あした となりには Act,1


2006.8.1UP




 その日は天気予報の通り、夕方から雨が降り始めていた。
「結構酷いな」
「そうだな。ワイパー効かないよ」
 和希と啓太は、週末の連休を使い、和希の車で鈴菱所有の別荘の一つへ小旅行へと出かけていた。
 一日目、二日目と晴天に恵まれ、プライベートビーチを有するその別荘で思う存分開放感に浸り、今はその帰り道。欲を言えば最後まで晴天に恵まれていたかったが、車での移動の帰り道ともなれば、雨の所為で二人の気分が害される事はなかった。
 明日からは、啓太は学校と時間外活動。和希は学校と仕事に明け暮れ、これから先は暫く二人の時間は望めそうもない。だが、それはいつもの事であり、だからこそ、二人は二人だけの時間を満喫する事に執着し、今回の様な小旅行を幾度となく繰り返していた。
 時には山の中の湖に面したロッジで。また時にはアミューズメント施設を有したリゾートホテル。長期の休みが確保出来た時には、お互いの実家に顔見せついでに二人揃っていく事もあった。だが、どこに行こうともたった一つ変わらない事は、和希の携帯電話の電源が入る事はなかった。それは、今回も同じ事であった。
 そしていつもと同じ帰り道。
 埋められた二人の時間への喜びと、少しの寂しさが入り交じる、複雑な時間。だから、今日に限っていつもより心細くなるのは、この雨による所為だと二人は理解していた。次の同じ状況の時には、きっとこんな気持ちはない。明日から隣にはいられないけど、それでもいつかはまたこうやって、隣に座り、その位置を当たり前の様に感じられる時が来る。
「でも、さ。この雨のおかげか、今日は車少ないよね」
 いつもなら行楽帰りの車のラッシュの時間だというのに、二人が利用している高速道路は、見渡す限りでは2、3台の車しか見当たらず、スピードメーターはいつもの倍の速度を表示していて、流れる車窓からの風景も普段とは色数が少なく感じた。そんな事も、二人の気持ちをいつもとは違う所に運んでいたのだろう。
 だが啓太は、そんな事では説明出来ない様な常ならない不安を感じていた。何故、とはわからない。だが何かが自分達の身の上に起こる様な、そんな予感がしてならなかった。けれども、そんな理由のない不安を口にする事も出来ず、ただ黙って、雨を激しく弾くフロントガラスのワイパーを目で追っていた。
「なんだよ啓太、珍しく大人しいじゃないか」
「『珍しく』はよけいだよ。和希だっていつもより触ってこないじゃん。いつもならここら辺に来ると必ず足とか手とか触ってきてへんな悪戯始めるのに」
「なんだ、触って欲しかったのか?」
「そんな事!誰も言ってな………」
 啓太がやっと取り戻したいつもの調子で和希に言いかけた時。一台のバイクが猛スピードで車の脇を通過し、目の前に割り込んだ。
 その時。
「え………?」
「うわっ!」
 突然フロントガラスが不透明になり、横を流れていた一方向の景色は、めまぐるしく渦を巻く。
 激しいブレーキ音に、啓太はとっさに和希の体を抱き込んで、手に当たった不確認の物を力任せに引き込んだ。突如、凄まじい衝撃とともに体は中に浮く感覚を得て、そのまま意識は闇の中に沈んでいった。











 ピ…ピ…ピ…ピ…

 どこからか、機械音が聞こえる。

 目覚まし時計とは、違う気がする。
 目を開けようとすると、まるで何かに瞼を接着されている様な重さで開ける事が出来ない。
 必死に眼球を動かし、何とか様子を探ろうとしていると、人の声が耳元で叫んだ。

「啓太!啓太!!」

 …誰だろう。
 誰を呼んでいるのだろう。

「先生!啓太が目を覚ましたみたいです!」

 女の人の声だ。

「啓太!しっかりしろ!」

 今度は男の人の声だ。

「お兄ちゃん!」

 女の子の、声?

 重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには白い天井をバックにした、沢山の人の顔があった。そして横を見ると、機械音の正体であろう、緑色に光る波線を描く計器が置かれていた。
「もう大丈夫です。心肺機能は完全に回復しました。意識もしっかりしているようです」
 白衣を着た医者らしき人物が、ベッドの周りを囲んでいた人々に笑顔と共に告げる。とたんに、幾人かが顔を抑えて床に崩れ落ちた。
 その後、白衣を着ていない人は部屋から退出し、その代わりに大きな機械が何台か交互に入ってきてはベッドの上の患者に次々と当てる。合計時間にして2時間くらいであろうか。その間、患者は幾度か眠りに落ち、また目覚めを繰り返していた。そして再び目を開けると、部屋の様子が少し変わっている事に気がつく。施術室から集中管理室に移されたのだ。
 そこで、再び白衣を着た医者と白衣を着ていない人が入室してきた。
 医者は、白衣のポケットから小さなライトを取り出し、眼球の状態や口内をチェックする。そしてそれをしまうと小さな刷毛の様な物で患者の体を撫で始めた。
「今からちょっとした検査をするんだけど、答えられるかい?」
 その問いに、小さく頷く。
「僕が触っている所がわかるかい?」
 白衣を着た人物が宣言通りに問いかける。
「………腕、ですか?」
 掠れた声で、簡潔に答える。
「そうだね。じゃあ、ここは?」
「……太腿」
「ここは?」
「足の指」
「ここは?」
「右手の親指」
「ここは?」
「左手の…中、指」
 矢継ぎ早にされる質問に、患者はゆっくり息をしながら答えていった。
「神経の断絶は現状では確認出来ません。どの四肢もきちんと感覚器官が働いているようです。頭部内部の出血もCTで確認しましたが、こちらも大丈夫なようです。背中を強打している割には、背骨自体には異常は見当たりませんし、あとは肋骨と左腕と左大腿部の骨折、各部所の裂傷が完治すればおそらく問題はないでしょう。あの事故の状態で蘇生出来たなんて、本当に奇跡ですよ。ただ、男性機能だけはもう少し回復してみないと何とも言えません」
 医師の説明を涙を流しながら聞いていた啓太の母は、未だ夢現の目をしている息子の髪の毛をそっと撫でた。
「やっぱり、啓太は運がいいのね。本当に…よかった」
 病室内から緊張が抜け、安堵と喜びに包まれた時、それは起こった。


「あなた方、どなたですか?」


 一瞬にして室内に緊張が戻る。
「…啓太?」
 啓太の父が、目をすがめて息子を観察する様に覗き込んだ。
 その顔を、まるで知らない人を眺める様に見、乾いた唇を僅かに動かして、人々が望まない言葉を載せた。
「『啓太』って…誰?」
 人々の顔から喜びの表情が消え、医師と看護婦があわてて動き出した。

 

 

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