あした となりには Act,2


2006.8.5UP




「記憶障害ですね」
 啓太のベッドの周りを囲んで、先程とは違う医師の説明が始まった。
「事故の状況から、おそらく車内のどこかに頭部を強打したんでしょう。それでなくとも衝撃的な体験でしたでしょうから、記憶が混乱しているのかもしれません。…で、君は今なにがわかっているんだい?自分の名前や家族の名前、なんでもいいから覚えている事を言ってご覧?」
 医者は、啓太の点滴が刺さっていない方の掌を握って質問した。
 ベッドに横になったまま、啓太は瞳を巡らせて考える。
 『なにを』と言われても、逆になにを言えばいいのかわからなかった。
 暫く黙っていると、医師はゆっくりと啓太を覗き込んで笑顔を浮かべた。
「じゃあ、月並みだけど、君の名前は?年はわかる?」
「…わかりません」
「ご両親の名前、顔は?」
 医師の質問に、ベッドの周りを囲んでいた啓太の父、母、妹は固唾をのんだ。
「……わかりません」
 その啓太の答えに、啓太の母親は再び涙を流した。その母の肩に、そっと父が手を置いて抱き寄せる。その横で妹は、悲しそうに顔を歪めた。
「それじゃあ例えば、トイレはどうやって行くのかわかるかい?」
「…はい」
「じゃあ、どうやってご飯を食べるのかは?」
「わかります」
「じゃあ、これは何かわかる?」
 取り出された二本の棒に、啓太は視線を送って「箸です」と答える。
 そのうえで医師は、一本のスプーンを取り出して啓太に見せた。
「………わからない、です」
「じゃあ、これは?」
 医師は更にポケットからシャーペンを取り出して啓太に見せる。
「わかり、ません」
「君の好きな食べ物は?」
「…わかりません」
「電車の乗り方とか、わかる?」
「…わからない、かも」
 『電車』という単語自体は啓太の頭の中にはあったが、それ以外の想像がつかなかったのだ。切符を買って、ホームに滑り込んでくる電車に乗り込む。いわゆる一般的な生活の一部。それさえも、啓太の記憶はあやふやにしか止めていなかった。
「そろそろ疲れたよね。ごめんね」
 医者はそう前置いて、更に口を開いた。
「じゃあ、有名人でも誰でも良いんだけど、知ってる名前って、ある?」
 『名前』と、啓太は考え込む。
 すると、一つだけ、まるでそこだけスポットライトが当たった様に浮かび上がる名前があった。
「…………『和希』って人、います?」
 啓太の言葉に、周りは酷く驚いた。何せ、家族の名前や顔すらわからないというのに、その名前だけは記憶されていたのだ。
 医者は、静かに笑顔を作ると「いるよ」と、簡潔に答えた。
「その人がどう言う人かは、わかる?顔とか、君との関係とか…」
 啓太は暫く考え込むと、静かに首を横に振った。
「名前は…出てくるんですけど、顔とか、名字とか…どう言う人かとかはわかりません」
 医者は、啓太の言葉を丁寧にカルテに書き込んでいく。そして、書き終えるとそっと啓太の手を離して席を立った。
「記憶の後退がなかっただけでも、本当に奇跡ですね。こういうケースの場合、本当に乳幼児まで退行してしまうケースがあるんですよ。それでも啓太くんは16歳の意識を保っている。本当に凄い事です」
 医師の言葉は慰めなのか、それとも真実なのか。
 啓太の家族は喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなかった。
 だが一つだけ言える事は、目の前の息子は以前と変わりない雰囲気を保持しているという事だった。
 それはきっと、喜ぶべき事なのだろうという結論に達した。
 医師は、カルテを小脇に抱えて席を立ち、啓太に向かって笑顔で言った。
「今日はこれくらいでいいよ。もう、考えなくても良いからね。あとは、お父さんとお母さんに、必要な事を聞きなさい。それと、何か思い出したらすぐにナースコールで呼んでね。すぐに僕か、担当の医者がくるからね」
 医者は集中管理室を出て行った。
 後に残された啓太と家族は、取りあえずの無事を喜び、今までの事や家族の事を記憶のない啓太に簡潔に話した。





 啓太はその日のうちに、一般病室に移された。
 ただ、一般と言っても独り部屋の、少し豪華な作りの部屋だった。見渡す限り、部屋の中には出入り口のドアの他に2つの扉があり、病院特有の慌ただしく廊下を過ぎ行く足音も聞こえない。
「今の啓太には静かな方がいいでしょ?」
 啓太の母親は、窓辺に花を飾りながらにこやかに告げた。
「でも、こういう部屋って高いんじゃないの?うちって、お金持ちなの?」
 電車の乗り方はわからなくても、何故か金銭感覚だけは残っている啓太に、母は朗らかに笑った。
「変な事はわかってるのねぇ。あのね、さっき言った通り、啓太は事故の被害者なの。だから、この部屋は加害者である鈴菱さんが提供してくれてるのよ。だからここは、この病院の中の特別室って所なのよ」
「被害者って、だって俺、助手席に乗ってたんだろ?」
「車の事故って、そう言う物なのよ。運転手に責任がかかる物なの」
 これは、記憶があろうがなかろうが、車の運転免許を持っていない啓太にはわからない事だった。だが、加害者が『鈴菱』という人だという事は何か引っかかりを覚えた。
「……あのさ、もしかして」
「なに?」
 母は、何気なく啓太の顔を覗き込む。その母の安心しきった表情に、啓太は何故か言葉を告げる事が出来なくなった。
(もしかして、俺の覚えていた『和希』って人の事だとおもったんだけど…)
 何故か、言ってはいけない事の様な気がして、啓太は「なんでもない」と言葉を濁して、目の前に置かれていたお茶を口に含んだ。
「でも、ホントよかったわ。啓太が生きててくれて」
 連絡を受けたときを思い出したのか。母は再び啓太と同じ青い瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「母さんの事、忘れちゃってるのに?」
「それは、いつかは思い出してくれるでしょ?それにね。母さんとか父さんを忘れてても、あんたが生きてくれている事が一番なのよ」
 満面の笑みでそう答えた母に、なんだか申し訳なく思い、啓太ははにかんだ笑みを零した。
 その時、部屋のドアがノックされた。
「はい」
 母は、軽やかな足取りで病室のドアを開ける。そこにはスーツを着込んだ身なりの良い青年が一人たっていた。
「私は鈴菱和希様の第一秘書で、石塚と申します。よろしければご挨拶をさせて頂きたいと思いましてお伺いしたのですが、伊藤様は今面会出来ますでしょうか」
 ドアの所で母と話す青年に、啓太は視線を送る。
 今、彼は『和希』という名前を口にしたのだ。
(俺の事、知ってる人かな?)
「今は起きてますが…啓太、大丈夫?」
 母は、気遣わしげに啓太に向かって問いかけた。
「あ、うん。大丈夫だよ」
 啓太の返答を聞いて、母は「どうぞ」とドアを開けて石塚と名乗った青年を室内に通した。
「この度は、主人が大変なご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありませんでした」
 啓太のベッド脇にそのまま進と思われた石塚は、ドアから数歩入った所でいきなり膝をついて土下座をした。
「ちょっと!そんな事しないで下さい!」
 驚いて叫んだのは啓太だった。
 大の大人が、いきなり自分に向かって土下座をする様など、記憶があろうがなかろうが、衝撃的なシーンだった。
「親御様にも、何と言ってお詫び申し上げていいかわかりません」
 啓太の母は暫くその様子を黙って見つめ、静かに口を開いた。
「貴方は秘書さんなんですよね。彼のご両親はどうしたんですか?」
 まるで、それが当たり前の様な母の口調に、啓太は口を挟むのを堪えた。
「会長ご夫妻は、只今和希様の主治医とお話中です。その後その足でこちらにお詫びに伺いたいと申しておりました」
「そうですか。…まあ、あちらも大変でしょうしね。わかりました。啓太の調子が大丈夫なようでしたらお待ちしてますとお伝え下さい」
 冷たい口調の母の言葉に、啓太は自分か思っているよりも事が重大な事に気がついた。
(記憶がないのは心細いけど…動けない体以外は、俺、ご飯も美味しく食べられるし、なんて事ないって思ってた)
 そんな啓太ののんきな考えは、当然世間では通用する訳もない。実際の所、啓太は事故当時の状況からして、生きている事の方が不思議な状態だったのだ。
 救急車が到着したときは心肺停止。救急車の中で3回の電気ショックを受け、その上、胸部を切開しての直接心臓マッサージの上に命を取り留めたのである。
 石塚は顔を上げずに続けた。
「ご理解頂き、本当に有り難うございます。重ねますが本当に申し訳ございませんでした」
 啓太を他所に続く大人の会話に、啓太は視線を逸らせて窓の外の青空を見上げた。
(『和希』って人、秘書とか付いてる様なえらい人なんだ…俺とどんな関係なんだろう。なんで俺、そんな人と車に乗ってたんだろう?)
 素朴な疑問を石塚に投げかけようとした矢先、石塚は啓太の前まで進み、深々と頭を下げた。
「伊藤くん、本当にありがとう。君のおかげで和希様は身体的には軽傷で済みました。君が隣に乗っていてくれて、事故の瞬間に庇ってくれなかったら、今頃和希様は生きてはおられなかったとの事です。鈴菱家、ならびに関連企業家族に成り代わって、お礼を言わせて下さい」
 真剣な声で謝礼を言われても、記憶のない啓太にはどう返答して良い物かわからなかった。そんな啓太の気持ちを察した母は、石塚に向かって再び口を開いた。
「まだそちらにお話が通っていない様ですが…啓太には記憶はありません」
 啓太の母親の言葉に、石塚はびくりと体を強張らせた。
「…どういうことでしょうか」
「言葉の通り、啓太は記憶障害なんです。今の石塚さんの口調ですと、どうも啓太と面識がお有りになるみたいですが、啓太には貴方の事はわかりません。貴方だけでなく、私達家族の事も覚えてないんです。当然、事故当時の状況も、それ以前の行動も全部この子はわかっていません…和希さんの事も…」
 初めのうちはきちんと石塚の目を見て話をしていた啓太の母だったが、言葉が進に連れ、視線は床を追い始める。最後には、啓太にすら殆ど聞き取れない様な小さな声で言葉を切った。石塚は、呆然と啓太を見つめた。そして、確認する様に啓太に向かってゆっくりと問いかけた。
「和希様との事…本当に覚えていらっしゃらないのですか?」
 信じられないとでも言いたげな石塚の口調に、啓太はおどおどと頷く。
「あの…その『和希さん』って名前だけはどうも覚えているみたいなんですけど…それ以外の事はさっぱり…」
 啓太の言葉に、石塚は悲しげに眉を寄せた。そして啓太の母に向かって振り返り、再度膝をついて床に頭を擦り付けた。
「本当に…何とお詫び申し上げていいのかわかりません。早急に鈴菱の両親と相談させて頂きます。また後ほどお伺いさせて頂きますが、ご相談の際にはよろしければご主人様もご同席願えますでしょうか?」
 啓太の母は、石塚から隠す様に涙を拭うと、必死と言った風情で気丈に口を開いた。
「主人も啓太の命が無事な事がわかった時点で仕事に戻りましたので、今から社の方に連絡を取ってみますが、夜になってしまうかもしれませんがそれでもよろしいですか?」
「お時間はそちらの都合でお願い致します。また、今はまだ和希様は安静との医師の指示ですので、お詫びとご相談はご両親のみとなってしまう事をお許し下さい」
「わかりました。それでは時間がわかり次第、ご連絡させて頂きます」
 母の言葉を受け、石塚はドアの前で再度深々と頭を下げて退室して行った。その様子を啓太は、まるで映画のワンシーンの様に眺めた。話の中に、自分の事が入っている感がなかったのである。
 鏡を見れば、確かに目の前の女性は自分の母親なのだろう想像はつく。造作に似た所も確認出来、何より啓太の無事を心から喜んでいるのがひしひしと伝わり、母親の愛情を心から認識出来る。だが、未だ日の経っていない現在では、『啓太』と呼ばれても、自分の事であるとはとっさに理解出来ない状況であった。そんな状況故、今の石塚の言動は、自分に対しての物だとは思えなかったのである。
 それよりも、啓太の心を占めたもの。
 それは、二人の会話に幾度となく出てきた『和希』という名前。
 何か、特別な関係なのだろうか。自分の名前を忘れても、その名前だけ覚えていたという事は、きっと何かがあるに違いないと啓太は思った。啓太は意を決して母に尋ねた。
「ねぇ、母さん」
「なに?」
「あのさ…その和希さんて、俺とどんな関係の人?」
 啓太の質問に、それまで啓太に対して笑顔を崩さなかった母は、さっと表情を曇らせた。
「………あの、俺なんかまずい事言った?」
 不安そうな息子の顔に、母は取り繕う様に表情を正す。
「そうね…別にまずい事はないけど、それは和希さんに直接聞いた方が良いかもしれないわね」
「?」
 明言しない母親に、啓太は頭を悩ませた。
(母さんはよく知らないのかな…でも、さっきから…)
 その後、父親に連絡を取ると言って、母は病室を出た。





 父と連絡を取り終えた母と一緒に啓太の病室に入ってきたのは、品の良い中年の夫婦だった。二人は和希の両親であった。
 二人は口々に啓太に向かって謝罪の言葉を紡ぎ、さらに感謝の言葉を幾度も口にした。お詫びとお礼だと言って、啓太の病室には溢れんばかりの品物が一気に運び込まれ、そのきらびやかさに啓太は躊躇した。
「あの、こんな事して頂かなくていいです。この通り俺、怪我さえ直れば不自由なく動けるんですから」
 謙虚な啓太の言葉に、和希の両親は笑顔を向ける。
「この箱の中の殆どは、ここでの生活に必要なものばかりなんだよ。だから、啓太くんが気にする事ないんだ。それに、今は絶対安静だろ?その間の退屈凌ぎの物がちょっと交じってるだけなんだから」
 和希の父は、記憶はなくとも意思のしっかりした瞳を見つめ返し、頷いた。
「それにね、啓太くんのお家からこの病院は遠いでしょ?お母様が不自由なさらないようにもご用意させて頂いただけなの。本当はちゃんと付き添いの方を頼ませて頂こうと思ったのだけれど、お母様がご自身でって仰られたから、こうさせてもらっただけなのよ。だから啓太くんは、これをちゃんと受け取って?お母様の為にも」
 柔らかい和希の母親の言葉に、啓太は少しの間思い巡らせ「ありがとうございます」と笑顔で答えた。
 啓太と和希の両親は、今までの双方の関わりに関して、たわいの無い話をした。当然、啓太には初めて聞く様な事ばかりであったが、その都度、和希の両親は優しく応対した。幼い頃、和希と啓太が幼馴染みであったときの事。その事を、滅多に日頃の事を口にしなかった和希が勢い勇んで両親に話した事。和希が幼い啓太にセーターを編みたいと、初めて母親に教授を願い出たときの事。啓太が和希の家族と食事をしたときの事など、二人がいかに仲睦まじい関係であったかを和希の両親は啓太に競って話聞かせた。その柔和な態度に、啓太の緊張も段々と解け、楽しい一時を過ごしたのである。
 だが、それでもやはり何処か他人の話をされている感がどうしても啓太からは消えなかった。教えられた自分の名前が出てきているその思い出は、所詮今の自分の中にはない物なのだ。そして、『和希』の事も。
 その後、啓太の父親が病院に到着すると、啓太の両親と和希の両親は揃って啓太の病室を後にした。

 

 

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