季節は夏になり、啓太の私服姿に和希が違和感を覚えなくなって来た頃、それは突然訪れた。
その年の春、啓太は無事大学生になった。その大学には、BL学園で親しかった丹羽や中嶋も在籍していたので、啓太の大学生ライフは順調な滑り出しを見せた。授業は楽しかったし、丹羽に勧誘されてアウトドアサークルにも入った。
「啓太よぉ、お前、年頃の女見るの久しぶりだろ」
入学したての頃、同じ男子校だった丹羽に、からかわれて脇腹を突かれた。
「そうですよねぇ。女の子ってこんなに変わっちゃうんだー」
着飾って化粧をし、校内を歩く女生徒達を眺めて、啓太は自分の妹と比べながら、丹羽のからかいを真に受けてしみじみと呟いた。すると横から同じサークルの女生徒が、反論をしてきた。
「何言ってんのよ!あたしなんか女子校上がりだから、一気に男の子がおっさんになっててびっくりしたわよ!」
啓太はその言葉にぷっと吹き出した。
「俺もおっさんに見える?」
「あら、伊藤君は別よぉ。伊藤君見てホッとしたくらいだもん。何より驚いたのは丹羽先輩ね」
「おいっ!俺おっさんかよ!」
丹羽の間髪入れない反論に、啓太は腹を抱えて笑い出した。
「啓太!おめぇ笑い過ぎだ!」
「だって、俺だって高校のとき『この人、同じ高校生かな?』って思いましたもん」
3人は学内の片隅で笑い合った。
その話を楽しそうにする啓太に、和希はほっと胸を撫で下ろした。啓太の進んだ大学は、日本でもトップの学力を誇る所である。そんな所に進んで、元来おっとりとした性格の啓太が楽しめるのかどうか少し心配していていたのだ。
「良かったな。王様がいて。まぁ、啓太なら知り合いがいなくても楽しめたみたいだけど」
「うん。俺、王様がいてくれて良かったよ。でも、学内で『王様』って呼ぶと後頭部叩かれるんだよな。『それは高校の時だけのあだ名だ』って言って、嫌がるんだよ。でも、身に付いた習慣って早々抜けなくてさ。今でもたまに言っちゃうんだよな」
「まぁ、それは仕方ないよな。で、啓太は王様の事なんて呼んでるんだ?」
啓太は目の前のスナック菓子をひつ摘んで口の中に放り込みながら『丹羽先輩』ともごもご返答した。
「ふーん、俺もあだ名で啓太が彼を呼んでいるのに慣れてるから、実際に自分が呼んでた記憶が無くても違和感あるなぁ」
「だろ?でも王様に後頭部叩かれるの痛いんだよ。だから頑張ってる…っと、丹羽先輩だ」
言った側から元のあだ名に戻っている啓太に和希は笑った。
「でさ、今日はビックニュースがあるんだ」
啓太は通学用に使っている鞄をごそごそ探り出して、何かを背後に隠した。
「なんだよ、そのニュースって。前期試験で主席でもとったか?」
入学試験の際、3位で入学している啓太にはあり得ない話ではない。それまで啓太は『ビックニュース』と言う言葉を使って、数々の事柄で和希を喜ばせてきた。なので、今回もその類いだと和希は思ったのだ。
ところが、今回は違った。
「俺、彼女出来たんだ!」
「…彼女ぉ!?」
それはまさに和希にとって晴天の霹靂。これまで一度たりとも女性の話題をしなかった啓太から、『彼女』という単語が出たのだ。
「同じサークルの子でさ。王…丹羽先輩からの紹介だったんだけど、俺の事好きだって言ってくれてさ。これがまた、性格良し、スタイル良し、顔良しでさ。俺も結構気に入ってたんだけど、俺なんて眼中無いって思ってたからすっごい嬉しくってさ!」
満面の笑みで話す啓太に、和希は胸の深い所がちくりと痛む感覚を覚えた。
何故か和希は、啓太は女性に興味が無いと思い込んでいたのである。故に、年頃の男の子である啓太の口から女性の話題が出なくても当然の事と思っていた。それは、遠い日の無くした筈の記憶の所為なのだろうが、当の和希にその理由が分る筈もなかった。
(なんでそんな事思ってたんだろ、俺)
「写真、見たい?」
わくわくと子供の様に和希の顔を覗き込む啓太に、和希は吹き出した。
「…なんで笑うんだよ」
くっくと口元を押さえて笑う和希に、啓太はぷうっと頬を膨らませた。
「だって、悪戯が成功した子供みたいな表情だ」
依然、笑い続ける和希に、啓太はへそを曲げた。
「そんなに笑うんなら見せてやらない」
ベッドの上で和希に背を向けて啓太は写真をしまう素振りをする。和希は一生懸命笑いを抑えて、その行動を止めた。
「ごめんごめん、見たいよ。啓太の自慢の彼女」
笑いを堪えているのがありありと分る微妙な顔つきの和希に、啓太は膨れたまま背後に隠していた写真を和希に差し出した。
写真の中の女生徒は、確かに啓太の言う通りに抜群のスタイルと綺麗な顔をしており、その辺のモデル並みの容姿を誇っている。そして、何より目を引いたのは、薄い色素の細く柔らかそうなロングヘア。啓太の好みなのか、あまりけばけばしく着飾っていない所が和希にもとても好印象を与える人物だった。
「へぇー、ホントに美人だ。凄いじゃないか、啓太」
「なんだよ、『ホントに』ってのは」
「いやほら、よく『惚れた欲目』ってのがあるだろ?だから俺は、友達が自分の彼女を『美人』って言っても信じない事にしてるんだ」
「うわっ!和希、性格悪っ!」
「何とでも言って下さい。俺は嘘はつきません」
宣誓の様に、和希は啓太に向かって軽く右手を上げた。
そんな戯けた様子をこなしながら、和希は酷く動揺した心を必死に隠していた。
啓太に、彼女が出来た。
それが何故こんなにもショックなのだろう。
自分にはいないから?
そんなもの、欲しいと思った事はない。
女は面倒くさい。
特に和希の立場だと、人から受ける好意を一々真に受けていては、とてもではないが身が持たない。近寄ってくる女の裏側を探るのも面倒くさいし、何より自分の時間を捧げようと思う女性にも出会っていなかった。
ただ、啓太との時間が唯一の楽しみで。
その時間を空ける為なら、何日徹夜しても構わなかった。
記憶をなくして以来続いて来たこの時間は、初めのうちは確かに責任という言葉であった物が、既に和希の中では「事故の責任」という範囲の物ではなくなっていた。
月に一度、啓太の笑顔が見れる。それが、唯一の生き甲斐の様になっていた自分に、この時和希は気が付いた。
『何故?』と聞かれても、当の和希には分らない。
ハッキリ言って、幼馴染みだと聞かされても、記憶がないのだからピンと来る訳もない。同じ思い出もなければ、自分はおろか、啓太の子供の頃の事だって写真でしか知らない。けれども啓太の事は、自分にはいない弟の様に可愛いと思う。
『弟の様に』。
親や秘書に『まるで本物の兄弟のよう』と言われる度に、兄とはこんな感覚なのかと思っていた。
故に、和希が抱いた啓太の彼女に対する感情は、この時は『嫉妬』という言葉には繋がらなかった。
きっと、知らない人間だから不安に思っているだけだと。
ぼんやりしている啓太が、悪い女に引っかかったのではないかと心配しているだけだと。
和希はそう思い込もうとした。
啓太の家から自分の部屋へと帰った和希は、鬱々とした気持ちを切り替えようと、普段の就寝時間よりも格段に早い時間にベッドに潜り込んだ。
暗い天井を見上げながら、不可解な自分の気持ちに思いを馳せる。
ショックが治まってくると、何故か裏切られた様な気持ちになった。
普通じゃないか。
彼女が出来るなんて、啓太の年なら当たり前じゃないか。
いつまでも自分だけと一緒にいるなんて、それこそオカシな話だ。
もう、大学生な啓太。子供じゃない。結婚だって出来る年だ。彼女を作って、将来を考えたって不思議じゃない。
なのに、何故。
何故自分はこんな気持ちになるのだろう。
和希は眠るどころか、逆に目が冴えて来てしまって体を起こす。
飲み物を求めてベッドを降りた瞬間、ふと自分が今までいたベッドに啓太の姿が浮かんだ。
事故以来、啓太を自分の部屋に呼んだ事はない。
なのに、そこに啓太が寝ている様な気がした。
そして、頭の中を映像が過った。
『俺は、和希以外に恋はしないよ』
そう言って、裸の啓太が頬を染めて、自分に細い腕を伸ばしている情景だった。
「…ありえないだろ」
誰もいない空間に、そんな和希の言葉が虚しく響く。
だが、その情景は和希の頭にこびり付いて離れない。
和希は無くしていた記憶なのかと一瞬考えたが、あまりにも現実的ではない。
それは、まるで恋人同士のような物。
自分と啓太は男同士な訳で。
啓太はきちんと女性に興味を持つ正常な男性で。
自分とは単なる幼馴染みな訳で。
(そうだ。有り得る筈が無い)
という事は、自分の願望なのかと、ハッと和希は気がついた。
「…まさか、な」
啓太に恋をしているなんて。
自分の性癖は正常な筈だ。記憶がなくなったとは言え、そう簡単にそう言った物が変化するとは思えない。
だが、啓太に対する感情が恋だと考えれば、今の自分の感情に納得がいく。
「…馬鹿馬鹿しい」
自分の感情を押し殺す様に和希は呟き、立ち止まっていた足をキッチンへと向ける。冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、コップに注ぐ事無く直接口をつけた。
その夜、和希は夢を見た。
それは、学園の寮の部屋のベッドで、啓太を抱いている夢だった。
艶やかな声が甘く鼓膜に響き、和希は啓太の体内を感じていた。
『かずっき…すきっ』
がくがくと揺すられながら、うわごとの様に啓太はその言葉を繰り返している。
染まった頬、首筋、赤く熟れた乳首が酷く情欲を誘って、和希を離さない。啓太の手が和希の背中にまわり、背中にぴりっとした痛みが走る。それが合図かの様に、和希は啓太に噛み付く様な口付けをする。
『んぅ…んんっ…』
苦しげに吐き出されるうめき声は、和希の口内を刺激する。その刺激はダイレクトに下半身へと響き、和希の雄を刺激していた。
『け…いたっ』
まだ少年の柔らかさを保つ啓太の胸を、注挿を止める事無く掴み上げる。
『あっああん!かずきっ…だめぇっ!』
啓太の赤い唇が、快楽を露にする。
見た事の無い筈の啓太の痴態に、それを当たり前の様に受け止めて、思うがままその姿体を蹂躙する自分がいた。
徐々に押さえられなくなる射精感を感じた所で、唐突に夢から覚めた。
「っ!」
あまりにも衝撃的な夢に、和希は飛び起きた。
荒い息が、まるで夢の続きの様に感じる。
「…なんていう、夢っ」
生々しい夢だった。
まだ胸を掴んだ感触が残っている様な気がして、和希は自分の両手を眺める。
柔らかい肉の感触に、熱い啓太の体内。
耳には普段からは想像もできない様な甘い声で自分を呼ぶ啓太の声が木霊していた。
「あっ!」
暫く呆然としていた和希だったが、ハッと現実に戻り、勢いよく掛け布団をまくり上げる。
そこにはパジャマを押し上げる自身はあったが、濡れた感触は無かった。
「…はぁ」
安堵のため息を漏らし、掛け布団を元の位置に戻す。
(この年で夢精なんて、シャレにならない)
しかも、啓太とセックスをしている夢でなんて。
「………俺、変態?」
弟の様に可愛がっている啓太との情事の夢。
自分にそんな願望があったなんてと、和希は頭を抱えた。
だが、あまりにもリアルなその夢に、和希は疑問を覚えた。
(まるで、本当にあった事の様な…)
願望にしては、生々し過ぎる。
第一、男の体の感触なんてどんな物か知る筈も無い。だが、夢の中の感触は、確かに女性の物ではなかった。
けれど…。
(ありえないだろ…俺と啓太がそう言う関係だったなんて)
浮かんでは消す様に、和希は何度も頭を振った。
ふと時計を見ると、いつもの起床時間の一時間前だった。
「…シャワーでも浴びるか」
体に残る熱もきっと覚めるだろうと、和希はベッドを後にした。
和希の体を熱いシャワーが撫でる。
だが、和希の思いとは裏腹に、その熱は夢の中の情事を鮮明にさせるだけだった。
(なんだっていうんだ…)
制御出来ない性欲。
和希は己の治まらない下半身を見て溜め息をつく。
そこは、単なる寝起きに置ける男性の身体構造上の問題ではないくらい張りつめていた。
(そんなに溜め込んでいた訳じゃないのに)
気を抜けば脳裏に蘇る啓太の痴態。
和希は恐る恐る自身を握り、その衝動のままに摩り上げた。
「…っ…んっ…」
頭の中では、昨夜の夢がリピートされている。
『もっと…あっあぁ…かずっき』
啓太の声が、己を求める。
汗と精液で濡れた啓太の体が、脳裏で厭らしくくねる様に、和希はあっけなく己の手を汚した。
「………はぁっ」
白濁は、シャワーのお湯に流されて排水溝へと消えて行く。
その様を見つめて、和希は激しい自己嫌悪に陥った。
(やっちゃったよ…)
可愛がっていた筈の啓太で、己の性欲を満たしてしまった。
親愛だと思っていたのに。
弟の様だと思っていたのに。
その啓太が、自分の中で性の対象になった事が、酷くショックだった。
けれど、それと同時に理解した、啓太に対する感情。
「これは…恋だ」
今まで気がつかなかっただけ。
和希はいつからか、啓太を己一人の恋人だと思い込んでいたのだ。
それ故、今まで気がつかなかった恋心。
(今更、だよな)
啓太には、他に思う人がいる。
その人との未来があるのだ。
昨日、嬉しそうに自分に彼女の写真を見せた啓太に思い出して、和希は唇を噛んだ。
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