和希は一人、待ち合わせ場所に立っていた。
少し早く着いてしまった為に、まだ啓太は姿を現さない。だが、相手を待つ時間というのも良い物だと、啓太が来るであろう方向に視線を向けてその時間を楽しんでいた。
啓太と会えたら、まずは評判になっているケーキのおいしいお店に行って。その後、啓太が見たがっていた映画を見て。普段仕事で使っているネクタイがそろそろ草臥れて来たから、それの買い物に付き合ってもらって。その後、先日啓太が食べたいと言っていたパスタを食べに行って、啓太を伴って自室に帰る。そんな何時もの楽しい時間を想像して、知らずに顔が緩む。
映画はアクション物。
食べに行きたいパスタは大盛りのお店。
(付き合ってるって言っても、ホントに変わらないよな)
色気の欠片も無い啓太のチョイスに、事故の直前に行っていた旅行を思い出す。
プライベートビーチのある別荘は、海水浴には絶好のロケーションだった。だが、恋人同士でその場を訪れて、そんなに本気で泳ぐ人は居ないだろうと和希は思っていた。だが啓太は「折角目の前が泳げる海なんだから勿体ない」と言って、浜辺に和希を残して一人で沖まで泳いで行ってしまった。その上、一度浜に戻って来たと思ったら、素潜りでも行ける場所に貝を見つけたと言って、また海の中に戻ってしまった。そして、日が暮れるまで和希はそれに付き合わされた。結局恋人らしい事は何一つ無い旅行だったのだ。
どんな状況になっても変わらない人となりに、笑みが深くなる。
いつでも一番愛しい存在。
啓太との時間が持てるのであれば、なんだっていいと思う。
浜辺で待ちぼうけを食らわされようが、けっして上品とは言えない様な大量の食べ物を前にしなければいけなくとも、啓太が笑っていればそれで和希は良いのだ。
2人で肩を並べて、笑っていられる時間が何よりも幸せで。
あの事故の直前も、そんな事を思っていたなと和希は思い出していた。
在り来たりな幸せな日常の一コマに、笑いがこみ上げる。思わず緩んでしまった顔の筋肉を隠す様に下を向いて、周りにいる筈のSPに不審に思われていないかと視線を走らせるが、優秀な人物が多いのか、誰一人として訝しげな顔をしている者はいなかった。
気を取り直して再び顔を上げたその時。
和希の耳元で、誰かが何かを囁いた。
「……え?」
その声は、雑踏に紛れて音声としては僅かな物だった筈だが、和希の頭の中に木霊する。
慌てて周りを見回すと、殺気をみなぎらせた背中が、横断歩道へと向かっていた。
その先には───。
(……っ!啓太!)
赤を示している信号で止まった男の背中を掴もうと、和希は駆け出した。だが、休日の人出で思う様に前に進む事が出来ない。人垣をかき分けて手を伸ばそうとしたが、無情にも信号が青に変わった。
「……啓太っ!」
町中だと言う事を忘れて、大声で注意を呼びかける。
危険だと。
逃げろと。
その名前を乗せた声に心を込めて。
すれ違い様、男は和希に言ったのだ。
───大切な物を失う悲しみを思い知れ───と。
その言葉が何を指しているかなど、和希にはいやと言う程分った。
度々注意されていた外出。
この3年間、仕事での外出にさえ付けられたSP。
ターゲットが自分ならまだ防ぎようがあるが、それが啓太に向けられるとなると、手段が変わってくる。そして、その手段を構築する前に動き出されてしまった。
何故、外で会う事など了承したのだろう。
何故、恋愛関係を取り戻した時に手配しなかったのだろう。
現状では何の意味も持たない思考を巡らせながら懸命に伸ばした和希の指先をかすめる事なく、男は啓太に向かって走り出す。
異常な光景に人々が顔を向ける。
その雰囲気に顔を上げた啓太が、視界に入った光景に表情を固まらせた。
男の手元には、刃渡り20cm程の包丁が握られていた。
日の光を浴びて光るそれは、啓太に動く事を忘れさせる。
ただ、その光を凝視するのみ。
1メートル先にその切っ先が到達した時、啓太の視界はふわりと何かに遮られた。
「……っ?」
体に走る衝撃は、鋭利な物とは違う感覚だった。
体を包むのは慣れた感覚の腕と、いつもの安心する香り。
啓太の首に回されていた腕に力が加わり、その重みに啓太は我に返った。
「…和希っ?」
視界には、走り寄って来ていた筈の男が和希の足下に倒れていた。そして更に走り寄ってくる幾多の男達。
「…啓太、怪我…無い?」
青い顔で覗き込んでくる和希を見て、啓太はこの時になって初めて恐怖を感じた。
「あ…あっ…」
「落ち着いて…もう、大丈夫だから」
和希は啓太を安心させる様に強く抱きしめると、啓太は縋る様に和希にしがみついた。
「啓太の事は…俺が絶対に守るから」
耳元で囁かれた言葉は、懐かしさを伴って啓太の心から恐怖を軽減させた。
だが啓太は、背中に回した掌に違和感を覚える。
そこに感じる筈の無い異様な熱と、ぬるりとした感触。
手を開いて恐る恐る持ち上げると、べったりと赤黒い液体が付着していた。
「っ!」
その瞬間、啓太の体を抱きしめていた和希が崩れ落ちた。
「あ……あっ…やだぁ!」
周囲から悲鳴が上がり、日常だった筈のその場は騒然となった。
ぽっかりと空いたスペースの真ん中で、啓太は倒れた和希に取り縋った。
「和希っ!和希っ!!」
血の気の失せた顔を何度も叩いて、瞳を開かせようとする。だが、当然の様にそれがかなう事は無い。出血があるのに、その顔に苦痛の色は無かった。穏やかな和希の顔とは逆に、啓太の顔には悲壮な色が浮かぶ。
まさか、このまま別れる事になるのではないか。
突然に自身に降り掛かって来た災厄に、啓太は覚えがあった。
愛しい人に置いて逝かれるというその恐怖。
その時は、ただ守ろうと思った。
彼が逝くなら、自分が逝った方がまだマシだと。
だが、今はどうにもならなかった。
それでも頭の中で、過去の経験から何か策を得ようと数々の場面を巡らす。
必死になって肩を揺らしていると、誰かが啓太のその手を止めた。
「駄目です!揺らさないで下さい!」
いつの間にか和希と啓太を取り囲んでいた、いかにも屈強そうな男達の一人が、半狂乱になった啓太を取り押さえていた。
「やだっ!やだぁっ!」
「大丈夫です!息はありますから!」
落ち着かせようと現状を説明する男の声も、啓太には届かない。目の前で繰り広げられた衝撃的なシーンに捕われて、完全に自我を失っていた。男は暴れる啓太を腕の中に抱き込んで、他の仲間に指示を出す。その指示に従って呼ばれた救急隊に鎮静剤を打たれ、啓太は意識を手放した。
啓太が目を覚ますと、見慣れない白い天井が目に入った。
「啓太っ!目が覚めたのね!」
耳に届いた声に、ベッドの周りを取り囲んでいる家族に視線を送る。
「か…あさん」
意識が朦朧として、啓太には現状が理解出来なかった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「朋…?」
何時か見た光景だったが、その時と絶対的に違うのは、周りの物は全て把握出来ると言う所だった。
そして、ふっと意識が鮮明になる。
「…っ!」
先刻までの騒動を急激に思い出して、啓太はベッドから飛び降りようとした。だが、勢いよく上体を起こした所で、父親に体を押さえつけられる。
「は…なして!和希がっ!」
「落ち着け、啓太!彼なら無事だから!」
聞き慣れた父の声に、啓太はふっと体から力を抜く。
「ほんと…に?」
「ああ。今手術中だが、命に別状は無いそうだ」
あんなに沢山血が出ていたのにと、手についている筈の和希の血液を確かめようと、啓太は掌を眺める。だが、手は既に洗浄されていて、血液の痕跡は無かった。
暫く呆然と掌を見つめていた啓太だったが、母親に促されるまま、再びベッドへと戻る。その時啓太は漸く、今自分のいる場所が病院だと認知した。
「…俺、どうしたの?」
自らの体を見回す限り怪我などは無いようだと、ベッドに寝ていた理由を家族に問う。その問いに、母がほっとした声で答えてくれた。
「あんたはショック状態で運び込まれたのよ。まったく、怪我人がいるって言うのにそんな状態になるなんて。男として情けないじゃない」
「そんな事言ったって…」
後半はあきれた様な口調で話す母に、少し居心地が悪くなった。
「だって、またあの事故の時みたいになったらって思ったら…もうどうして良いのか分らなくなっちゃって…」
バツが悪そうにモジモジとブランケットを弄っていた啓太は、訪れた沈黙に違和感を覚えて顔を上げる。すると、家族が驚いた顔をして啓太を見つめていた。
「…何?」
「啓太…あんた、思い出したの?」
「あ……」
意識してみると、今までの事が嘘の様に全てが明るかった。子供の頃のあれこれや、家族との思いで。そして、和希と出会った時の事。それらが全て、当たり前の様に啓太の中に存在していた。
「……ホントだ。思い出したみたい」
あっけない記憶喪失騒動の幕切れに、啓太は脱力した。
(何かこう、もっと劇的なもんじゃないのか?こういうのって…)
所詮は物語などでしか知り得ない体験だったのだ。今までの担当医も、何が原因で戻るかは分らないと啓太に告げていたが、気が付いたら戻ってましたと言うのは、余りにも平凡過ぎる。記憶が戻った事の喜びが半減している様な気がして、啓太はため息を付いた。
だが、家族は当然上へ下への大騒ぎだった。
「よかったじゃない!」
「ホント!お兄ちゃんよかったね!」
「ホントになぁ!啓太、よかったな!」
「あ…ははっ…うん」
一人喜びに乗り切れない啓太は、曖昧に笑ってみせた。
「…にしても、お兄ちゃん」
ニヤニヤと笑いながら、妹は兄の顔を覗き込んだ。
「…なんだよ」
「やっぱ、和希さんとよりが戻ったから思い出したんじゃないの?」
からかう様な妹の視線に、啓太はボッと顔を赤らめた。
「ばっバカ!違うよ!」
「えー、朋はそう思うけどなー。…ラブラブじゃん」
「そんなんで思い出したんなら、もっと前に戻ってるよ!」
「へー、そんな前からよりが戻ってたんだ」
啓太の無事と、記憶が戻った事によって、家族はあからさまにほっとした雰囲気に包まれていた。この3年、誰もが不安だったのだ。確かにそこに存在している啓太が時折見せる怪訝な表情は、まるで過去の啓太が死んでしまって、その場所を今の啓太が占拠している様な違和感がつきまとっていた。雰囲気や性格が変わらなくとも、同じ思い出が無いと言うのは、周りに取ってみれば半分は別人になってしまっている様な感覚を与える。どんな問題を起こしていた人物でも、家族にとっては唯一の存在なのだ。その唯一の存在が、二度と戻らないのではないかと。
そんな和やかな空気を邪魔しない様に小さく、啓太の病室のドアがノックされた。
仲良くじゃれあう兄妹を置いて、母は返事をしてドアを開けた。
そこに立っていたのは和希の秘書の石塚だった。
「思ったよりお元気そうでよかったです」
「はい、御陰様で。それに、この騒動の御陰かどうかは分りませんが、啓太の記憶が戻りました」
啓太の母の言葉に、石塚は破顔した。
「それは何よりです!ああ、本当によかった…。あのまま戻らなかったらどうしようかと思ってました」
祝いの言葉を受け、啓太の母は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に促されて、石塚は啓太のベッド脇へと歩を進める。
「伊藤君、おめでとうございます」
「あ、有り難うございます、石塚さん。それにこの3年、ご迷惑をおかけしました」
「いえ、ご迷惑をおかけしたのは当方ですから…それに、今回の事も申し訳ございませんでした」
石塚の言葉で、啓太は浮かれた気分を払拭させた。
「あの…和希、どうですか?命の別状は無いって聞いたんですけど…」
状況を思い出せば、かなりの出血量だった事は容易に想像がついた。だが、石塚の笑顔は崩れなかった。
「はい。意識が混濁したのは急激に失血した所為だったのですが、幸運にも臓器などには一切損傷はありませんでした。それに出血も、刺された事と言うよりも、刺されたまま和希様が激しい動きをなさった所為なので、特に問題はございません。輸血の必要も無いそうです。後30分程で麻酔も覚めますから、面会も出来ます。この後の日常生活にも支障は無いとの主治医の判断です」
ホッと胸を撫で下ろした啓太に、石塚は笑みを深くした。
「あ…でも、刺されたまま激しく動いたって言ってましたけど…俺、記憶に無いんですけど」
啓太が気が付いた時には既に、犯人は地面に倒れていた。それに和希が啓太に駆け寄って庇った後、何か激しい動きがあった様な感じは啓太には受け取れなかったのだ。
啓太の疑問に石塚はにっこりと笑って回答した。
「和希様はあれでもご幼少の頃から、誘拐対策としていくつかの武道を体得なさってますからね。居合わせたSPの証言によると、刺された瞬間に犯人の急所を蹴りで攻撃なさったそうですよ。まあ、その所為で伊藤君よりも和希様よりも、犯人が一番の重傷を負ってるんですけどね。肋骨2本骨折だそうです」
それでもその攻撃が無ければ、きっともっと重傷を負っていたに違いない。ヘタをすれば、刺された本人の和希は命が無かったかもしれないのだ。ましてや何の体技も習得していない啓太など、あのまま和希が庇わずに刺されていれば、間違いなく命を落としていたのだろう。改めて突きつけられた現実に、啓太は心底ぞっとした。
「…俺、今からでもなんか武道やります…」
和希の傍にいるのであれば、どうしたって必要になる気がして啓太は真剣に言った。石塚はその言葉を受けてぷっと吹き出した。
「伊藤君の事は、和希様が守って下さいますよ」
「いや、今回みたいな事が連発したら、それこそ和希の命が無くなります。それに、俺だって和希の事は守りたいですよ」
敵の様に自分の体にかかっているブランケットを睨みつけながら、啓太はぶつぶつと算段を始めた。真剣な啓太の様子に、石塚は笑みを絶やさずにぽつりと言った。
「守られたじゃないですか」
「…は?」
「伊藤君は和希様の事、守られていらっしゃいますよ。ご自分の命と引き換えになさる様な事をして、立派に和希様の事を守って下さいました」
それは、過去の事故の事。
石塚は身を挺して和希を守った啓太の事を言っていた。
「それに今回の事だって、伊藤君の事が絡まなければ、いくら和希様とは言え瞬時にあそこまで体が動いたかは分りませんよ」
あの方は伊藤君が絡まなければ、案外凡人なんです───と、石塚は悪戯っぽく付け足した。
|