DEAR〜親愛なるあなた様へ〜 和希編

2004.10.18UP




「おじい様が危篤です。即刻の帰国をお願い致します」

 何か月かぶりの国際電話は、現在の自分を作り上げた尊敬するグループの総帥であり、また、この上ない愛情を与えてくれた祖父の秘書からだった。
「…容態は?」
「末期ガンの宣告から3か月目ですし、お年もお年ですから…もって一週間との事です。意識の方はまだなんとか保っておられる様ですが…」
「…そうか。…判った。明日の朝一の便を手配してくれないか。少しでも早くそちらに着ける様善処する」
「判りました。おじい様も和希様のお名前を、只ひたすらに呼んでおいでです」
 幼い頃からことさらに自分を可愛がってくれていた祖父。
 父を褒め、さすがはその息子と親子そろって祖父には言い表せないほどの愛情をかけて貰っていた。
「そうか…『すぐに参ります』と伝えてくれないか」
「はい。承知致しました。飛行機の方はすぐに手配をさせて頂きます。折り返しお電話させて頂きますので少々お待ち下さいませ」

 受話器をおいて、ため息が出る。
 いつかは来るであろうと思っていたこの瞬間が、これほど堪えるとは想像もつかなかった。
 それほど祖父の愛情に依存していた自分に、不謹慎にも笑いさえ起こる。
「ダメだな…こんなことじゃ。あの子を守れやしない」
 震える手で、ぼろぼろになった写真を掴み、その人物を指でたどる。
「もう…何年かな。啓太。お前は大きくなったのに…和兄はちっとも大きくなれないよ」
 長い年月を重ねても、鮮明に浮かぶ光景。
 日本での最後の夏が、今までの自分の苦難を乗り越えさせて来た。

 習慣の違う異国での暮らし。
 息も付かせぬような競争。
 自分の身の上をうらやんでは嫌がらせを仕掛けてくるもの達への応対。
 それら全てがあの約束によって乗り越えられて来た。

『一人の人間を守れる様な、強い人間になりなさい』

 出国の時、祖父が自分にくれた言葉。
 あの思いでと共に自分の心に強く刻み込んできた言葉が、悲しみを更に助長させている。

「ははっ…ホント、ダメだな」
 自嘲的な笑みが顔を被うのを止める事も出来ずに、取り急ぎの旅行道具を用意し始める。
 手は振るえ、思考はまとまりがつかない中ではたいした用意も出来る分けもない。
「この後…どうなるのかな」
 ワールドワイドに展開されている企業が、頭一つでつぶれる事はよくある話だ。
 だが、自分の父も一流の経営者である事は十二分に理解をしている。
 その理解の方法は、祖父に叩き込まれた。
 だが、次代と言われている自分はどうだ。
 庇護者の死一つでこんなにも動揺している。
 一瞬の動揺が、何千、何万の社員の生活を揺るがすと言うのに…
 その上、自分達が継ぐであろう莫大な財産。
 事、金と言う物は人の心を汚くする。
 祖父の死を労る時間があるのであろうかと考えると、帰国自体が気の重いモノに変って行く。
 あの秘書の口振りから行くと、既にその争いは始まっているのであろう。
 父一人では、親族問題になると些か心細いと言った所か。
「まだ亡くなった訳でもないのに…」
 昔から事ある毎にアピールを繰り返しては、自分達親子の揚げ足を取ろうとしていた自称親戚達の顔が浮かぶ。
 和希がもっとも嫌う人種と、もうすぐ立ち会わなければならない。
 只でさえ祖父との別れを目の前にして気持ちが揺れていると言うのに…。
 いっそこのまま、一人でひっそりと祖父の事を想い、過ごした方が良いのではない?そかとさえ思い初めてしまう。
 そんな考えても仕様がない事ばかりが頭を駆け巡り始めた頃、再び電話のベルが部屋に響きわたった。
「…Yes?」
「和希様。お待たせ致しました。明日のニューヨーク時間AM9:45分発の成田直行便のお席を確保致しましたので、よろしくお願い致します」
「ああ、有難う」
 動揺で、それ以上の言葉が続かない。
「…差し出がましいですが…大丈夫ですか?」
「え?ああ、悪い。大丈夫だよ。心配かけてすまない」
「いえ。代々お使えさせて頂いている私に、遠慮は無用でございますよ」
「ははっ、そうだね。俺の出国の時に手続きしてくれたのも貴方だったよね」
 少し年配の電話の向こうの秘書は、実に上手く、この若造の気を紛らわそうとしてくれていた。
「…そうです、和希様。せっかくこちらに5年ぶりにお戻りになられるのですから、件の少年にでもお会いに行かれたらいかがですか?おじい様の病院とは目と鼻の先でございますし…」
 手の中の写真に目を落とす。
 そうだ。
 啓太のいる国へ帰るのだ。
「住所的には問題ないだろうけど…やめておくよ」
「何故です?」
「少しでも長く、じい様の傍に居たいからね」
 半分は嘘だけど…
「それは失礼いたしました。お二人は実に仲睦まじいご関係に思えましたので…和希様のお心の支えにでもと、出過ぎた事を申しました」
「いや、気遣ってくれてありがとう。一段落したらそれも考えてみるよ」
「そうですか…それではご到着を空港でお待ちしておりますので」
「ああ、よろしく」
「それではお気をつけて」

 再び受話器を置いて、写真を眺める。
 さっきの嘘は、自分の為。
 今はまだ、啓太に会える自信がない。
 それでも彼の事を考えるだけで先程からの震えが止まっていた。
「…不甲斐無いなあ」
 本当に情けなくて涙が出る。
 机の脇に重ねられている調査書が目に止まる。
 書類の中の啓太は例の薬の副作用に脅かされる事も無く、屈託のない笑顔のまま成長を続けていた。
 自分が生まれて初めて、誰に諭される事も無く『守りたい』と強く願った笑顔。
 そして、そこに見つけられた自分の存在理由。
 大企業『鈴菱』の後継者としてではなく、『鈴菱和希』としての自分の存在目的。
「もう少し…俺が大人になるまで支えてくれ。啓太」
 何度も調査書を読み返しているうちに憶えてしまったアドレスを、手近にあった封筒に書き連ねる。
 でもきっと、彼は自分の事は忘れてしまっているだろうから、名前は書かない。
 彼に自分からの手紙が届いても、きっと良いことは無いだろうから。
 彼を守れる様になるまでは、彼と関係をつなぐ事は出来ない。
 けれども、大人にならなければならなくなった現在に、必要な儀式としてこの手紙だけでも……
「啓太、和兄に勇気をくれ」
 自分勝手な思いを綴った手紙を封筒に入れて、ジャケットの内ポケットに忍ばせる。
「……行きますか」
 誰に聞こえる訳でもない台詞を呟いて、待ち受けているであろう醜い争いに向けて足を踏み出した。


 Dear”親愛なるあなた様へ”
 いつでも貴方の事を思っています。
 近くにいる事は出来ないけれど、貴方の成長をなにより嬉しく感じます。
 いつか、お会い出来る事を心待ちにしています。


 一番心の中心にいる君へ
 せめて想いだけでも伝える事を許して下さい。
 自分が強くいられる為に…………

 

 

NEXT→啓太編

 


TITL TOP