用意されていた部屋は、常連客に与えられる特別な部屋だった。
それでも昔、ニールが用意した部屋とは別の場所で、ソランは支配人の心遣いを見る。
ニールの事は愛していた。
いや、今でも愛している。
それはライルも理解してくれている。
だからこそソランは、ニールと別の思い出をライルに求めていた。
それを叶えてくれる、周りの人たち。
このホテルが高級ホテルであることを、痛感させられた。
大勢の客を相手にするホテルが、個人を大切にする。
それが一流の場所である証拠だった。
ニールの時には、彼の車の乗り心地の悪さに、不機嫌を隠す事も無く堪能しなかった夜景を、ライルの腕に抱かれながら堪能する。
「高さが違うだけで、住んでる町でも違うものに見えるだろ?」
「そうだな。綺麗だ」
以前と違い、今はこの光の中に、ソランは住んでいる。
自分の場所。
子供の頃、自らの手で葬り去った場所を、また自らの手で引き寄せた。
いや、己の努力だけではない。
色々な人の心と、そして夫の未来を信じる心で、ソランは手に入れられたのだ。
自分の欲しているものを、とことん与えてくれる男。
肌は覆い隠してくれるが、薄い生地のドレスから、愛しい体温がソランに伝わった。
「どうしたら、いいんだろう」
「ん?」
窓の外を眺めている妻から流れた言葉に、ライルは自分も眺めていた夜景から、妻に視線を移す。
そこには今までに見た事が無い程、幸せそうな妻の笑顔があった。
その表情どおりの言葉が、ソランから漏れる。
「幸せすぎて、たまらない」
ライルに殊更体を摺り寄せて、ソランは瞳を閉じた。
二人だけの時間。
二人だけの空間。
普段の家の中では得られないものに、ソランは呟いた。
ライルの事を、ニールの言葉どおりに、次の人として認識した時には、彼の条件を頭の中に思い描いた。
彼はニールが言っていた、大切にしなければいけない弟だ。
本来なら、ライルと関係を結ぶべきではない。
犯罪者と関係など、彼には相応しくない。
更には思想を捨てきれない自分を、ソランは思う。
壊れたエクシアを、自力で直し続けている。
昔の癖で、毎日チェックしている世情が乱れていく事が酷く悲しかった。
ニールの命を引き換えにしてまで導いた世界が、壊れていく。
そのうち自分は、あの場所に戻るのだろう。
その時ライルがどういう行動にでるのか、予測できてしまい、更にライルとの関係に躊躇した。
そう思いつつも、情熱的に口説かれて、そして女の幸せを感じてしまった。
更に、ニールの娘である、今では長女になった彼女を愛してくれている姿。
娘もライルを父として望み、条件だけがそろっていく時間は、ソランに葛藤を与えていた。
悩んで、悩んで。
そんなソランを理解するように流れ出たライルの言葉に、ソランは落ちた。
落ちた先のライルの人生を、最初に懸念したとおりに、ソランは変えてしまった。
日の当たる人生を歩んでいた彼を、自分と同じ道に引きずり込んでしまった。
後悔と、更なる躊躇。
望まれていた結婚が、本当にライルの為になるのか。
理解していないのではないのか。
そう考えながらも、彼の腕の中の心地よさから逃れられなかった。
今も、この腕がなくなることなど、考えたくも無い。
彼との子供も産み、望んだ家庭を手に入れた今、更に恐怖は強まるばかりだった。
更にこんなに幸せな事を経験してしまった。
ショップの店員は、しきりにライルを褒め称えた。
素敵な旦那様ですね。
お幸せそうで羨ましい。
お子様がいらっしゃるのに、こんな事をして下さる旦那様は、珍しいんですよ。
ソランを女として扱うライルを、ソランと同性である女の店員が頬を染めて褒める。
人の評価などどうでもいいが、それでもソランもライルの人柄に、結婚後もずっと恋をしている。
だから、純粋に誇らしかった。
彼と家庭を築けた自分が。
それと同時に湧き上がる恐怖は、いつかこれが無くなってしまうのではないかという事。
ニールのように、置いていってしまうのではないかという事。
何度戦場を共に駆け抜けても、毎回恐怖に押しつぶされそうになっていた。
機体重量の関係で、大抵最後に発進シークエンスを行うソランは、ライルのシークエンスを聞くたびに、全身を震わせていた。
現地諜報が主な仕事になった今も、まったくミッションがなくなったわけではない。
周囲に「出張」という言葉を使い、ライルは銃を手にし続けている。
ソランも共に行ける時もあるが、最近はライル一人のミッションが多くなった。
大勢の子供の事を、戦術予報士は考えてくれる。
長年苦労を共にしているクルーは家族となり、ソランとライルの子供の事も、自分の子供のように可愛がってくれているのだ。
だからこそ、怖い。
幸せが、心底怖いのだ。
恐怖に縋りついたライルの体が、ソランに振動を伝える。
何事かとソランが顔を上げれば、その振動のままにライルは笑っていた。
「怖がり」
「……なに」
額を突かれて、殊更楽しそうに言う夫に、ソランは言葉の意味を求める。
「お前、必ず幸せそうに笑った後は、目を閉じてるんだぜ。結婚してから十年、同じ事繰り返してる」
自分で気が付かなかった癖を指摘されて、ソランはライルを見つめた。
いつでも夫は、ソランを見つめてくれている。
その愛が、疑いようがない程に。
「稀代のテロリストの癖に、こんな事が怖いなんて、やっぱり普通の女だな、お前」
今まで言われた事もない言葉を受けて、ソランはライルに更にしがみつく。
どんなに人を殺しても、根底は何も変わらない。
ソランも只の女なのだ。
「考えてる事は分かるけどさ。何度も繰り返してるけど、俺は寿命以外では死なない。こんだけ年数重ねても、まだ信用できないか?」
結婚前の、約束だった。
戦場では死なないと。
ソランのライルへの愛が冷めない限り、決してソランを一人にはしないと。
約束どおり、どんな困難なミッションでも、ライルは必ず生還してくれていた。
ソランは小さく首を振る仕草で、ライルの胸元に頭を擦りつけた。
「幸せなのは良い事だろ。俺はお前にそう思ってもらえて、男冥利に尽きてる。でも怖がらせてるのは、まだ修行が足りない証かな」
「そんな事、ない」
いつでもソランの事を一番に理解し、フォローしてくれている。
そして望んだものを与えてくれるのだ。
今日のコースが、昔勤めていた会社の同僚が求めていたものと合致して、世間一般の楽しみを教えてくれた夫に感謝している。
あれこれ着替えさせられるのは疲れたが、それでも普段と違う自分を見つけられて、楽しかった。
母親でもなく、妻でもない。
ましてや戦士でもない。
一人の女としての楽しみは、経験が無かった故に想像も出来なかったが、それでも楽しかったのだ。
今も、見慣れない自分の指先が、ソランが自分が女であった事を思い出させてくれる。
ナイフのたこと、水仕事と土いじりで荒れた手が、別物のように見える。
ライルの腕の中で、ソランは美しく飾られた指先を眺めた。
「お前を怖がらせるほどの幸せを与えられて、俺も幸せだ。それになんと言っても、娘の成長がな。昔はあんなにダディダディ連呼してた幼児が、お前の女の幸せ考えるようになったんだぜ? 俺に対して、自分への愛情を求める事じゃなくて、お前に愛情を示せって言ってくれた。なんかもう、すぐにでも天寿が来ても、俺には後悔はないかな」
「それは、困る」
昔の彼の兄の言葉が蘇る。
彼との約束では、80歳まで恋愛をしなければいけないのだ。
このままライルと、その年まで恋愛をしていたい。
これ以上の別れなど、ソランは考えたくも無かった。
縋りついていたライルのスーツのジャケットを握り締めれば、ライルはまた笑いながら、それでもソランをきつく抱きしめた。
「今日のこの時間は、お前の努力の結果だよ。一人で産んで、育てた娘が、こんなにいい子に育ったのは、お前が必死に愛情をかけてきた証だ。母の日に、本当に母親が楽しめる事を考えられるなんて、俺は自分の子供の頃を考えても、出来ていなかったと思う。お前は子育てに対してもスペシャリストだ。流石、才女は違うね」
「才女、なんて、初めて言われた」
「ホントに世間知らずだなぁ。ま、ソコが可愛いんだけど」
ソランが世間に紛れる為に得た仕事は、研究職だった。
普通なら、大学院を卒業した人達が集う場所に、スキップで資格を得ただけの人間が紛れられた。
本来なら、そんなに簡単に出来る仕事ではない。
資格を得て、ライルの兄、ニールに教えられた方法で論文を発表し、そして職を得たのだ。
ソランを口説き落とした後、CBに所属し、普通の会社員として付き合っていた時よりも深い妻の経歴をライルは知って、何故あの会社に勤めたのかとの理由を聞いたのだが、実にソランらしい考えで、ライルは暫く放心した事を覚えている。
無重力下の実験の後、自己研究という理由で宇宙に残り、軌道ステーションの近くに隠していたガンダムを、自力で修理していたというのだから、ソランの紛争根絶という目標が、一朝一夕の思想ではない事を突きつけられた。
それでも子供と世界を天秤にかけ、軍に見つからない時間の全てを子供に捧げた。
CBに戻った後も、頻繁に育児機関と連絡を取り合っていた。
そんな母親の愛情を受けた長女は、母親の思想を応援し、そして同じ道を選んだ。
一般の生活を知っているライルには賛同できる事ではなかったが、それでも長女は母親を育てた組織に愛着を覚えたのだ。
即ち、母親を尊敬していて、彼女の愛情を疑っていないという現れで。
そして成長して、母親の人生に悲しみを覚えたのだろう。
結婚生活は順風満帆で、妻として、母としては、幸せにしてやれていたと思う。
だが女として幸せにしていたかと問われれば、ライルも沈黙してしまう。
娘に一般の生活を望んだのに、妻には一般の女の楽しみを追わせてあげていなかったのだ。
「……ホント、感謝だよな」
娘に対して、ポツリと零す。
彼女の成長が嬉しく、気付かせてくれた事に感謝する。
だが、ライルの零した言葉に、ソランは答えた。
「俺は、今日のコースも楽しかったが、普段の生活も楽しい。お前の子供と、ニールの子供。それに俺を愛してくれているお前がいてくれるだけで、毎日が充実している。年相応の女の楽しみは知らなかったが、それでも不満は無かった。そんなものを欲しいと思う暇も無い程、家族に愛されて、お前に愛されて、それだけで良かったんだ」
それが何よりの、ソランの幸せだった。
温かい家族がいて、優しい夫がいる。
これ以上望むものなど、何もなかった。
高価な洋服も、アクセサリーも、何も要らない。
左手に光る結婚指輪があれば、その他は要らなかった。
彼との愛の証があれば。
昔は躊躇したその場所は、ライルと結婚を考えたときは、何も躊躇がなかった。
紛争を根絶する為の活動をする上で、邪魔になると初めの結婚のときは考えた事が、スッパリと抜け落ちていた。
そこにそれがある事に、慣れればいいのだ。
慣れた頃、自分たちはどうなるのだろうと、そんな楽しみさえ考えられた。
そして更に確固たる母としての立場を得られて、何も不満など無かった。
長女が言い出してくれた事には、感謝は感じられる。
けれどそれは、人それぞれなのだ。
ソランは年相応の遊びが出来なくとも、家族と一緒にいられれば満足だった。
ただそれだけだ。
それでも娘がそんな事を言い出した事に、母親は小さく笑う。
心の変化に、娘に何が起きたのか、なんとなく察したのだ。
それに気が付いていない雰囲気の夫に、また笑う。
きっと告げれば、彼は慌てふためくだろう。
帰ってからコッソリ、娘と話そうと、ソランはそう考えた。
「さて、時間も差し迫ったし、一回だけはシテ帰ろうぜ」
言葉と共に、ライルはソランの魅惑的な体に手を這わす。
ドレスのスカートを持ち上げて、早急に交わる準備を始めた。
「こんな時間から、するのか?」
時計を見れば、既に夜の8時を指していて、子供の就寝まで後一時間しかない。
普段の生活を思い浮かべて問えば、ライルは満面の笑みを顔に乗せた。
「恋人時代を踏襲するんだろ? あの時俺たち、したじゃないか」
「……ああ、したが……」
一年姿をくらませた後の再会で、激しいセックスをしたのを覚えている。
だが場所も違ければ、状況も違う。
あの時は久しぶりのセックスで、更に時間も差し迫っていたので、本当に慌しく交わった。
でも今日は、昨日も夫婦生活をしている。
家に帰る時間を時計で見てしまうソランの唇を、ライルは集中させるように奪った。
「こんな条件、滅多にないぜ? 子供の乱入も気にしないで、思う存分出来るんだ。まあ、時間も無いから出来ても一回って所だろうケド」
「なら、家に帰ってからでも……」
「だからぁ、二人っきりの空間を確保できる絶好の機会を逃して、どうするんだよ。結婚前にプトレマイオスでしてた頃みたいに、楽しもうぜ?」
強襲用母艦の部屋での、二人きりのセックスを思い出させて、その空気を誘う。
それでもその時は、子供の乱入は無かったが、緊急の呼び出しがあった。
今はそれも無いのだ。
渋るソランの体をライルは横抱きに抱き上げて、ベッドルームへと足を向けた。
一瞬、夜景を見ながらというシチュエーションも考えたが、ドレスが汚れては事だ。
ベッドの上で妻のドレスを奪い、ライルは自分のスーツも脱ぎ捨てた。
あくまでも、恋人時代を踏襲。でも当然それだけじゃないライル若い!ww
ちなみに当然この日の車は兄さんの遺産じゃありません。ライルは家を持って、直に自分の車を買いました。ネタ振りにはいい車だけど、日常用じゃないよねと、ライルは思ってます。その辺はせっさんと同じ考え。兄さん残念ww
兄さんの車は、この時点では車庫に眠ってます。たまに整備と車のために、ライルが態々乗っている。でもそろそろ面倒くさくなっているww
車マニアじゃありませんでした。
でも高級車。普通の高級車です。ブランドショップで普通に買い物できる程度の高級車。
ちなみに、本にした時間軸では、ライルは兄さんの遺産以外は車持ってませんでした。だって駐車場代高いし、そんなに乗らないし。あくまでも現実主義で、シビアな人です。
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