まだ肌寒い春の朝は、霧に包まれていた。
フロントの受付以外は誰もいない本館のロビーで、和希はガラス張りの玄関の外を眺めた。
写真を撮るには、朝もやが邪魔ではないのかと、この場に来て気がついたのだ。
左腕に巻いている時計に視線を落とせば、午前4時50分。
約束まで後10分だ。
妙に浮かれて、予定よりも早く来てしまった自分に笑ってしまう。
少年とのデートを楽しみにしているのが、滑稽だ。
夕べ、ナンパと言われて、そうなれば今日の約束はデートだと、布団の中で笑ってしまったのだ。
そしてイソイソと早くに目を覚まして、身支度を整えて彼を待っている自分がおかしい。
こんな事は、本当に生まれて初めてだった。
「あれ? 俺の時計、狂ってる?」
ロビーに声が響き、待ち人が現れた事を和希に知らせる。
「おはよう。狂ってないよ。俺がちょっと早く来ちゃっただけ」
「本当に朝強いんですね。羨ましいなぁ」
ふわあ、と、大きく欠伸をしながら、啓太は和希に歩み寄った。
「おはようございます。……でも、その格好で大丈夫? 結構山の中入りますよ?」
和希の格好は、和希の普段着だった。
ビジネス用ではないカジュアルな靴でも革靴で、洋服もやはりビジネスでは着用できないカジュアルなスーツだった。
それ以外の服を持っていないのだから、仕方が無い。
突然の逗留に、秘書に街まで買いに出てもらったものだったので、全てが有り合わせだった。
「別に、汚れても良いよ。普段着だから」
ジーンズにダウンジャケットの啓太に笑って告げれば、啓太は少し困った顔をして、それでも和希を伴って旅館を出た。
だが和希は、自分の言った言葉を、この後後悔する破目になる。
暫く道なりに歩いて、細い山道のような場所までたどり着いた。
その間、二人で他愛の無い話をした。
啓太がカメラの知識を得た雑誌の事や、お互いの現住所の事など、本当に些細な事だったが、それでも和希には楽しかった。
だがその細い山道に足を踏み入れて10分で、きつい山道に、日頃デスクワークの体が悲鳴を上げる。
スポーツクラブには通っているが、ベルトコンベアーの上を走っているのと実際の道では、足にかかる負荷が違っていたのだ。
その事に気がついた時には、既に引き返せなくなっていた。
息の上がっている和希に、啓太が振り向く。
「大丈夫?」
「だいじょう、ぶ、とは、言いがたい、かもッ」
既に会話の出来なくなっていた和希に、啓太は肩をすくめる。
「大体、そんな格好で旅行って、いつもどんな生活してるんですか」
「そう言う、啓太君、は、動きやすそう、だよねッ……っていうか、若いッ」
同じ行程を歩んできているのに、息一つ乱れない啓太を問えば、啓太は笑った。
「若いですよー。まだ18だもん」
「十代、か。大学生?」
「もうちょっとでね。高校は卒業しちゃったから」
「その年で、一人旅なんて、渋い、ね」
高校を卒業したてと言うのなら、友達同士で卒業旅行にでも来ていそうな物だと、ふと思う。
それでも和希の学友にも、一人旅を好んでいた人もいたので、そんな彼を思い出して啓太に告げた。
「結構いつも、ふらっと一人でしますよ。人と一緒も楽しいけど、一人も楽しいから」
「へー……ッ」
息も絶え絶えに、それでも会話を続けていれば、更に道は険しくなっていく。
そのうち、一応土が見えていた山道から、更に脇にそれて、まさしく山の中を歩く破目に陥った。
朝の啓太の言葉を、和希は痛感する。
確かに、最低でも啓太の装備は必要だったと。
別に、服は汚れようが破れようが構わないが、切実にスポーツシューズが恋しかった。
そんな和希を見かねて、啓太は手を差し伸べる。
差し出された手を見つめていれば、啓太は笑って和希の手をとった。
格好が悪い、と、そうは思ったが、和希は素直に啓太に甘えた。
「貴方も若そうですよね。大学生とか?」
歩きながらの会話が続いて、啓太からそんな言葉が零れる。
「……嫌味?」
この程度の運動で息が切れている和希に言う事ではないだろうと睨めば、啓太は笑った。
「俺、結構体力あるから。同じクラスのヤツでも、あんまり一緒に行動したがらないから、平気ですよ。普通普通」
和希の手を引きながら、笑う啓太に、和希は会話を続けた。
「大学生には、よく、見られるけどね……ッ、コレでも、一応、社会人だよ。27」
童顔だと、いつでも言われる。
少し前に、小学校の同窓会に誘われて、中学校から別の道を辿った和希に会いたいと言われて顔を出した時に、まったく変わらないと笑われたのだ。
結局その誘いは、和希の背後を期待したクラスメイト達の誘いだったのだが、あまりあからさまに周りと線引きは見せたくない和希は、「仕事の合間だから」と理由をつけて、10分だけ出席して帰ってきた。
「どんな仕事してるんですか?」
純粋な興味だと解る質問に、それでも周りと同じ反応をされたくないと、啓太には言葉を濁してしまった。
「まあ……一応会社経営」
どの企業かは言えない。
言った後、啓太の視線がどう変わるのかが、和希には怖かった。
そんな心を見ているのかいないのか、啓太は一般的な反応を和希に返す。
「すごーい! その若さで社長さんなんだ!」
どんな形であれ、会社経営が出来ると言うのは、普通の人から見れば才能と取られるのかもしれない。
実際に、和希の周りで自力で起業した人間は、啓太と同じ反応を周りから貰っていた。
その事が少し、和希は寂しかった。
自分の才能ではないから。
「親から譲り受けたものだからね。大した事ないよ」
思わず啓太には、その心を零してしまう。
口にした後、自分の口走った言葉に、和希は顔を顰めた。
こんな、まだ社会にも出ていない人に言って、何になるのか。
無意味だと思いつつも、それでも啓太に告白した事で、何故か和希の心は軽くなった。
「お坊ちゃんかー。俺には想像もつかないや」
和希の告白に、啓太は今までと変わりない口調で返す。
啓太の様子に、先程の啓太の言葉が、世間一般での流れからの単なる会話だと気がついて、外見と中身の啓太の違いに、再び和希は感心してしまった。
結局、どうでもいいのだ。
ただ単に、和希の身の上を聞いただけ。
仕事のことも格好も、啓太にとっては和希を構成する一つの要素であって、他の何物でもないのだと、そう和希は感じた。
会社の社長をしているからどうと言うこともなく、ただ単に、世間の評価を口にしただけ。
そして自力で起した会社ではないと言う情報に、自分の知らない世界だと、そう伝えただけ。
構成する要素が何であれ、今一緒に居る和希には変わらないと、そんな雰囲気を保持している啓太に、今までの自分の身の回りの人間と違うものを感じた。
変わらずに和希の手を引いて歩き続ける啓太が、真に自分が求めていた人間が彼のような気が和希にはして、彼の跳ねている茶色の髪の毛が揺れるさまを見つめ続けた。
それでもその状態が更に5分続いたところで、本格的に体が悲鳴を上げ始める。
もう足の裏の感覚が無かった。
我慢も限界と、和希は啓太に尋ねる。
「……ていうか、どこまで、登るんだッ?」
「もうちょっとー」
途切れ途切れの和希の問いに、啓太は笑いを含めて軽く返答する。
きょろきょろと辺りを見回して、一方向に視線を留めたかと思えば、勢いよく和希の腕を引っ張って、歩調を速めた。
あわや転ぶと和希は冷や汗をかいたが、啓太がそうした理由はすぐにわかった。
歩調を速めて数歩で、途端に視界が開けたのだ。
その景色に、魅入ってしまう。
旅館を出たときには濃かった朝もやが少し晴れて、朝日と日の光を反射する少量のもや。その中の桜の森が、この世のものとは思えないほど美しかったのだ。
朝日の角度も絶妙で、青空と朝の強い光を映したオレンジのグラデーションに、もやのお陰で桜の色も普通に見るよりも強調されている。
幻想的な光景に、言葉を失ってしまう。
そんな和希の隣りで、啓太は嬉々として夕べ振り回していたカメラを、背負っていたリュックから取り出して、ファインダーから見える位置を調整していた。
最初のシャッター音で我に返った和希は、素直にその光景の感想を述べてしまう。
「……凄い」
思わずと言った風情で零れた和希の言葉に、啓太は笑ってシャッターを切り続けながら答える。
「雑誌に出てた場所なんですよ、ココ。って言っても、風景しか出てなかったけど。角度と地図と照らし合わせたら、多分ココだろうなって思って、来方を旅館の人に聞いたんです。そしたらこの悪路でしょ? 物好きだって言われちゃった」
笑いながら、それでも求めたものを掴んだ啓太は、朝日に照らされて輝いていた。
夕べ、庭で彼の髪の色素の薄さを思ったが、その中の単純ではない色調に、和希は純粋に彼の美しさを感じる。
パッと見ではどうと言うことのない普通の少年なのに、表情と、黄色人種だと理解できる範囲の色素の薄さが、あまりにも綺麗で。
意図せず、啓太に見惚れてしまう。
そんな和希に、啓太は笑って、リュックの中からペットボトルを取り出して、手渡してくれた。
「喉、渇いたでしょ? どうぞ」
彼の好みなのか、炭酸飲料のペットボトルに、和希は戸惑う。
「え、でもコレ、啓太君が飲むものだろう?」
「大丈夫。もう一本あるから。あと、ビニール袋で悪いけど、コレ敷いて座っててください。あと20分くらいは撮るから」
和希のスーツを思っての啓太の言葉に、渡された荷物を受け入れた。
こんな扱いは、受けた事が無い。
初めての体験に、和希はまた自分の胸が大きく鼓動を打つのを感じた。
行動を共にしたいと自分から願い出たのも初めてで、更に和希にこんな一般のものを渡す人間も初めてだった。
コンビニのビニール袋を敷いて据わっていろと、そんな雑な扱いをされた事などない。
更に、手渡された市販のジュース。
和希があまり目にしない、毒々しい色の、特別でもなんでもないソレに、思わず笑ってしまう。
オレンジと書いてあるのに、果汁0%とは、どんなオレンジジュースだと、素直に笑ってしまった。
それでも悪路を歩き続けて乾いた喉には、美味しく感じられた。
珍しい種類の運動にかいた汗を乾かすために、着ていたコートを脱いで、ジャケットを揺らす。
冷たい春の朝の空気が心地よかった。
更に手にした俗っぽい飲み物など気になら無い程の、絶景。
人心地つけば、和希は啓太に礼を告げる事が出来た。
「連れてきてくれて、有難う」
啓太の言葉通りに尻の下にコンビニのビニール袋を敷いて座り、和希は啓太を振り仰いだ。
そんな和希に、啓太はまた笑う。
「よかった。疲れ損だって言われなくて」
一言だけ交わして、刻々と変わる朝の空気に、啓太はシャッターを切り続けた。
山の上から見る朝日は、子供の頃、情操教育で山登りをさせられた時の景色とはまるで違うものに和希には見えた。
あの時は、今啓太が言った通りに「疲れ損」だと思ったのにと、感覚の違いに思いを馳せる。
それでもその理由はすぐに悟った。
近くにいる、啓太のお陰。
出会ってすぐの少年に、和希はすっかり心を許していた。
啓太の雰囲気が、和希をそうさせた。
珍しい事の連続に、和希はこの二日で生まれ変わったかの様に、自分の感覚を思う。
啓太といる間は、仕事の事など思い出しもしなかった。
本当に、初めての事。
学業をしていた時は、必ず頭の中に次の課題や研究を思い浮かべ、終わった後は仕事の事だけ。
何度か親にさせられたお見合いでは、いつでも「ご趣味は?」の質問に困っていた。
なのに今は言える。
啓太と一緒に居ること、と。
楽しいひと時に、シャッター音をBGMにして、和希は慣れないキツイ味の炭酸飲料を飲み干した。
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