Jesus bleibet meine Freude Act,2

2011.08.05UP




 企業名と名前で、その旅館はすぐに和希に対応した。
 当たり前の反応ではあったが、それでもこの景色を保持しているこの期間に、逗留できる幸運を思った。
 桜など、都心でも見られる。
 留学先にも観光地はあったし、そもそも和希の家の庭にも植わっている。
 なのにどうしてこんなに惹きつけられるのか、和希にも理解できなかった。
 通された部屋からその部屋の為だけ庭の、温泉つきの景色を眺める。
 子供の頃、学業の合間に気分転換で訪れたっきり、温泉旅館など縁がなかった。
 息抜きといえば、精々パーティなどで訪れるホテルのラウンジを利用するくらいだ。
 最近は、日本情緒に触れる暇もなく、そんな和希には目の前の景色は更に美しく見えた。
 咲き誇る桜と、適度な大きさの露天風呂。
 景観を重視して作られているのだろう庭に、それでも有名という訳ではない老舗旅館の庶民感覚が、なんとなく楽しかった。
 持っていた仕事を部屋に運び込んでもらい、片手間に庭を眺める。
 結局一人では、すっかり仕事から離れる事も出来ずに、いつもと違う空気の中で、日常を過ごした。
 それでも夕食が終われば、やる事がなくなってしまった。
 夕食を運んで来てくれた仲居に、このあたりの名所を聞いても、和希が魅せられた桜の森くらいのもので、他に目新しいものも無いとの事だった。
 手持ち無沙汰で、館内をうろついてみる。
 和希が通されたのは離れの特別室で、他の部屋の様子が見たいと思った興味本位の散歩だった。
 離れとは別に、本館についている庭もあると教えられて、足を向けた。




 本館の庭は、離れの個人用の庭の広さとは規模が違うものだった。
 大勢で楽しむ事を目的とした、広さ。
 当たり前の旅館の待遇に、結局自分の身の置き場はココしかないのだと、溜息をついてしまう。
 一般の部屋でも、おそらく和希は楽しめた。
 それは和希の日常では無いからだ。
 だが、世間にそれを悟れと言うのは無理なのだと、理解している。
 故に自分の環境を諦めて、素直に楽しむ事にした。

 暫く歩いていると、夜中だというのに人の気配がする。
 自分と同じような奇特な人間もいるものだと興味を持ち、その気配を追った。
 そこで一人の少年を見た。
 背は和希よりも少し低いくらいで、それでも男としては華奢な体格。髪は癖が奔放に跳ねて、毛先がくるんと丸まっている、自然な赤茶だ。
 十分な光の無い状態で茶色に見えるのだから、彼の髪の毛は相当色素が薄いのだろうと、自分が言われている事を思い返して、それでも染めている雰囲気でも無い、純朴そうな雰囲気の少年だった。
 華奢な体が、満開に咲き誇っている桜に埋もれそうな、そんな淡い印象を和希に与える。
 そんな雰囲気でもその少年は、カメラをかまえて、立ったり寝転んだりと、活発に自由奔放に動き回っている。
 何をしているのかと見つめていれば、彼は振り返った。
「あ、すみません。夜中に五月蝿かったですか?」
 パシャパシャと鳴り響くシャッター音は、コの字型に作られている本館には、確かに響くかもしれない。
 ためしに振り向いて、仰ぎ見てみたが、誰一人として窓から覗いている人間もいなかった。
「いや、大丈夫そうだよ。何してるの?」
 写真を撮るのに、何をそんなに動き回っているのかと問えば、少年は頬を染めて答えてくれる。
「雑誌の受け売りなんですけど、角度によって全然風景って違うらしいから、試してみてるんです」
「へえ、そうなんだ」
 言われて見れば、確かに理解できる。
 子供の頃、情操教育で習わされた絵画でも、一つのモチーフを角度を変えて描かされた記憶があった。
 数言交わして、再び少年は、華奢な体に似合わない厳ついカメラを振り回している。
 その光景が、可愛らしく、おかしい。
 思わずくすりと笑ってしまった和希に、少年は再び振り返った。
「やっぱり俺の方法って、間違えてます?」
 笑った和希をそう捉えた少年は、大きな青い瞳を探るようにクルクルと回した。
「ああ、いや、そうじゃなくて。っていうか俺も解らないし。君、カメラマン目指してるの?」
 体格に合わないカメラを指して問えば、少年は首を横に振った。
「懸賞で当たったんです、コレ。折角だから活用しようと思って」
「欲しくて応募したんじゃないの?」
「や、欲しかったんですけど、目的が違ったかな」
 和希の問いに、ふと少年はそれまでの屈託の無さを消して、語尾を濁して再び桜を見上げた。
「下手の横好きなんですけどね。実際にカメラから見る景色を見たら、肉眼で見ているよりも断然綺麗に見えるから、驚いて」
「そんなに違うの?」
 素直な和希の問いに、少年は笑ってカメラを和希に手渡した。
 ファインダーを覗いてみれば、確かにいつもとは景色が違って見える。
 そして淡い桜の花の美しさが、際立っていた。
「……綺麗だね」
「ええ。でもこの景色が一瞬だから、余計に綺麗に見えるのかも」
「確かに」
 年中割いている花に、視線を固定させる事はない。
 故に日本では、桜は特別な花なのだ。
 今が盛りと咲き誇る花を見上げて、ふと和希は思いついた事を口に乗せてしまう。
「ねえ、知ってる?」
「何をですか?」
 主語の無い和希の問いに、少年は小首をかしげて、桜から和希に視線を移した。
「桜の木の下には、死体が埋まってるんだって。その血を吸い上げて、こんなに赤く咲くんだって」
 オカルト的な発想だと思う。
 それでもこの色は、そう言われれば納得してしまう。
 それでも少年は、和希の言葉に首をかしげて考える素振りを見せた。
「……そう考えると、気持ち悪いかも。……でも血を吸ってるなんて考えるから、気持ち悪いんですよ」
「じゃあ、君はどう考える?」
「そうだなぁ……死体が埋まっているって事から考えると……その人の生前の思い出を昇華させる為に、こんなに綺麗な花をつける……って考えたら、素直に綺麗だって思えますよね」
「……綺麗な思い出だけじゃないと思うけど」
「だから、綺麗な花にするんですよ。嫌な事もいい事も平等に綺麗に咲かせれば、思い残す事も無くなるから」
 年の割りに、何かを悟ったような言葉を吐く少年に、和希は思わず魅入ってしまう。
 あどけない顔からは想像もつかない哲学的な言葉を紡がれて、今までに感じたことの無い、人に対する興味を抱いてしまった。
 再びカメラを構えた少年に、和希は声をかける。
「ココにはご家族と来てるの?」
 世間話のような言葉に、彼は瞬きをして振り返る。
「……いえ、一人ですけど」
 深夜のこの時間に、庭でカメラを構えていると言うことで、理解していた言葉を得て、和希は笑う。
「俺も一人なんだよね。よかったら、写真撮る場所とか、一緒に行ってもいいかな」
「……別に良いですけど、目的とか無かったんですか?」
「うん。思わぬ休暇が入っちゃって、暇つぶしでココにいるだけだから、はっきり言ってつまらなかったんだ」
 和希の言葉に、彼は一度大きく瞬きをして、その後花が綻ぶように笑った。
 その顔が、和希には背景の桜の花よりも綺麗に見えた。
 ドキリと一つ、大きく心臓が鼓動を打ったのを感じて、今までに無い感覚に驚いて、それでも次の瞬間には素直にその感覚を楽しんでしまう。
 休暇などと思っていたが、思わぬ拾い物だと、仕事で張り詰めていた気持ちが凪いで行く感覚を得られて、彼に感謝してしまう。
「君、名前は?」
 凪いだ気分のまま笑顔で問えば、彼もまた笑って答えてくれた。
「伊藤啓太です。あなたは?」
「鈴菱和希。苗字は呼び辛いだろうから、和希って呼んで」
 ファーストネームの誘いに、彼……伊藤啓太も笑う。
「じゃあ俺も、啓太って呼んで下さい。友達からは、名前で呼ばれてるから。伊藤なんて在り来りな名前じゃ、街中で呼んでも10人に振り返られるって」
 あまりの理由に、和希は素直に笑ってしまった。
 和希の笑顔に、啓太も笑う。
 笑いながらお互いに握手を交わして、和希は啓太に問うた。
「で、これからの予定は?」
「明日は絶景ポイントに行く予定です。朝早いけど、大丈夫ですか?」
「朝は自信あるけど、何時?」
「5時には出ようかと思ってます」
「じゃあ玄関ロビーに5時で待ち合わせはいいのかな?」
「ええ、いいです」
 啓太の了承を得て、和希は再び笑った。
「自分で言っておいて、遅刻しないでくれよ」
 和希の言葉に、啓太は頬を膨らませる。
「和希さんって、エスパー? 俺、朝弱いんですよね」
 いつも指摘されている事なのか、啓太は和希の言葉に拗ねる素振りを見せる。
 可愛い。
 素直にそう思える啓太に、和希は益々興味を持ってしまった。
「じゃあ、来なかったら電話鳴らしてあげるよ。良かったら番号教えて?」
 続く和希の言葉に、啓太は再び大きく瞬きをして、その後、おかしそうに笑った。
「なんか俺、ナンパされてるみたい」
 言われて初めて、和希も自分の会話の流し方に気がついて、瞬きをしてしまう。
 その後、言われたとおりの自分の行動に笑ってしまった。
「そうだね。俺、啓太君の事ナンパしてる。こんな事したこと無かったから、言われて今気がついちゃった。俺なんか相手に出来ない?」
 笑いながら問えば、啓太は首を横に振った。
「そっちこそ、俺なんかナンパしたくないでしょ?」
「したいから声かけたんだよ。……まあ、これがナンパだって気がついてなかったけど」
 素直な興味だったと告げれば、啓太はまた綺麗に笑った。
 その笑顔に、再び和希の胸が大きく鼓動を打つ。
 この感覚の名前を、この時点では和希は気が付いていなかった。
 いや、今まで経験した事の無いこの状況故に、理解できていなかった。
 笑う和希に、啓太はポケットから自分の携帯電話を取り出して、和希に差し出す。
「自分の携帯にかけてください。発進履歴から俺、登録するから」
 差し出された携帯電話は、世間で出回っているよくあるもので、啓太の身辺状況を悟る。
 彼は、普通の家庭の人間だと。
 それでも和希は、啓太の携帯を受け取って、自分の滅多に使わないプライベート用の携帯にダイヤルした。
 一連の行動を終わらせて、啓太に携帯を返せば、啓太は首をかしげて和希の動作を見守っている。
「……どうしたの?」
 何か問題があるのかと問えば、啓太は極一般的な答えを口にする。
「え、だって、今バイブレーター音も着信音も聞こえなかったから」
 身につけているだろう携帯電話の存在が感じられなかったと訴える啓太に、和希は眉を下げた。
 和希が所持している携帯電話は3台だ。
 一つは自分が管理している会社用。
 もう一つは家族企業からの連絡用。
 そしてもう一つがプライベート用だった。
 一番使用頻度が低い携帯電話を持ち歩いている訳も無く、今持っているのは自分が管理している会社用の携帯電話だった。
「今啓太君の携帯からかけたの、プライベート用の携帯なんだ。会社用のはいつも持ち歩いてるけど、プライベートのは滅多に使わないから部屋に置いてきちゃってるんだ」
 大人の事情に、啓太はくるりと表情を変えた。
「あ、成る程。……でも、友達から怒られません?」
 普通の少年の感覚の啓太に、和希はまた苦く笑ってしまう。
「俺の友達はみんな社会人だよ。基本はメールだけだからね」
 いつでも時間の空いた時に連絡が取れる方法を伝えれば、啓太は「ふうん」と感心したように頷いた。
 それでも視線が泳いでいて、和希の言葉の真意を悟っているのだと示している。
 あどけない見かけなのに、鋭い観察眼に、和希は苦笑してしまった。
 実際に和希がプライベートの携帯を持ち歩かないのは、頻繁に連絡を取る友達などいないからだ。
 関係するのは、仕事がからむ相手だけ。
 故に、持ち歩くのは仕事関係の携帯電話だけで問題が無いのだ。
 寂しい人間だと悟られて、それでも何も言わない啓太に、彼の心の優しさを見る。
 それでも人を疑う事を当たり前の生活としている和希は、啓太がただ単に、まだ出会って数分の相手に言える事では無いと境界線を引いているのか、真に優しいのかは、この先じっと見てみたいと思った。
「じゃあ、明日よろしくね」
 笑って翌日の約束を告げれば、啓太はまた笑った。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 朝の目覚ましの事を言っているのだと分かり、和希は笑って「了解」と告げて、庭を後にした。

 

 

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