あした となりには Act,10


2007.3.9UP




 啓太が目を覚ますと、寝室に和希の姿は無かった。
「………あれ?」
 重い体をなんとか持ち上げ、ベッドの上に体を起こす。周りを見回せば、確かに見慣れない寝室に居るのに、そこにはつい先程まで肌を合わせていた筈の男の姿は見当たらない。
(夢…とかじゃないよな)
 視線を下げれば、証拠の様に自分の体にいくつも刻まれている紅い痕がその存在と現実を訴える。
(………しちゃったんだ。和希と)
 情事の最中を思い出して赤面していると、かちゃりとドアの開く音がして探していた人物が顔を覗かせる。
「ああ、起きたんだ」
 シャワーを浴びて戻って来たばかりの和希の髪はまだ雫を称えていて、その艶に嫌が応にも『事後』だと言う事を啓太に認識させる。
「あ………うん」
 いざ素に戻ってしまうと、何とも恥ずかしくなって啓太は視線を逸らせた。その仕草に、和希は小さく笑った。
「なんだよ…照れてるのか?」
「……和希は、恥ずかしくないのかよ」
 シーツで顔を被い、上目遣いに和希を見上げる啓太の視線は、素っ気ない言葉とは裏腹に熱く和希に刺さっていた。その視線をじっと見つめ返していると、啓太は更に不貞腐れた声を出す。
「………何見てるんだよ」
「んー?いや、啓太でもそんな顔が出来るんだなーって思って」
 照れている様子が可愛くて、和希はわざと腰に手を当てて鑑賞の姿勢をとる。そんな和希の態度に啓太は羞恥を募らせて、苛立紛れに手元にあった枕を和希に向かって投げつけた。
「ばかっ!見るな!」
「うわっ!やっぱり色気無いっ」
「そんなモノ俺にあってたまるか!バカヤロウっ!」
 投げつけられた枕を顔面すれすれでキャッチして、和希は笑った。それは、久しぶりの心からの笑いだった。啓太が自分の所に戻って来た嬉しさが、何よりも心を満たす。しかも戻って来ただけではなく、諦めていた思いすら通じたのだ。この上の幸福があろうかと思う程、和希は幸せだった。故に、現状の啓太の様子が夢の中のものと酷似している事になど気が付かなかった。いや、既に和希の中ではどうでもいい事になっていた。今の2人が全て。愛する人が今傍らに存在していれば、他には何もいらなかった。

 だが、その時は不意に訪れた。

 受け取った枕を抱えてベッドに潜り込もうとした瞬間、和希の中で、何かが音を立てた。
(………なんだ?)
 その音は、何か薄い物が壊れる様な高い物で、頭の中枢を揺さぶる。それに意識を集中していると、なにかドロドロとした物が頭の中を駆け巡る感覚が襲い、視界が暗くなっていく。体を支える為にベッドに手をついて、堪え難い感覚に頭を抑えた。
「………和希?」
 急に動かなくなった和希に、啓太は不安げに声をかける。だが、返答は無かった。ただ踞る和希に、啓太の不安は大きくなる。
「ちょっと…大丈夫?」
 朦朧とする意識の中、啓太の声が和希の耳に届く。なんとかその声に返答しなければと顔を上げて、その愛しい顔を視界に納めた瞬間。
 目の前にパンッと白い光が広がった。
「あ…………」
 その光と共に、それまで何をしても思い出せなかった様々な過去が、和希の中に広がった。

 幼い頃の事。
 孤独感に苛まれている時に出会った幼い啓太の事。
 留学時代。
 それらを経ての啓太との再開。
 思いを遂げあった時のはにかんだ啓太の笑顔。
 2人で行った色々な場所。
 そこで確かめあった絆。
 そして、事故の瞬間────────。

 記憶とともにその時の感情まで思い出して、和希の目に涙が浮かんだ。
(ずっと…こんなに、愛されてたんだ…)
 ずっと。
 それは、つい先程の情事の最中にも啓太が口にした言葉。
 『ずっと、好きだった』
 それが、嘘偽りの無い事だと確認出来る、幸福。
 当たり前だと思っていた事が3年前、根底から崩れ去った。
 それでも自分を選んでくれた啓太。
 和希は、思い出が戻った事よりもその事に嬉涙を流した。
「か…かずきっ?なにっ!?どっか痛い!?頭、痛いのか!?」
 尚も心配そうに顔を覗き込んでくる啓太に、更なる愛しさが募る。
 言葉になど、出来ない感情。
 言葉の代わりとばかりに、目の前の細い体を抱きしめた。
「和希………?」
 困惑する啓太の声が、優しく和希の鼓膜をくすぐる。
「ごめっ…ちょっと…待って」
 怒濤の様な感情の奔流に流されまいとする様に、和希は啓太の体に縋り付いた。
 そんな和希の様子に、困惑しつつも啓太は和希の体を抱きしめ返す。
 啓太の腕の温もりを感じながら、最初に過った過去の情景を思い返す。
 『俺は、和希以外に恋はしないよ』
 その時、和希は啓太に対して『そんなの、分らないだろ』と、返していた。それは、まだ成長途中にあった啓太の心に対して不安を抱いていた所為だった。その言葉が、こんな形で立証されるとは思っていなかったのだが。
(ホントだったね…)
 未来なんて、わからないと思っていたあの頃。
 あした、啓太の隣に居るのは誰なんだろうと考えた過去。
 それを忘れる様に我武者らに啓太との時間を確保しようとしていた過去の自分に、和希は笑った。
「啓太…」
「何?」
「…愛してる」
「…?…俺も、愛してるよ…?」
 何気ない返答も、もう和希を揺るがす事は無かった。



 想いを確かめあった2人は、また以前の様に恋人として付き合い始めた。だが、和希が啓太に自分の記憶が戻った事を告げる事は無かった。理由は、今の啓太を過去の事で縛りたくなかったからである。きっと啓太は、過去、和希と恋人同士だった事を知れば、何か思うに違いないと和希は考えていた。今の、自然の成り行きで付き合い始めた自分達に、それ以上のものは必要ないと思ったのだ。それに、過去の関係を伏せた周りの事も考えていた。自然の法則を無視した関係は、やはり周りには受け入れられないものなのだ。病院や両親、秘書にも記憶が戻った事を啓太に伏せる様に頼み、何気なさを装って生活した。
 もう、自分は後戻りは出来ないけれど。
 それでも啓太がこのまま記憶が戻らず、将来自分から離れる事を選択しても何も思わずにいられる様に。
 今、再び自分を選んでくれただけで、それだけでいいと。
 この先何があっても、啓太の事を愛している自分が幸せだと。
 将来、啓太の隣にいるのは自分ではないかもしれないが、それでも自分の隣は啓太の物だと。
 そう考えての和希の判断だった。
 そして、啓太も和希が見せた不審な行動を言及する事も無かった。
 ただ、今が幸せで。
 過去がなくても、心は満たされていて。
 2人でいれば世の中には何の不安もなく、世界は希望に満ちていた。


 それまで啓太の家で会う事の多かった2人は、その場所を和希の家に変えた。時間が空けば啓太は和希の部屋を訪れ、2人の時間を満喫していた。
 だが、その行動に家族が気が付かない筈は無い。高校の頃と違い住居を自宅に戻した啓太には、以前程の自由は無かった。
 頻繁にかかってくる電話。
 その会話にいつも出てくる、以前はそんなに会う事の無かった名前。
 伏せた筈の恋愛関係にあった、その、名前。
 一度は諦めもしたが、過去が白紙になった事によって道を戻そうとした両親にとっては、あまり歓迎出来る事柄ではなかった。
 度々家を空ける息子に、ある日母は不安をぶつけた。
「啓太…あんた、誰と会ってるの?」
 彼女と別れたらしい事は家族は分っていた。団欒の中、その女性の名前を出せば、照れながらも答えていた啓太が何も言わなくなった。度々相談されていた妹も、全く相談を受けなくなった事に対して、兄の恋が終わったのだと解釈していた。
 不安気な瞳で伺う母に、啓太は言葉を詰まらせた。
 その瞳は、見た事があったからだ。
 事故直後の入院中に、啓太は一度だけ和希に付いて母に質問をした。その時と同じ瞳。
 だが、そこではぐらかしても結局は同じ事なのだ。啓太は意を決して告げる。
「……和希、だよ」
 その返答は、大方予測出来ていたものだったが、啓太の母は力なくリビングの椅子に座り込んだ。
「……貴方達……もしかして…」
 俯いて、何かの審判でも受ける様な面持ちの母親に対して、啓太は震える拳を握りしめた。
 確かに誉められた関係ではないとは分っている。それでも止められないものがあったからこそ、啓太と和希は関係を進めたのだ。
 いい訳をしようなど、思いも付かなかった。
「……付き合ってる、よ。恋人として」
 啓太の言葉に、啓太の母は額に掌を当てた。
「啓太、彼女居たじゃない…何で男性の和希さんと…そんな関係になったの?」
「わかんないよ、そんな事。和希も俺も、普通に女に興味があった筈なんだけど…気が付いたらこうなってた」
「そう…気が付いたら…ね」
 力なく答える母に、啓太は違和感を覚えた。
 どことなく、自分の答えを予想していたかの様に見えたのだ。
「……反対、しないの?」
「反対したら…止まるの?」
 その返答は、啓太にとっては予想外だった。啓太とて、自分の両親がそこまで固い考えの持ち主だとは思ってはいなかったが、それでも同性との付き合いを反対しない様な、そこまでの柔軟性があるとも思っていなかった。だからこそ、こうして直に聞かれるまで話すことは出来なかったのだ。
「それは、止まらないけど…」
 素直に答えた啓太に、母は大きく溜め息を付く。
「なら、仕方が無いじゃない」
「うん…だけど…気持ち悪いかもしれないけど…ホントに俺達、遊びとかじゃないから」
「それは分ってるわ。あんた達、そんなに軽くないもの」
 止まりがちな会話が、空気を重くしていく。それを破ったのは、テーブルの上に落ちた涙だった。
「…かあ、さん」
 黙って涙を流す母に、啓太はどう対処していいのか分らなかった。親不幸、だとは分っている。分っていても気持ちに歯止めが利く訳もなく、悲しむ親に何かを言う事が出来ない。リビングで立ち尽していると、鼻をすする音と共にぽつりと啓太の母は漏らした。
「結局、こうなるのね」
「……え?」
 『結局』とは、どういう意味なのだろう。それは結末を予測していた言葉だと言う事は理解出来たが、啓太と和希の関係は、啓太の中ですら予測出来なかった事だ。啓太は母の漏らした言葉を探る様に心の中で繰り返した。
(結局って…なに?どうしてそんな事…)
 息子の葛藤を感じた母は、涙を拭いて顔を上げる。その顔は、悲しげでもあったが何処かほっとした様な複雑なものだった。
「ごめんね…母さん、あんたに黙ってた事があるの」
「黙ってたって…何?」
 それはきっと過去の事だとは分った。そして、和希との関係と言う事も。
 誰一人明言しなかった和希と啓太との関係。幼馴染みというだけでは理解不能な啓太の行動。思い出した記憶と事故の直前の旅行の謎。そして、和希の名前だけを覚えていた理由。啓太はじっと母の口元を見つめた。
「あんた達…啓太と和希さんはね…」
 一度言葉を切った母を、啓太は真剣な面持ちで待った。
 そして、予想通りの言葉。

「事故の前から、恋人だったのよ」

 ああ、やっぱりと、啓太は思った。関係を持つ前から感じていた、和希と一緒にいる時の何かを忘れている様な感覚。そして関係を持った後の、この充足感。全てが繋がって、安心感から全身の力が抜けた啓太は床に座り込んだ。
「母さん達ね…事故の時、あんた達の記憶が無くなったって聞いて悲しかったんだけど、それと同時に『これで普通の子に戻せる』って思ったのよ。全部白紙になって、一から普通の感覚を身につけていけば、子供の頃みたいに女の子に興味を持ってくれるって…。和希さんの親御さんもそう言ってたわ。あの頃、あんた達は頑だったしね。何を言っても、何をしても別れなかった。でも、人格的には認めてたのよ、どっちの親もね。惹かれるのは理解出来た。まあ、母さんには和希さんがあんたの何がいいのかは分らないけど、それはあちらのご両親も同じ事を言ってたから、得てして自分の子供っていうのは分らないものなのかもね…」
 独白の様な母の言葉に、啓太は胸を打たれた。
 それまでも多々感じていた事ではあったが、この時改めて、自分がどれだけ両親に愛されて来たのかを理解出来た様な気がした。16歳から前の事を覚えていないが故に、戸籍謄本や家族の優しさに触れていても、やはり何処か他人事の様な気がずっとしていたのだ。特に啓太は問題児だった訳でもなく、恋愛ごとに現を抜かさなくなった事故以来に関しては、問題児などではなく寧ろ優等生で通っていた。その事もあって、両親が特に啓太に指導する事もなく、優しい愛情だけが啓太に与えられていた。だが、その優しさだけと言うのがまた現実感を遠ざけていたのである。事故前後の両親の葛藤と、今目の前の母の憂い顔を見て、改めて啓太は目の前の女性から生まれたのだと実感した。そして、罪悪感に苛まれた。
「ゴメンね…母さん」
「なんで謝るのよ」
 俯いて謝罪する息子に、母は優しく声をかける。
「母さんと父さんの思いに答えられなくて」
 学園に転入して暫くたってから告げられた啓太の告白を、母は思い出していた。
『俺、男の人と付き合ってる』
 それは、休日にも戻ってこない息子を心配しての話から出たものだった。子供が家から離れる理由はやはり恋愛事だろうと思ってはいたが、それが普通のものでない事に仰天したのだ。悪い女に引っかかっていた方がまだマシだったかもしれないと、真剣に思った。そして、頭ごなしに怒鳴りつけた。学園まで出向き、その事について話もした。物理的に距離を取らせようと、退学させる事も考えた。だが、何を言っても、それが脅しめいた事でも、啓太は揺るがなかった。ただ明るくて、優しくて、普通に育っていた筈の息子が何故と、何度涙を流したか分らない。どれだけ自分達が本気なのかを知らしめる様に、紹介された相手。その相手にもまた仰天した。過去から何度となく接点のあった相手。しかも、大抵啓太に対して害を及ぼしていた人物で。母の妊娠出産期間に関わりが出来た事は知っていた。5歳以降、啓太は一定期間で検査を受けていたのだ。報告書や示談金、賠償問題などで上がる名字に、両親は正直良いイメージは持っていなかった。まるで物の様に息子を扱う秘書や対応グループに、何度憤りをぶつけた事か。それなのにあろう事か、息子の相手はその中心人物で。それでも2人の真剣な目に、最後は涙を隠して微笑む事にしたのだ。その時にすら出てこなかった謝罪の言葉が、啓太の口からするりと出た事に笑うしか無かった。過去の経歴がなくても、人は成長する物なのだとしみじみと思った。そして、成長したのにも関わらず選びとった相手。女性を経験しても尚、引かれてしまった事実。過去のしがらみの無い所から発生してしまった恋愛感情は、きっともう、誰にも止められないのだろう。だから、鬱々とした気分を隠して、母は明るく告げる。
「あんたは世間的に見たら出来過ぎな子だからね…こんな事でもないと、父さんと母さんは親の苦労が分らないから良いのかもしれないわ」




 翌日、啓太は和希との待ち合わせ場所に向かっていた。
 心の中では母との遣り取りが渦巻いていたが、押さえる事の出来ない心の表れの様に足取りは軽く動いていた。
(言った方が良いのかな…)
 過去の自分達の関係を告げるべきなのか。まだ思い出せていない事を、2人で認識するべきなのか。
(だけど、言ったからって何になるんだろう)
 過去、恋人同士だったからと言って、今の自分達が変わる訳ではないと啓太は思った。それでも一人で事実を知っているのは、卑怯なのではないのかと。和希だって知りたい筈だと啓太は考える。数々の謎を秘めた事象が、判明するのだ。今現在の自分達に何の影響も及ぼさなくても、分らない事を抱えているよりは幾分すっきりするのではないかと。
(ただ、それだけだよね)
 考えを行き着かせた啓太は、軽い話の中で打ち明けようと決めた。
 何も、変わらないのだから。
 過去がどうであれ、今は今のお互いが大切なのだから。

 横断歩道を渡れば、待ち合わせ場所は目の前だった。
 休日と言う事もあってか、やけに人混みが酷く感じた啓太は、人にぶつからない様に一歩下がって信号が変わるのを待つ。赤を示しているそれが変われば、また楽しい2人の一時が待っているのだ。
 だが、何故か啓太は胸騒ぎがしていた。
 理由は分らない。
 そして、それは何時か何処かで感じた物と似ている様な気がした。
 すっと周囲に視線を向けても、いつもよりも多い人出というだけで、日常との差は分らない。
 言い知れない不安が心を覆う。
 何かが起きると、確信にも似た思いで啓太は信号を睨んだ。

 

 

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