ぴっぴっぴっぴ……ぴ
…………………………
「夜中にすまない…ああ、決めた。…そうだな、準備は出来ているし、明日にでも本社に出向くさ」
………………………………
「いいんだ、もう。それよりお前はどうする?嫁さん子供、一緒に来てくれそうか?…そうか。良かったな、いい嫁さんで………ああ…・それじゃ明日の朝は頼む…そうか?別に疲れているわけじゃないさ……ああ、明日でいいよ……じゃ」
ぴっ
一人、ため息つく。
ふと視線をめぐらせば、窓の外には相変わらず黒い海が広がっていた。それを、暗い部屋の中から眺める。いつもと違う点といえば、部屋の電気をつけない事位だろうか。この部屋の風景は、その程度しか変わらない。
いつもと同じ夜景。
いつもと同じエアコンの駆動音。
いつもと同じ、アナログな時計が秒針を刻む音。
手元に置くグラスの中身もいつもと同じだ。
けれど、変わってしまった物が、この部屋の空気を違うものへと押し流す。
かちっ…かちっ…
時計の音にノイズが混じる。
目を凝らすと、窓の外に無数の銀色の筋が見えた。
「…雨、降り出したんだね」
不意に響いた声に、びくりと体を揺らしてしまった。
「ごめん、驚かせた?」
「いや…起きたんだな」
「…うん」
声の主の方には振り返らない。
いや、振り返れない。
どんな表情でベットルームを出てきたのかなんて、見られる訳が無い。
「…これ、俺も貰っていい?」
「…ああ」
しゅるっと衣擦れの音をさせて、啓太がリビングテーブルの上に置きっぱなしになっていたボトルに近づく気配がする。
続いて、グラスに注がれる水音が響く。
「…和希は?入れる?」
「いや、俺はいいよ」
黙りがちではあるが、普通の会話が続く。
さっきまでの激情など、まるで無かったかの様な穏やかな声色。
「…俺も、そっちに行ってもいいかな」
遠慮がちな啓太の言葉に、俺は無言で答えた。
程なくして、腕に柔らかいシーツの感触が当たる。
15畳のリビングは悠々と二人が過ごせる空間を与えているのに、窓脇の壁に、二人でもたれて外を眺める。
「…さっきは悪かった」
「…ううん」
俺の謝罪の言葉をどう受け取ったのか。
一瞬の沈黙の後、啓太は曖昧に答えてくれた。
「…体、きつくないか?」
「大丈夫だよ」
時刻はまだ深夜。
窓の外には、雨で煙ってはいても相変わらず黒い海が広がっている。
夜の海は嫌いだ。
何もかもを飲み込むようなその深い黒が、逆に俺の中の弱い部分だけを曝け出させるような錯覚に陥らせる。
そこにその黒い海があるという事が不快だと感じているのに、目がそらせない。
まるで啓太そのものだ。
啓太さえ居なければ、見なくて済んだ自分の弱い部分。
逆に啓太が居なければ、自分自身の存在理由すら得ることは出来なかった。
居て欲しい思いと居て欲しくない思いを交差させながらここまで来たが、俺は、啓太が居なければ自分の道すら決められない男だったと思う。
結局は甘えていたのだ。
『伊藤 啓太』と言う存在に。
不安と焦燥に眩暈がする。
一度身近に感じてしまった啓太を、前の様に遠い存在として考えることが出来るのであろうか。
『誰かの身代わりはごめんだ』と言いながらも完全に離れることをしないで傍に居たのは、どう言い繕っても啓太の居ない生活など考えられなかったからだ。
二人の間の静かな空気が、別れを非現実的なものへと変える。
だが、それは確実に後数時間で訪れるのだ。
一言に『別離』といっても、色々種類はあると思う。
心の『別離』。
体の『別離』。
距離的な『別離』。
今回の自分の行動を考えれば、距離的な『別離』が一番俺たちに必要な『別離』に合致するのだと思う。たとえ、啓太が許してくれているとしても…。
我を忘れたさっきまでの自分に、激しい後悔を感じる。
さっきの事があろうがなかろうが、別れは訪れたのであろうが、決定的な物にしたのはさっきの啓太に対する行為だ。人に対して暴力的な衝動に駆られて、制御出来なかった自分。他の人に対してそんな事になるとは思えないが、啓太に対してそうなったというのが一番の問題だ。
してしまったことに対する後悔も、今回が初めてだ。よく『消してしまえるなら消してしまいたい』と言っている人を見るが、自分には関係の無いものだと思っていた。
この先、啓太無しでどうやって生きていけばいいのか検討が付かない。
周囲の期待に答える為だけに生きて行くのか。
今までの様に、自ら望んだ人を守る為ではなく、見た事も無い何万という人間の生活を守る為だけに、自分を捨てて…・そんな人生を送っていけるのか。
元来自分は、周りに定められたレールの上をひた走れる大人しい気質でも、責任感が強い真面目な性格の人間でもないのだ。その上、生まれたときから苦労が無い所為か、財や地位にも興味は無い。今、人の引いたレールの上に居るのは、そこに自分の利を見つけたからに過ぎないからだ。
啓太が居なくなれば、そこに利は無くなる。
これから自分の人生を、もう一度見つけなければならない。
『伊藤 啓太』以上の、俺の生きていく理由を…。
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