白い。
世界は果てしなく白かった。
ロックオンは白の中で、天井らしき場所に一箇所だけ空いている天窓から見える青空を眺める。
そして何時もの癖で話しかけた。
「刹那ぁ、今日良い天気なんだな」
何時でも隣りにいる筈の女に声をかけたが、答えは返らなかった。
そして気がつく。
彼女はいないのだと。
「ああ、そうか。アイツは親父の世話をしに行くって言ってたっけ」
思い出した事柄をポツリと呟いて、再び空を見上げる。
青。
切り取られた四角い視界からでも、そこが果てしなく広がっていると想像ができるような、清清しい青だった。
その清清しさを感じて、再び独り言を零す。
「お袋も刹那に頼りすぎなんだよ。自分の夫くらい自分で見ろってんだ。エイミーは遊びに行ったっきり帰ってこねぇし」
自分の家族を思ってくれている女が恋しい。
その気持ちを誤魔化すように、ブツブツと独りで文句を言ってみる。
当たり前の、家族。
自分の妻に頼る、それでも愛しい家族。
仕方がねぇなともう一度呟いて、空に視線を戻せば、どこからか赤子の鳴き声が聞こえた。
それに気がついて、ああ、と、また呟いて立ち上がる。
「泣いてんじゃねぇか。えっと……この時間だとミルクか?」
時計などない部屋でそう呟いて、泣き声の方向に白い世界を進めば、ベビーベッドに寝ている一人の子供がいた。
当たり前のように抱き上げて、キスを落とす。
「ごめんな。母ちゃん今留守なんだよ。だから父ちゃんで我慢しような」
白い世界の中でぽつんと置かれていたベビーベッドに違和感も覚えず、当たり前のようにベッドの隣りに置かれていた哺乳瓶を手にして、あやしながらも口元に運んでやれば、赤子は素直に手を伸ばして生きる糧を貪った。
その愛らしさに頬が緩む。
愛した女が産んでくれた、自分の子供。
自分の遺伝子。
肌の色がくすんでいるのは、彼女の遺伝子。
まだ薄い頭髪は、それでも存在を表す黒だった。
愛しさに、視界が霞む。
幸せだった。
幸せゆえに、涙が浮かぶ。
「……可愛いなぁ、刹那にソックリだ。変な男にひっかかるんじゃねぇぞ?」
自分のような。
こんな男に惚れるなよと、まだ言葉を理解していない赤子に諭して、もう一度額にキスを贈った。
ロックオンのキスなど当たり前の顔をして、赤子はミルクを飲み続ける。
白い世界に溶け込むような白いミルクは、全て赤子に吸い込まれた。
「おお、元気元気。いっぱい飲んだな」
飲み終えた哺乳瓶を傍らに置いて、赤子を抱き上げて背中を叩く。
小さく耳元で聞こえたげっぷに、緩んだ頬が更に柔らかな弧を描いた。
腕に抱いた子供は、満腹を訴えるようにロックオンの癖の強い茶色の髪の毛を引っ張る。
「いてて……こら、良い子にしろ。お前、俺の髪の毛すきだよなぁ。今度ライルが遊びに来ても、あいつのは引っ張るんじゃねぇぞ? 同じでも俺じゃないからな?」
双子の弟を思い浮かべて、いつでも自分と間違われると不貞腐れていた顔を思い浮かべる。
仕方がないだろ、双子なんだから。
同じ顔なんだから、間違えられたって。
そう宥めるニールに、ライルは「それでもイヤだ」と駄々をこねる。
何時もの遣り取りがまたすぐに出来ると、そう思っていた。
軽く体を揺らしながらあやしていれば、赤子はむずがるようにロックオンから離れようとする。
「なんだよ、親離れには早いだろ」
まだ抱いていたいのに。
もう少しだけ、腕の中に。
それでも動きは激しさを増して、どうしたら良いのかと眉を下げる。
「刹那ぁ、早く帰ってきてくれよ」
俺だけじゃ、どうにもならない。
そう、白い空間で言葉を漏らした。
「……おい、大丈夫か? どこか辛いか?」
返らないと思っていた言葉に返ってきた答えに、ハッとロックオンは目を覚ます。
今までの事が夢だったと、その段階で気がついた。
「…………なんだ、夢か」
呟いたロックオンに、刹那は溜息を零す。
「夢の中でまで、俺は必要なのか?」
どんな状況に居たんだと問われて、ロックオンは笑った。
「良い夢だったんだ」
家族がいて。
家族に文句が言えて。
子供がいて。
幸せな家庭が当たり前で。
夢の中のロックオンは、当たり前の世界だと認識していた。
そんな感想を刹那に語れば、刹那は首を傾げる。
「それのどこに俺が必要だったんだ?」
「子供がさ、ぐずってたんだよ。俺の抱っこじゃダメだったみたいで。だからお前に帰ってこいって文句言ってた」
「……そうか」
夢の状況に、刹那も幸せそうに笑った。
だが現実はこんなにも辛い。
文句を零した両親はいない。
妹もいない。
弟ももう長い事会えていない。
またこれからも会えないかもしれない。
夢の中で見ていた視界は広かったが、目が覚めれば半分の世界で。
家庭など持てない状況で。
自分を待ち受けているのは、戦場で。
弟を遊びに誘うなど、夢また夢。
けれど、夢の中でも諭した自分に笑った。
「俺の弟さ、俺と一卵性の双子なんだよ。だから顔が同じなんだ。だけどアイツ、子供の頃から俺に間違われると烈火のごとく怒っててさ。夢の中で言葉も通じない赤ん坊に「間違えるなよ、怒られるぜ」って諭しちまった。昔からの癖って怖いな」
そう言って笑うロックオンに、刹那も微笑む。
微笑む刹那に、ロックオンもまた微笑み返した。
穏やかな雰囲気に、なんとなく刹那は問う。
「お前と双子という事は、弟ももう24歳なんだろう? いい加減怒らないだろう」
「いやあ、わかんないぜ。アイツ結構頑固だから」
「そういうところは遺伝子か?」
「そうかもな。お袋が頑固だったから」
「お前の事を言っているんだ」
刹那の言葉に、驚いたように瞬いたロックオンの眼を見て、おかしそうに刹那は笑った。
つられてロックオンも笑う。
だが、急に笑を収めて「あ」と呟いた。
「どうした」
何か気になる事がと刹那が問えば、ロックオンは少しばつが悪そうに口を開く。
「……お前、俺のデータ全部持ってるよな?」
「お前が渡してくれたものならば」
「今月、振り込み損ねた」
「……振込み?」
何の事だと問えば、ロックオンは溜息混じりに詳細を語った。
「その、弟のライルにさ、俺ずっと送金してるんだよ。アイツが普通に生活できるように、ずっとしてた。大学もいってるって調べたから続けてたんだけど、今月はほら、色々あっただろ? つい忘れてた。悪いんだけど、お前が代わりに手続きしてきてくれないか?」
ベッドの上で「頼む」と手を合わせる男に、刹那は首を傾げてしまう。
「それは構わないが……弟ももう働いている歳じゃないのか? 生活補助など、必要なのか?」
「どうだろう。でも金はあったに越した事はないだろ?」
その言葉で、ロックオンが詳細に弟の現状を調べていない事が解り、刹那は溜息を零す。
どうして肝心な所を調べないのか。
心配だと言うなら、普通調べないだろうか。
そうは思ったが、それでも頼まれた事に否は言えず、「了解した」と返答すれば、ロックオンはまた笑顔を取り戻す。
そして当たり前のように刹那に端末を取ってくれと頼む。
「今からライルの口座送るから、ソコに今月の支給金額の半分入れて……あ、いや、今月から三分の一にしよう」
何かを思いついたらしいロックオンに、刹那は自分の端末に送られたメールが表示できるかを確認した後、説明の視線を投げる。
その視線にロックオンは、嬉しそうに答えた。
「だって、なんか予知夢っぽくないか? そろそろ俺もちゃんと溜めようかなって」
「……ああ、なるほど」
子供の為に。
夢の中で抱いた子供が、現実に来るように。
そう呟くロックオンの顔は、酷く幸せそうで、刹那も笑って了承を告げる。
それでもその後に「だが」と付け加えた。
「俺は支給金は殆ど手をつけていない。だからお前は思う存分、好きなだけ弟に渡しても大丈夫だ」
養うのはお前だけじゃないと告げれば、ロックオンは少し頬を膨らませる。
経済の主軸が自分に置いて貰えないなど、下らない男の沽券だと理解している故に口には出せないが、自然と表情に出てしまったのだ。
最近彼が、刹那に心が隠せない事に気がついていた。
本当のこの男は、こんなにも幼い。
それでも愛しいと思うのだから、始末に終えないと刹那は心の中でため息をつく。
その溜息は、幸せの証だった。
「そんな事いうなら、財産相続の割合変えるぜ?」
「ああ、好きなように変えろ。全部弟に手配しても構わない。俺はもう、お前からは貰っているからな」
刹那の言葉に、ロックオンは首を傾げる。
何をと問おうとして、刹那の笑顔に言葉を理解した。
「……ま、そうか。俺をお前にやってるからな」
「そういう事だ」
幸せそうに笑う刹那の首にかかる装飾品を指で弄んで、欲のない女にロックオンも笑う。
からかう様に、現実を突きつけてやった。
「だけどなお前、養育費を甘く見るなよ。学生にどれだけ金かかるか知ったらたまげるぞ」
ライルの生活を考えた時に己が感じた事を告げれば、刹那はさらりと恐ろしい言葉を吐く。
「その時は、お前に馬車馬のように働いてもらうだけだ」
「遺産の話だろ」
「そんなに早く逝く予定なのか」
問われて、そうかと笑ってしまう。
生きていれば問題ないことだ。
何故拘ったのかと、今更ながらにロックオンは笑った。
男の笑いに、それでも刹那は心を砕いた。
「だが、弟が気になるのなら、書類は書き換えてくれ。お前が早く逝ってしまっても、俺は働ける」
「そうだなぁ……博士課程にはまってたら、ライルの方が生きていけないもんな」
学生のままだと想像して、ロックオンは視線を天井に固定させた。
今はロックオンの全てが刹那に受け継がれるように申請している。
遺産分与の申請は、職業柄頻繁に更新できるようになっているので、うんと一つ頷いて、端末を操作した。
「……コレでどうでしょう、奥さん」
刹那に画面を突き出せば、一応刹那は視線を向けてくれたが、あからさまにどうでも良いという雰囲気で頷いた。
画面に表示させたのは、組織に提出する遺産分与書類だった。
目録に書かれている預貯金の割合と、個人資産に分類される物品の項目を示せば、刹那は一つの項目に目を向けて顔を顰めた。
「ああ、あの車は俺はいらない。貰ってもすぐに処分してやる」
「はいはい。悪かったよ。あれでも結構高いんだけどなぁ。一般的に見れば一財産なんだぜ?」
「俺にはあの車の何がそんなに良いのか理解しがたい。乗り心地は悪いし音は五月蝿いし」
「スピードに乗ったときの安定感なんか、すっげえんだけど」
「街中でそんなにスピードを出すものなのか? 結局は使えないだろう。長距離を乗るには振動が酷いしな」
日頃の無口を忘れさせるような文句の連続に、ロックオンは笑いながらも指定を変えた。
「絶対お前にやらない。ライルにやる。お前よりはまだ文句がなさそうだ」
「どうだかな。一般的な考えなら、俺に近いと思うぞ」
「その辺は男同士だ。俺が死んでも大切にしてくれよっと」
見えない弟に訴えながら、ロックオンの指先が動いた。
項目に、相続者の名前が記入される。
『ライル・ディランディ』
その名前を見つめる優しい目に、刹那は少しだけ嫉妬を覚えた。
こえられない家族の絆。
だが次に紡がれた言葉に、刹那も笑う破目になった。
「俺の弟、お前も大切にしてくれよ? 俺の弟はお前の弟にもなるんだから。年上の弟で悪いけどな」
結婚とはそういうものだと言うロックオンに、刹那は改めて気付かされた。
自分に家族ができたのだと。
そして目の前の男と同じ容姿だという、見た事もない弟に笑顔を向けた。
「……そうだな。俺にとって初めて出来る兄弟だ」
呟いた刹那に、ロックオンは何気なく問う。
「お前兄弟いなかったのか?」
「ああ、いなかった。……多分な」
赤子は家に居なかったが、母親はどうだったのかと、自分の体が大人になって気がつく。
お腹の中は、空だったのかと。
自分はもしかしたら、兄弟も殺していたかもしれない。
思い出してしまい、ふっと沈んでしまう。
だが、沈んだ思考にとらわれる前に、ぐっと頭が引き寄せられた。
「……悪かった。思い出させた」
目の前にはシーツが広がっていて、抱き寄せられたのだと気がつく。
そして耳に届いた声は、今までの明るさがない夫のものだった。
自分の言葉を失言だと思い、謝罪と慰めをくれる彼に心が温かくなる。
家族の話。
組織に参加して課せられた個人情報秘匿義務によって、今まであまり語られることはなかったが、それでも普通の会話とはこういうものなのだろう事は刹那には解っていた。
潜伏地での隣人との話でも、当たり前のように出てきた。
当たり前の会話をしていただけだというのに、自分を思って落ち込んでくれている。
疑った事はなかったが、彼の愛を見る事が出来て嬉しいと思った。
「いや、気にしていない。兄弟ができたと言われた覚えはないから、出来ていなかったんだろう」
頭を覆う手を取り、広い手の平に頬を寄せる。
自分が奪ったもの。
そして自分が引き寄せたもの。
巡り合わされた運命の男に、彼の信じるものとは違うが、引き合わせてくれたのは自分が殺した両親かもしれないと、ふとそんな事も思った。
洗脳にしたがって、神の元に送り届けた両親。
信心深かった彼らはきっと、神の御許に行けたに違いない。
自分の子供を心配しながら。
最後の恐怖に引き攣った顔も忘れられないが、引き金を引いたあと、息絶える瞬間に母親が漏らした言葉も覚えている。
『ソラン、あなたに神のご加護が……』
自分を殺した相手だというのに、最後まで子供を愛していた彼女を忘れられない。
幼い自分はその言葉を受けて、殉教者の言っていることは本当なのだと、洗脳を深めた。
幸せにしてあげられたと、そう思った。
今ではそんな事はなかったと理解は出来るが。
もし自分に子供ができたらと考えれば、その子供の幸せを見届ける事が出来ないことは、とてつもない不幸だと思う。
抱きしめて、愛を囁いて。
誘拐された時、どうしていたのだろうとも考える。
銃を渡されて家に帰された時、どんな顔を両親がしたのかは、覚えていない。
記憶にもなければ、もう彼らに何をしてあげる事も出来ない。
謝罪も償いも出来ない。
それでも最後の言葉を、最後の愛情は無駄にはしない。
神はもう信じられないが、信じられる男に巡り合えた。
感謝は神にではなく、あなた達に。
愛した男の体温に触れながら、刹那は心の中で自分の両親にそっと告げた。
刹那とモレノが相談した結果、ロックオンの治療は3日に短縮された。
眼球の再生は落ち着いた後に。
それ以外の治療は直に。
打撲傷と火傷の治療は、再生ポットで一日で終わり、眼球の傷からの痛みをとるために、緊急手術で繋がる神経を切断した。
眼球の再生のための準備は、蘇生細胞を解凍するだけだとモレノに説明を受け、更には切断した神経が再度繋がるまでの時間も計算し、スメラギにも予測を計算してもらいスケジュールを組んだ。
脱臼による炎症も再生ポットで同時に回復させて、ポットを出た後のロックオンは、健康な体に異常に感謝を述べた。
投薬の必要の無い体まで回復させて、元の配置に戻る。
そして再びミッションは開始される。
スメラギの予測した2週間という時間内に、できる事。
更には継続されている擬似太陽炉型のガンダムの対処。
次々と提示されていく問題に、刹那は疑問を覚える。
何故人は、こんなにも戦うのか。
悲惨な戦場を見ても尚、最先端の『ガンダム』という技術に拘る大国。
更には超えようとするその意味。
そして、ロックオンの、夫の命をかける意味。
モニターに映し出される戦場を駆ける人々にも、家族はいるはずなのだ。
なのにどうして危険に飛び込む。
また、擬似太陽路という存在に、当然のように組織内に裏切り者がいる事が浮き上がる。
争う事に、どれだけの意味があるのか。
ポツリと、作戦会議の中、そんな言葉を漏らしてしまう。
潰しても潰しても沸き起こる戦乱に、追い詰められていたのかもしれない。
誰もが刹那の言葉に黙る中、一人だけ答えを投げてくれた。
いや、答えという事ではないが、それでも刹那が望んだ言葉だった。
「見てくれば良い。確認して来い」
地上の炎を移すスクリーンの明かりを受けながら、ロックオンは刹那に笑う。
「何のための行動なのか。自分が戦う意味を見つけて来い」
明るく言い放ったロックオンに、ティエリアが視線を向ける。
現状がわかっているのか。
今戦力を分断する事の危険性を。
貴方は自分の状況を……。
続くティエリアの言葉に、更にアレルヤも言葉を零す。
「それに、今分かれて、刹那が戻ってこられる保証だってない」
どこに裏切り者がいるのかがわからない今、自分たち以外に行動をもらすわけにもいかない。
帰りの手段がないのだ。
普段は軌道エレベーターで宇宙に運んでいるガンダムは、今は軌道エレベーターもマークされてしまい、地上にガンダムごと降下すれば、宇宙にいる自分たちのところまで帰ってこられる保証はない。
だがそれには、整備士のイアンが答えてくれた。
「いい物がある」
開発された機体を示して、大気圏脱出性能がある事を告げれば、ロックオンは笑う。
「ほら、タイミングはお前に味方してる。俺も一緒に行くさ」
片方残った瞳を細めて、刹那を助けた。
二人の遣り取りに、ブリーフィングルームに小さな笑が零れる。
愛し合いすぎだ。
イアンがそんな言葉を吐き捨てて、自分の子供を奪う男に親が向ける視線を投げる。
そんな言葉に、相変わらずロックオンは肩をすくめておどけた。
「だって俺の一番大切な嫁さんの言葉だ。何でもオッケー出しちまうだろ」
惚れた弱みだと堂々と惚気れば、部屋は笑いに包まれた。
それでも実質問題を考えれば、マイスターが二人も穴を開けるわけにもいかない。
ティエリアよりも先に口を開こうとした刹那は、思わぬ場所からの声に口を閉じる事になる。
ロックオンに賛同したのは、ラッセだった。
「俺が行く。ロックオンは艦の守備を頼む」
「けどよ……」
思わぬ場所から出た言葉に、ロックオンは勿論刹那も目を見開いた。
驚く二人にラッセは笑う。
「GNアームズの性能実験も兼ねるんだ。俺の方が都合が良いだろう」
専用の機体がない事を示して、刹那の背中を押す。
行こう。
そんな言葉が、音にならずに空気で伝わる。
迷っている暇はない。
行動に勝る答えは無い。
そう結論付けて、刹那はラッセに頷いた。
割り振りが決まった所で、スメラギにも声をかけられる。
「戦術が入ってるわ。未確認情報が多すぎて、役に立たないと思うけど」
差し出されたデータスティックに、刹那は目を瞬かせる。
どうして。
前もって考えを伝えていたわけではないのに差し出されたそれに、スメラギは胸を張る。
「私をそん所そこらの戦術予報士と一緒にしないで欲しいわね。何年あなたと付き合っていると思っているのよ」
刹那がどんな考えに至るのかなどお見通しだと、スメラギは片目を瞑る。
私生活から訓練まで、事細かに相談に乗ってくれた女性に、刹那は感謝を述べた。
「……ありがとう」
「ん、いいこ。必ず帰ってくるのよ」
「ああ」
優しい仲間に、感謝する。
そして刹那を理解してくれる、ロックオンに。
出撃前に、部屋の中で準備をする。
新装備の整備に少し時間がかかると連絡を受けて、暫く留守にしてしまう二人部屋を整理する。
帰って来たらとんでもない事になっているのだろうが、予防は必要だ。
それに最近のロックオンは、刹那がいなければ服の位置もわからない。
目に付くところに籠を設置して、ネームタグをつけていく。
「おいおい、ソコまでしなくても平気だって」
「よく言う。何時も靴下の位置を聞くのは誰だ」
「あー、いや、靴下は小さいからわかり辛いだけで……」
「予定日数分は揃えて行く。それ以上になったら……」
言いかけて、止まってしまう。
それ以上になったら。
それは刹那の命がなくなるという事と同義だった。
だが、背中を押してくれたのは彼なのだ。
刹那は止まった口を無理やり続けた。
「……それ以上になったら、支給してもらえ。リヒティにも頼んでおく」
「リヒティって、なんで」
「男同士、借りろ」
「流石に嫌だ!」
下着を借りるのは勘弁願いたい。
使っていないものならともかく。
叫んだロックオンに、刹那は笑った。
笑った刹那に、ロックオンも笑う。
本当は、笑えないと思っていた。
運命を共に出来ないと決まったとき、ロックオンは自分の言葉を少し後悔した。
それでも、迷わせるわけにはいかない。
覚悟を決めて、送り出す言葉を紡いだ。
「……だから、予定日数で帰って来い。じゃないと……」
「……じゃないと?」
続けた言葉に首を傾げる刹那に、片目しかない故にウィンクももう出来ず、目を細めるだけで終わってしまう。
「お前がそろえた最後の服、ずっと着続けてやる」
「……最高の脅迫だ」
あまりの事に一瞬唖然として、その後二人で声を上げて笑った。
帰って来る。
あなたの元に。
自分の場所に。
笑いあって、抱き合って。
そうして時間まで過ごした。
館内放送が入り、時間が来た事を刹那に伝える。
その音に、一瞬二人で体を震わせた。
それでも決めた事だった。
「……愛してる」
囁くロックオンに、刹那も返す。
「俺も、お前を愛している」
もう何度も確認している愛情を伝え合って、軽く唇を合わせた。
それでも離しがたい腕に、二人で悩む。
何とか、どうにかこの時間を長く……。
「……刹那」
「なんだ」
抱きしめている口実を作るために、言葉を紡ぐ。
それは実に馬鹿馬鹿しい事だと、直に気がついたが。
それでも口は動いてしまった。
「お前が、帰ってきたらさ……」
途中まで口にして、それでもやはり馬鹿馬鹿しすぎると、口を閉じる。
「なんだ?」
問う愛しい人に、頭を振る素振りで黒髪に頬を擦り付ける。
右目の痛みを取る為に切断した顔面の神経では、以前ほどきちんと感じられるわけではなかったが、それでも「触れている」という事は理解できて、その幸せを心に刻み付ける。
「……いや、いいや。今言う事じゃねぇし」
永遠の別れではないのだ。
たった数日の別れ。
今までだって同じような状況は山ほどあった。
動きたくないと主張する腕を、気合を入れて、それでも緩々と愛しい体から離す。
「トレミーを、頼む」
「了解だ」
離れがたい手を離して、刹那は部屋を出た。
これからが大切なのだと。
今に拘っている場合ではない。
心の中で戒めて、視線に力を入れた。
刹那が出て行った部屋の中で、ロックオンは俯く。
何故、こんな場所で出会った女に惚れてしまったのか。
こんな恐怖を、自分が味わう事になるとは思わなかった。
組織に参加した時、特定の相手はもう作るまいと決めていた。
でもそれは、自分の心の為ではなく、相手のため。
命など保障できない自分に、心を繋げて欲しくなかったからだ。
まさか逆に、自分がこんな思いをさせられるとは思っていなかった。
気を抜けば、引きとめる言葉を紡ぎそうな口を戒めるのに、必死になった。
腕の中から開放するのに、どれだけの努力をさせたと思う。
ロックオンも心の中で呟いて、浮かびそうになる涙を堪える。
『帰って来たら、式を挙げよう』
そう言おうとしていた。
これから先の、心の支えとして。
皆の前で、お前が俺のものだと誇示するために。
そしてお前が俺のものだと、更に深く刻み付けるために。
だが、こんな時に言うのも馬鹿馬鹿しくて。
普通の幸せを知らない女に、こんな場所で言うのは憚られる。
戦闘がひと段落して、休暇を得て、ムード満点の場所に二人で旅行に出て、そこで一世一代のプロポーズをしてやる。
書類上だけではなく、もっと、きちんと、世間並みの夫婦になろうと、そう伝えよう。
誰に話しても羨まれるような、そんなプロポーズを与えよう。
そして子供を。家族を。
帰って来る。
そう信じて。
だが、これが二人がまともに交わせた最後の言葉になるなど、周りも当然の事、当人達も思いもよらなかった。
そして帰ってこないのは刹那ではなく――――。
発進シークエンスを展望室で聞きながら、ロックオンは妻の機体を見送る。
「……貴方は愚かだ」
言い放たれた言葉に振り向けば、ティエリアがロックオンを見つめていた。
「そんな辛い目をしながら見送るのなら、行かせなければよかったんだ」
辛らつな言葉に、それでもティエリアがロックオンを思ってくれている事が伺えて、苦笑を浮かべる。
「……そうかもな。でも、それがアイツだから仕方がねぇよ」
いつでも先頭を突っ走る。
婚姻可能な年齢にもなっていないのに、ロックオンを誘惑して。
ロックオンの馬鹿な要求を真に受けて、女の修行をして。
ミッションの時にも、自分が思った事を即座に行動に移してしまう。
誰にも予測の出来ないことを、平気で行う。
自分が納得できない事は、とことん突き詰めなければ気がすまない。
ロックオンは自分が哀れだとずっと思っていた。
でも本当に哀れなのは過去ではなく、今だと思う。
平気で夫である自分を置き去りにして、少し背中を押しただけで道を追い求めて飛び出した女を愛してしまった、今。
射出された機体が大気に溶けるまで見届けて、ロックオンは深いため息をついた。
その仕草に、ティエリアは言葉をかけずに隣に立つ。
この、計算できない人間の感情の美しさ。
夫は妻を思い、妻は夫を守る。
二人の関係がこの先も続くようにと、ティエリアは祈る。
そしてこの美しい関係を守ろうと、そう誓った。
兄さんは古き日本のオヤジです……。
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