は無理をおしても、是非伊藤君に勤めて頂きたいと私は思いました」
「いや、そんな大した人間じゃないですよ、俺」
「いえいえ、何を言いますか。それに、面接に来たら先ず自分をアピールしませんとね?」
 ああ、そうか。
 別に誉められてるだけじゃなかった。
 あんまりにも石塚さんの腰が低いから、なんか俺勘違いし始めてた。
「そこで今、雇い主に連絡を入れてみました。伊藤君の事情を説明したら、妹さんも一緒に住んではどうかと言っています」
 朋子も一緒でいいって言うなら…。
 ああでも、そんなに一遍に環境が変わっても大丈夫だろうか。
「あの…妹に聞いてみていいですか?俺はすぐにでもお願いしたいんですが、こればっかりは本人に聞いてみないと…」
 只でさえ両親が居なくなって心細い思いをしているんだ。その上友達まで一気に変わってしまったら、どのくらい心細いだろう。
「そうですね。お気持ちの問題もあるでしょうし…何より11歳と言うと、難しい年頃ですしね」
 難しい年頃って…そうなのか?
 あいつ、結構明るいけど…。
「それじゃあ…3日程お時間頂けますか?」
「はい。お返事はお待ちしてます」




 面接を終えて家に帰ると、既に朋子は帰って来ていてご飯の支度をしてくれていた。
「おかえりー」
「ただいま」
 学校が始まった日、前の日の夜の話通りに朋子がご飯を作り始めたんだけど、悔しい事に俺より美味い。
 朋子曰く「お菓子は沢山作ってたからね。食材が違うだけじゃん」との事。
 俺だって本見ながら作ってたのに、どうしてこうも違うものが出来上がるんだろう。
 朋子が作ってくれた晩ご飯を食べて、食後のお茶を飲んでいる時に俺は今日の話をした。
「…という訳なんだけど、お前、転校とかしてもいい?」
 やっぱり朋子は顔を顰めた。
 そりゃ、嫌だよな。
 只でさえ家族構成が一変したのに、その上生活環境まで変わるなんて…。
 でも、俺が想像していたのとは違う言葉が妹からは流れて来た。
「何でそんな話、あたしに相談するの?」
「え?だって、朋子だって考えるだろ?」
 全然生活が変わっちゃうんだぞ?…と言いかけた所で、妹は大きなため息を付いた。
「あのさぁ、親が転勤の話を子供に一々相談する?その仕事、お兄ちゃんいいって思ったんでしょ?しかも条件最高だし。あたしっていうコブがついててオッケーなんて、滅多にないじゃない」
「いやまあ、そうなんだけど…」
「ご飯はあたしが担当するよ。お兄ちゃんのご飯はホントにまずいから」
 あんまりにもあっさりと言いきられて、俺はぽかんと妹の顔を眺めてしまった。
 女の子って、強い。
 いや、朋子が強いのか?


 そんなこんなで、俺のメイド生活は始まる事になった。

 

 

NEXT

 


TITL TOP