あした となりには Act,6


2007.2.17UP




 記憶を失って3年の月日が流れたが、啓太は依然として何も思い出す事はなかった。だが、啓太は今の生活に満足していた。大学生活も軌道に乗り、アルバイトも始めた。サークル活動も勉強も何も問題はなく、家族仲も非常に良く、幼馴染みとの時間も変わりなく楽しめる。そして、恋も。
 男子校から共学に進み、啓太は同期生の女の子に恋をした。それは、記憶をなくしてから初めての恋。初めは普通の友達だった。同じサークルに所属していた彼女は、とても気さくでアグレッシブなタイプだった。男女問わずに人気が高く、容姿も抜群。そして、何よりも薄い色素の細い髪の毛が、啓太の目を惹いた。目の前でその髪の毛が揺れる度、どきりと心臓が一つ、大きく波打つのだ。それを『恋』だと認識したのは、他の友人に指摘されてだった。当然、啓太以外の男子生徒も彼女にほのかな思いを寄せていたが、夏休み前に突然、高校から引き続き同じ学校に通う事になった先輩である丹羽に、その彼女との間を取り持たれた。正直、啓太は舞い上がった。いつでも目で追っていた薄茶色の髪の毛の彼女。啓太自身、その感情を『恋』だと認識していたので、一も二もなくOKした。自分の心を疑う事なく。
 そして、丹羽のいつもは覇気のある視線が、微妙に揺れ動いているのにも気が付かずに。




「今度の日曜、どこに行ったらいいと思う?」
 毎月恒例の和希との時間に、啓太は何気なく相談した。
「何で俺に聞くんだよ」
「だって、和希なら女の喜びそうな所知ってると思ってさ」
「そんなの、人に拠るだろ」
「んー、そう言われればそうだけど」
 啓太の検査結果の記された紙を眺めながら、和希は何気なさを装って会話を拒否する。己の気持ちに気が付いてしまった和希にとって、啓太の恋路を聞く事は苦痛以外の何ものでもなく、だからと言って露骨にそれを表現出来る程、青くもなかった。
「でもさ。ほら、女の子の共通の夢とか、なんか良いアイディアない?」
 和希の気持ちなど知りもしない啓太は、しつこく食い下がる。それを、和希が邪見に出来る訳もなかった。
「彼女は、行きたい所とか言わない訳?」
「んにゃ、言ってるけど…」
「じゃあ、問題ないじゃないか」
「いや、それが問題あるんだ」
「………なんで?」
 的を得ない啓太の言葉に、和希は溜め息を飲み込んで啓太に視線を向けた。眉間に皺を寄せながら、真剣に悩んでいるらしい啓太を視界に入れると、和希の胸はやはり暖かくなる。相手にされようがされまいが、己の心は変わらない物だと痛感させられる。それが尚更、和希の恋心が本物であると和希に告げていた。
「いや、さ。俺って女の子と付き合った記憶ないじゃん?」
「まあ、そうだな」
「だから、どこが喜ぶのかわかんないんだよな」
「でも、ちゃんと何処に行きたいか言ってくれてるんだろ?」
「それがさぁ。あいつの言う事ずっと聞く一方にしてたら、たまには俺が考えた所に連れてけって言うんだよ」
「……成る程」
 女性とは、斯くも面倒な物だ。相手の意思ばかり尊重していると、返ってそれが徒になる場合もある。
「でも、そう言う事なら尚更俺がアドバイスするのはまずいだろ」
「なんで?」
 啓太はきょとんと小首をかしげた。
(こいつ、コレで彼女がいるんだよな………)
 その動作の愛らしさに、和希は複雑な心境に陥った。
「……なんだよ。俺の顔になんか付いてる?」
「いや…別に」
 和希は思わず啓太の顔を凝視してしまい、慌てて視線を逸らせる。そんな和希を啓太は不思議な気持ちで見ていたが、背後から響く着信音に、思考は寸断された。
「ちょっとゴメン」
「いいよ」
 和希に一言断って、啓太は電話に出た。
「はい……ああ、うん。大丈夫だけど………え?………あはははっ、うん。人いるよ。………幼馴染みのお兄ちゃん…うん…」
 会話の内容から、おそらく啓太の彼女であると判断した和希は、そっと部屋を出ようとした。それは、邪魔をしてはいけないといった純粋な配慮だけでは無かったのだが、啓太にはそれは当然伝わる筈もない。
「あ、ちょっと待って……和希、大丈夫だよ?」
「いや、おばさんともちょっと話があるから、ゆっくり話してろよ」
「え?でも…。……あ、ゴメン、後でまた電話するよ」
 和希が行動を起こそうとした所で、啓太は慌てて電話を切ってしまった。
「よかったのか?彼女だったんだろ?」
「ん、別に良い。折角和希がいるのに電話なんかしてたら勿体ないじゃん」
 当然のように言い放つ啓太に、和希は内心嬉しく思いながらも首を傾げる。
「啓太…それ、なんか優先順位違わないか?」
「え?なんで?」
「普通、彼女が一番だろ」
「だって、あいつとはいつでも会えるけど、和希とはあんまり会えないじゃないか」
「いや、そう言う問題でも…」
 普通、恋をしていれば、当然のようにその恋の相手が何よりも優先される筈。友達など、それこそ二の次、三の次になってしまうのが当たり前の事だ。いつでも会っていたい。いつでも声を聞いていたい。いつでも触れ合っていたい。そう思うのが当然の事だ。付き合い始めて直ぐなど、それは顕著に現れる物だ。だが、啓太は彼女よりも和希を優先させた。和希は、啓太が自分に気を使っているのかと伺い見たが、啓太は楽しそうに和希の隣に座っている。
(普通の恋って、こんな物なのか?)
 和希もまた、恋をしていた記憶は無いのだ。嘗て、自分がしていたであろう恋は、どんな物だったのかと和希は思う。今のように、心の大半を奪われる様な恋だったのか。それとも、啓太の様にあっさりとした物だったのだろうか。いくら考えてもわかる筈の無い答えを、和希は啓太のまだ少しあどけない横顔に探した。その和希の視線を受けてか、啓太は体ごと和希に振り向く。
「そう。だからさ」
「な、何?」
 急に向けられた視線に、和希は少し動揺しつつも、何とか返答する。
「どこに出かけたらいいと思うって話だけどさ。ホントに俺、わかんないんだよ。だから、アドバイスちょうだい」
「いや、だからさぁ。それじゃ啓太の考えた所じゃなくなるだろ?大体、お前は彼女を連れて行きたい所は無いのかよ」
 和希の質問に、啓太は「うーん」と唸り、暫しの間眉間に皺を寄せて考えた。そして、ぱっとひらめいた様に顔を上げ、身を乗り出す様に和希に問いかける。
「あのさ!和希、今度の日曜日暇?」
「は?」
 会話の冒頭に、啓太はその日に彼女と出かける予定だと告げていたのに、何故か啓太は和希に予定を問う。
「えっ…と、何で?」
 嫌な予感を胸に秘めつつ、和希は啓太に問い返した。
「俺、連れて行きたい所あった!和希に会わせたい!」
 啓太が和希の予定を聞いてきた段階で何となく予想はしていたが、和希にとってあまり嬉しい申し出ではない。和希にとっては、わざわざ失恋を確認しに行く様な物だ。そんな和希の心情などまるで理解しない啓太は、一人で「ナイスアイディア」と喜んでいた。
「あー…、俺なんかに会わせても仕方ないだろ」
「そんな事ないよ!俺、いっつも和希の話してるもん。あいつも一度会ってみたいって言ってたし!」
(どんな話をしてるんだ…)
 今までの啓太と和希の関わりで、啓太が何をそんなに和希の事に付いて話す事があるのかと、和希は思った。僅かに頬を引きつらせた和希に、啓太は笑って補足する。
「あ、別に変な事は言ってないよ?ただ、幼馴染みのお兄ちゃんは優しいんだよーって言ってるだけだから」
 普段の啓太と和希の会話を考えると、とてもそれだけじゃ話は終わらせそうになかった。
「………それと?それだけじゃないだろ?」
 和希は、いつも啓太が自分に話す周りの人間についての会話を思い出し、続きを促す。
「うーん。後は、俺に三途の川を見せた人で、子供の頃の記憶がなくなった原因の人って言ってるだけ」
「十分変な事じゃないか!」
「そう?事実を述べたまでだよ?あー、後は、童顔な人ってのも言ってる」
「童顔で悪かったな!気にしてるんだから言うな!」
「あれ?気にしてたの?」
 ケラケラと楽しそうに啓太は笑う。和希は一つ、大きな溜め息をついて話を戻す。
「まあ、俺については良いとして。俺と会わせるのはダメ」
「えーっ!ダメなのか?」
 啓太は心底残念そうに叫ぶ。
「何で?何か用事でもある?」
「……実家に顔見せる事になってるんだ」
 和希の言葉は嘘だった。本当の理由は、やはり啓太の彼女とは会いたくなかったからだ。和希が望んでいる場所にいる人。啓太の彼女へ向ける視線を見たくないと思ったのだ。けれど、啓太はそれを疑う事無く信じた。
「そっかー。そうだよなぁ。和希、一人暮らししてるんだもんなぁ。たまには、おじさんもおばさんも和希に会いたいよな」
「んー、まあ、そうなのかな」
 頬を掻きながら視線を逸らせて曖昧に返事をした和希に、啓太は違和感を感じた。和希のその行動と言葉に、懐かしさを覚えたのである。
(なんか、変…。和希のこの行動って…何処かで見た気がする)
 記憶を失ってから和希は啓太に対して、特に誤摩化す事は無くなっていた。学生でもなく、恋人同士でもない全くの普通の友人に、誤摩化さなければいけない事などはない。故に、啓太は和希のこの行動を見る機会など無かった。
「………和希、なんか…誤摩化してる?」
「え………?」
 思案げな顔で、啓太は和希を見つめる。
「和希って…なんか誤摩化す時、いっつも頬掻いて視線逸らせた…よな」
「えっ!そうか?」
 和希は、自分の考えを読まれたものと思い、慌てて手を膝に降ろす。だが、啓太が考えている事は誤摩化された事実ではなく、和希の行動に懐かしさを覚えた事だった。
「………啓太?」
 黙ったまま、和希の手に視線を送り続ける啓太に、和希は恐る恐る声をかける。その和希の声に、啓太はハッとしたように顔を上げた。
「あ………、ゴメン。なんかぼーっとしちゃった」
「いや、いいけど…」
(なんだろう…ホントに凄く懐かしい気がする)
 啓太は記憶の欠片を引き寄せる様に、和希を見つめ続けた。だが、その思考は当の和希によって打破されてしまう。
「あ、そうそう。ちょっと啓太のおばさんと話があるんだよ」
「…え?ああ、そう言えばさっきそんな事言ってたよね。何の話?」
「ん?知りたい?」
 和希はいつも通りの笑顔を顔にのせて、普段通りに話をし始めた。その事によって、啓太も心の霧を晴らす。
「知りたいっていうか、気になる」
「気にする様な事じゃないんだけどな。ただ、今年前半の啓太の医療費の相談ってだけだから」
 和希の言葉に、啓太はあからさまに顔を顰めた。
「医療費の相談って…もういいんじゃないの?」
「そうはいかないよ。その辺はちゃんと責任追いたいからね」
 事故から既に3年が経っているのだから、「責任」という言葉から、啓太はそろそろ和希を解放してあげたいと思っていた。だが、啓太がそれを言い出さないのは、和希との時間を失いたくないと思ってしまっているが故の事だった。
「お金なんて大してかかってないよ。俺のバイト代でもどうにかなっちゃう位なんだから、もういいのに」
「駄目。どんな些細な金額でも俺の起こした事故なんだから、俺がやるの」
「だって、もう3年だよ?しかも俺いつも問題ないし、困った事も無いよ」
「問題が無い事を確かめるのも必要な事だろ?」
「うーん…でも、和希が来てくれるだけでいいよ」
「俺が来たって、何かあった時には対処出来ないだろ」
 こういう言い方をされれば、啓太に二の句は出ない。
 だが、啓太にとっては和希さえ自分の所に来てくれればそれで良かったのだ。真面目に病院に通うのも、この和希との時間の為といっても過言ではない。その位、啓太は無意識に和希を求めていた。
「んじゃ、ちょっとリビングに行ってくるな。啓太は彼女に電話でもしてな」
「…うん」
 釈然としないながらも、啓太は和希の言葉に頷いた。



 結局、啓太は約束の日曜日に、彼女を連れて卒業したBL学園の最寄りの街に来た。理由は、自ら遊びというものに執心しなかった啓太が知っている場所と言えば、そこしかなかったからである。それでも、彼女の機嫌は上場だった。その事に啓太はホッと安堵のため息を付きつつ、半年しか経っていないにも拘らず懐かしさを覚える町並みを楽しんでいた。
 学園の近くには、何かと遊戯施設がある。それも郊外型の大掛かりなものが多く、学園の生徒達はその環境に満足していた。嘗て生徒だった啓太も例外ではなく、幾度となくそのような施設へと足を運んでいた。学園に居た時の思い出話と共に、彼女を連れて懐かしい道を辿る。通りがかりに後輩に会い、からかいの言葉を受けたりもして、楽しく2人で歩く事が出来た。
 だが、休憩の為に入った喫茶店で、啓太の脳裏にふと一つの映像が過った。
 それは、啓太の目の前でコーヒーを飲んでいる和希の姿だった。
 啓太は、その喫茶店に和希と入った記憶はなかった。事故以来、相変わらず理事長として学園の生徒の前に顔を出す事のなかった和希は、啓太と会う時でも学園の近くの施設を利用する事はなかったのだ。それは身を隠すという理由だけではなく、どうしても啓太と会う時は啓太の両親にも話を聞かなければならないという理由からだった。そんな理由で、啓太は学園の近くの施設には、記憶にある限りの学友としか訪れた事はない筈だった。
(…なんだろ)
 その映像は、他の何かを伴っている様な気がして、啓太は頭を抑えて記憶を手繰り寄せようとした。だが、その場を思い出そうとするとツキンと微かな頭痛がするのだ。頭痛も相俟って、それまで途絶える事のなかった言葉が、啓太の口から途絶えた。その様子に、彼女は心配そうに啓太の顔を伺う。
「あ…ごめん。大丈夫だから…」
 曖昧に返事をしながら、啓太は必死に考える。
 その時、和希は何を話していたのか。
 また、自分は何を話したのか。
「…本当に大丈夫?」
 彼女の声に、啓太はふと顔を上げた。すると、彼女の色素の薄い髪の毛が目に入る。窓からの日差しを受けて金色に輝くそれを見て、脳裏に過った光景の和希の声が聞こえて来た気がした。
『疲れたのか?この後の水族館、やめておくか?』
 何と言う事のない言葉だったが、それは確かに和希の声で聞こえた。そして、啓太は席を立った。水族館と言えば、この辺りにある物を指している様な気がしたのだ。だが、啓太にその場所に行った記憶はなかった。学友とは行く事のなかった、近辺では有名なデートスポットだったからである。啓太は彼女を連れて、その場所を目指した。そして館内に入り、自分の記憶が過去の物であると確信した。来た事のない筈の場所なのに、啓太の足はスムーズに進んだのである。そして、そこかしこで和希との会話を思い出した。



 その夜、彼女を彼女の家まで送った後、啓太は急いで和希に連絡を取った。理由は当然、思い出した記憶に付いてである。その日、実家に行くと言っていた和希は、啓太の電話に数コールで出た。
「急にゴメン。まだ実家?」
『いや…家に居るよ』
 和希の言葉に啓太は安堵して、一日にあった事を和希に話した。
『明日、すぐに病院に行ってくれ』
「うん…でも、なんか変なんだよ」
『変って、何が?』
「実はさ…」
 啓太が思い出したのは、和希との会話だけではなかった。
「なんか、和希が俺の手を握ろうとしてて、それに対して俺、すっごい怒ってるんだよ」
 まるで、恋人同士のじゃれ合いの様に。それは和希との恋愛関係を思い出していない啓太にとって、現実の物として受け入れられないものだった。
『…へぇ。でも今だって俺、啓太の手握りたいと思うよ?啓太の手、柔らかくて握り心地いいから』
「それとはちょっと違うんだってば」
『どう違うんだよ』
 そう問われて、啓太は考え込んだ。
 何が違うのか。行動自体は同じものなのだ。だが、記憶の中の自分は、今の自分と違う思いで和希に対して怒っていた様な気がする。だが、それは余りに非現実的な事だった。啓太は頭を振ってその考えを否定した。
「どう違うって言われても…わかんないけど」
 和希の問いを、啓太は濁した。自分自身で否定した事を、和希に告げるつもりはなかったのである。それに、もし思い違いであったのなら、それは決して口に出来るものではなかった。まさか自分達が恋愛関係にあったのではないかなど、啓太はおろか、和希の性癖まで疑う様な事になるからである。
(ある筈ないよな…)
 啓太は、きちんと女性に興味を持つ自分自身の心に自信があった。故に、いくら和希が相手とは言え、男性に対して恋愛感情を持つなどという事は決してないと思った。
(和希の事は好きだけど…)
 だが、その『好き』は、恋愛感情ではない。優しく自分を見守ってくれる和希に対して、兄に対する親愛を抱いているのだと啓太は思っていた。それは家族の言葉故だったのだが。いつも和希との話になると、啓太の母は『本当の兄弟みたいね』と口にしていた。その言葉に、啓太が違和感を覚えた事はなかった。そして、今も。
『おい啓太、大丈夫か?』
 急に黙り込んだ啓太に、和希は心配そうに声をかけた。その言葉が、昼間の映像とリンクする。そして、再び頭痛が啓太を襲った。
「か…ずき、あたま…痛い」
 微かだった頭痛は徐々に酷くなり、数秒後には啓太は立っている事も出来なくなった。
『おいっ!すぐ救急車呼べ!いや、今どこだ!?俺が呼んでやるから場所言え!』
 和希の声になんとか反応をし、啓太はその場に踞った。



「脳波に問題はありませんし、CTでの外的異常も見当たりません。疲れているのかもしれませんね」
 担当した医師は、結局昼間の一件以上には記憶が戻らなかった啓太に、そう簡潔に答えた。その結果に、呼び出された啓太の母と、救急車を呼んで、その行き先を告げて後を追って来た和希は、ホッと胸を撫で下ろした。
「あー、良かった。また啓太に何かあったのかと思っちゃったじゃない」
 啓太の母は事故当時を思い出したのか、目に涙を浮かべた。
「俺も焦ったよ。本格的に後遺症でも出たのかと思った」
 安堵した様な声を出す和希だったが、その指は少し震えていた。2人の様子に、頭痛の治まった啓太は苦笑を漏らす。
「そんなにしょっちゅう三途の川は見れないよ」
「何言ってんの!あんな思いはもう御免よ!」
「馬鹿っ!あんな酷い事故だったんだから、今啓太が生きてる方が奇跡なんだぞ!もっと慎重になってくれ!」
 啓太の言葉に、啓太の母と和希は揃って声を荒げた。
「ちょっと2人ともっ、ここ病院だってっ」
 以前の個室とは違い、ERに運び込まれていた啓太は、慌てて周りの様子を伺った。通りがかりの看護婦が、そんな様子を見てくすくす笑っていた。
「…まぁ、でもホントに良かったよ。何でもなくて」
「そうね…啓太、彼女と一緒で張り切り過ぎたんじゃないの?」
 母の言葉に、啓太は真っ赤になった。そんな啓太の様子を和希は内心苦く感じていたが、そんな事はおくびにも出さずに啓太の母と一緒になって啓太をからかった。
「先週から啓太、一生懸命悩んでたもんな。知恵熱みたいなもんか?」
「もうっ!2人ともうるさい!」
 2人にからかわれて、啓太は真っ赤な顔をぷいっと逸らせた。そんな啓太の様子に、啓太の母と和希は顔を見合わせて笑った。
「まあ、いいわ。それじゃあお母さん、会計してくるわね」
「でも、念のために入院した方がいいんじゃないですか?」
 尚も心配そうに和希は提案したが、啓太の母は笑ってそれを制した。
「大丈夫よ。あの事故でも死ななかった様な頑丈な子なのよ?この位何でもないわよ。先生もそう仰ってたじゃない」
「でも…」
 食い下がる和希の肩を軽く叩いて、啓太の母は会計に行ってしまった。
「啓太、本当にもう大丈夫なのか?」
 啓太の母にあしらわれた和希は、当の啓太の顔を覗き込んで心配そうに尋ねる。その少し近付いた顔に、啓太はドキリとした。頭痛の直前に考えていた事が、フラッシュバックしたのだ。だが、それを打ち消す様に態とらしい程明るく答えた。
「大丈夫だって。もう頭も痛くないし、それ以外は別に何にもなかったんだから」
「でも、痛かったのが頭だってのが問題だろ」
「そんな事ないよ。和希ってば本当に心配性だなぁ。そんなに心配ばっかりしてると禿げるよ?」
「ハゲっ…」
 顔を顰めた和希を、啓太は笑った。その啓太の様子に、和希もまた素直に笑える様になった。
 そうしているうちに、啓太は一瞬胸を揺さぶった感情を忘れて行った。

 

 

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