貴女といられた幸福な日々7

2010/04/24up

 


 二人で寝室に入り、ニールはきょろきょろと辺りを見回す。
「……はいれちゃった」
 珍しそうなその口調に、刹那は首を傾げた。
「この家にはずっと居たんだろう? 入った事無かったのか?」
「無い。だって入れなかったから」
 理由がわからずに刹那が首を傾げれば、懐かしいニールの笑顔が視界に映る。
 24歳で成長を止めた男は、もうその年をとっくに越している刹那から見れば少年のようだった。
「入れないって、何故」
「そらそうだろ。ライルにしてみれば聖域だ。昼でも入れなかったけど、夜なんて酷かったぜ。階段から寝室側には来れなくてさ。ま、気持ちはわかるけど」
 家の造りで、玄関からリビングが繋がっていて、リビングの扉から家の内部に入れるようになっている。
 扉を潜り、すぐに階段があり、その階段の正面にライルの書斎、その奥にソランの部屋と続きになっている寝室がある。
 つまりは寝室は家の一番奥にあった。
 二人の空間に、ニールのため息が溢れる。
「あー、この部屋に入るってなったら、出られると思ったんだけどなぁ。なんで今日は出してもらえないんだろうな」
 部屋の中を横切り、一つのフォトフレームを持ち上げて、ニールは苦笑する。
 手に取ったのは、ソランとライルの結婚式の写真だった。
 マーメイドラインの真っ白なウェディングドレスの刹那に、ニールは吹き出す。
「何だお前、この凹凸のハッキリしたボディライン。なんか入ってんのか?」
「成長したらそうなっただけだ。お前の子供を産んだら急に身体が育った。あの時は流石に洋服に困ったな」
「そりゃそうだ。本気で突っ込むまでは野郎と変わりねぇって思う身体だったしな」
 ニールはくすくすと笑いながら写真を元に戻し、刹那のドレッサーの前の椅子に腰掛ける。
 そしてじっくりと鏡の中を見つめた。
「……俺も、生きてりゃこんな感じになったんかな」
 年齢を経て、くっきりとした笑い皺を刻む顔が映る鏡に指を滑らせて、苦く笑った。
 それを刹那は、背後から訂正を入れる。
「違うと思うぞ。お前の方が笑い方が素直じゃないから、その雰囲気にはならない。俺には今のお前の姿ははっきり見えた事が無いから何とも言えないが、自分ではわかるんじゃないか?」
 自分の姿が見えるのが当たり前と刹那が問えば、それにも苦笑が返る。
「いんや、わかんねぇ。自分の顔なんて見えないし、鏡にも映らない。意識としては自己はあるけど、俺も自分の顔なんて忘れた」
 先程のニールの言葉が本当ならば、ニールは自分の娘が居る場所と、ライルのいる場所、もしくは望む場所でしかこの世の風景を見る事は出来ない。
 刹那は寂しそうに鏡を見続ける背中に、ため息を零す。
 そんな彼を置いて、続きになっている自分の部屋に足を向けた。
 引き出しを開けて、物の一番下に埋もれていたそれを取り出す。
 昔、娘に教える為に飾っていた、二人の写真。
 お前はキチンと愛し合った二人から産まれて来たのだと、そう教えていた物だった。
 寝室に戻り、それを彼に差し出す。
 視界に映ったその写真に、彼はやはり今の夫とは違う笑みを向けた。
「……こんな事、あったな。この時のティエリアの料理、忘れられないな」
 白い砂浜に青い空。写真に写っていなくとも、その場にいた人間にはわかる、格納庫のある島。
 武力介入直後に、調整であいた二日間、マイスターだけで暮らした。
 その時にはもう刹那とロックオンは付き合っていて、写真の中の二人もお揃いのネックレスをしている。
「そうだな。あまりのマズさに皆でのたうち回った。あの時は普通に味覚障害者だと思っていたが、今ではもう、どうしてそうなったのか判る。……ああ、ティエリアの料理、お前が死んだ後に上達したぞ。機会があれば食べさせてもらうといい」
「冗談。怖くて食えるかっての。それに、そんな時間があるなら、俺は迷わずお前の飯食いたいって主張する。……もしくは、娘、とかな」
 笑いながら、それでも何かを夢見るように、宙に視線を止める。
 二人で夢を見た。
 夢で終ってしまった時間に、思いを馳せているのが刹那には判る。
 それでも、もう過ぎてしまった事だ。
「俺はともかく、あの子には期待するな」
 誤摩化すように笑って、ニールが手にしていた写真を取り戻し、ドレッサーに伏せる。
「……なんで? アイツ、料理出来ないのか?」
 はぐらかした話題に、それに態と乗ったと言わんばかりの間で、ニールは返す。
「いや、出来るが、父親に作る様なヤツじゃないと言う事だ。ついこの間、ライルががっかりしていた。ライルでさえ望めないんだから、実の父親なんて、もっとダメだろう」
 先程の、刹那ですら初めて見る甘え切った娘の様子を思い浮かべて、あのまま目の前の彼が生き残り、二人で育てていたらとんでもない甘えん坊になったかもしれないと、笑ってしまう。
 もしもなど、意味の無い言葉だと思っていたが、それでもこの奇跡には似合っていると刹那は思う。
 あり得ない会話に、あり得ない笑い。
 そしてあり得ない年下の彼。
 見かけは夫だが、確実に話の内容は若いと感じられて、まだ夢を見ている彼を笑った。
 笑う刹那に声がかかる。
「……有り難う、刹那」
 また言われた礼に、何かと視線を向ければ、穏やかな瞳の彼がいた。
 その瞳は、二人っきりの時だけに見せた、甘える様な物。
 彼と一緒にいた幼い自分には判らなかったが、甘やかしているように見せて、この彼は縋っていたのだと思った。
 複雑な男に、更に苦笑が浮かぶ。
「何に対する礼だ?」
 くだらない事を言ったら、拳骨を落としてやると、子供達と同じ扱いで彼に対して思う。
 娘と大して変わらない年齢の、昔将来を誓った相手。
 刹那の言葉に、ニールは笑って答えた。
「ちゃんと、幸せになってくれて、って事。約束、守ってくれて、嬉しいよ」
 明らかに作った笑みで、判りやすい嘘を言う。
 馬鹿だと、心の底から思った。
 それでもニールの続く言葉に耳を傾ける。
「俺、お前の事は見えなかったけど、全然不安じゃなかった。あの子とかライルとかは気になったけど、お前は気にならなかった」
「……酷いな。俺は愛されていなかったのか?」
 笑いながらの刹那の言葉に、ニールも表情を崩す。
 昔では考えられなかった艶やかな笑みに、彼女の幸せを見たのだ。
「愛してたし、今でも愛してる。だけど、不安じゃない。だってお前は、誰よりも強いから。俺の馬鹿な欲求を飲んでくれて、更に夢まで果たしてくれてる。……まあ、相手がライルってのは、はっきり言ってびっくりしたけどな。でも、驚いたけど納得もした。その上自分の弟が、お前の眼鏡にかかったのが誇らしいし、嬉しかった」
「眼鏡など……おだてても何も出ないぞ」
「おだててないって。お前は誰が見ても最高にいい女。なんと言っても俺が落ちたくらいだからな」
 持ち上げているのか自分を褒めた耐えているのか判らないニールの言葉に、更に刹那は笑う。
 穏やかなこんな時間が、ニールとの間にあるなど、思いもしなかった。
 それが嬉しく、また少し寂しいと刹那は感じる。
 この場に夫の存在が無いのが、酷く寂しかった。
 それが時が経った証拠だと、しみじみ思う。
 二人の時間ではなく、三人の時間が欲しかった。
 愛する人達との時間を、心から望んだ。
 だがそんな事は叶う訳も無く、ニールはドレッサーから立上がって、窓辺に歩を進める。
 つられて刹那が視線を窓の外に移せば、そこにはいつの間にか降り出した雨の景色が広がっていた。
「……変わらないんだな、この土地は」
 ぽつりと零された言葉に、相槌を打つように側に寄る。
「変わらない。この土地も、俺のお前への気持ちも、ライルのお前への気持ちも。いつか俺がこの世を去る時だって、きっと変わらない」
 いつでも直ぐに抱き返してくれる腕は、今は無かった。
 慣れた身体に寄り添って、それでもいつもと違う反応にニールを見る。
 暫く二人でじっと、窓の外の雨の音に耳を傾けた。
「俺さ……何となく……だけど、こうやって幽霊出来るの、これが最後な気がする」
「……そうか」
 ニールの言葉通りなら、今のニールはライルの思念によって作られたのだと刹那も思う。
 そしてその心が、娘の存在から来ているのであれば、嫁に出した事でライルが安心しただろうとも思う。
 今日の呆れる程の涙は、その安心感からだと理解しつつも笑ってしまう。
 ニールと一緒に、刹那も何となくだが納得する。
 もうライルが、ニールに必要以上に思いを馳せる事も少なくなるのだろうと。
 別に今生の別れではないが、それでも『家族』という括りの中に、ニールの娘はいなくなる。
 育て終えたと思っても、不思議ではない。
「もう、刹那の誕生日も祝えなくなるな」
「それは、本来なら既に21年前に出来なくなってる事だ。お前が気にする事じゃない」
「俺、いらないか?」
「いらないとは思わないが、何かをしてもらえるとも思っていない。お前はもう、ソウイウ存在だ」
「……やっぱり俺、最後の女がお前で良かったわ」
 さっぱりと言い切る刹那に、ニールは笑う。
「生きてる頃には、ろくに嫉妬もしてくれないお前に不満持った事もあったけど、結局コウイウ道辿っちまった俺には、ホントに良かった」
「別に、嫉妬をしなかった訳じゃない。ただ俺が不満を言う前に、お前が我慢出来ずに俺に逆切れしてただけだ」
 くだらない当時のケンカを思い出して、二人で笑った。
 身体を震わせて一頻り笑って、今までのしんみりとした空気を破るように、ニールは刹那に向き合う。
「んじゃ、俺はとっととお前の乳揉んで、追い出してもらうわ」
 今までの事を考えれば、おそらくそれで済むだろうと予測している言葉に、刹那も笑う。
「だが、俺は浮気にならないか?」
「なんないだろ。だって今俺は、こうして寝室にも入れてるんだから」
「それとこれは同義だろうか」
「一緒だろ? ベッドを前にお前が拝めるんだから」
 首を傾げる刹那の成長した身体に、ニールの手が伸びる。
 それでも最後かと思うと、二人の間には少しの躊躇が流れた。
 後数ミリの所で止まった手に、刹那は笑う。
「ずっと、愛してるから。お前と過ごせた日々は、ずっと忘れない。だから俺が死ぬ時には、ちゃんとまた幽霊になって、俺の事を迎えに来てくれ」
「……了解」
 泣きそうな笑顔で、ニールは刹那の体に手を這わせる。
 昔ではあり得なかった胸の質量に、ぴくりと指先が震えた。
「うわぁ……顔見てなかったら、お前だって認識出来ないわ。でも最高」
 額に暖かい唇が触れて、刹那は瞳を閉じる。
 僅かな力の入れ加減の違いを感じながら、最後のつぶやきを耳に残そうと、身体に縋り付いた。
「愛してるよ」
 刹那の動きに合わせて、懐かしいイントネーションの声が降る。
 それを瞳を閉じてじっと刹那は聞いた。



 暫く乳房が揉まれて、怪しい動きも交えながらも堪能されている気配がする。
 だが、肝心な事が一向に何も起こらない。
「…………あれ」
 あからさまに時間の経過を表している時計に、刹那の頭上から疑問符が溢れ出た。
 顔を上げれば、不思議そうな表情の男が一人。
 いや、一人なのは元々で変わらないのだが、肝心な所も変わっていなかった。
「なんで、出らんないの?」
 刹那を腕の中に収めながら、じっと手を見つめるその瞳は、相変わらずニールだった。
 その様子に、刹那も首を傾げてしまう。
「……出られないのか?」
「出られない……」
 自分の奥さんに手を出されるとなれば、確実にライルが出てくると思っていたニールは、思いっきりその予想を外されて、思考が戸惑いの域に入っている。
 俄に慌て出したニールに、刹那も一緒になって思い巡らせてみた。
 いつもライルが言っている言葉を。
「…………まさか」
 ふと思いついた、昔からの口癖。
 建前だろうと思っていた言葉が、刹那の頭に浮かんだ。
「な、なんだよ」
 動揺で言葉をどもらせるニールに、刹那は気まずそうに視線を揺らした。
「いや……建前だと思っていたんだが……」
「建前?」
 問いを重ねるニールに、気まずいと思いながらも口を開く。
「ライルは昔から、お前の事を忘れなくていいと、ずっと俺に言っているんだ」
「……なに、そのお約束なイイ男発言」
 フルリと身体を震わせるニールは、おそらくそんな甘い台詞を吐く弟に、寒気を感じているのだろう。
 刹那も初めから、あまり本気にはしていなかった言葉だ。
 基本的にライルは、刹那がしたいと思う事を優先してくれていたので、ニールに関する事も『付き合い』程度で許してくれているのだと思っていた。
 他よりも深い血縁と言う事も考慮に入れれば、何となく受け入れられるのか、と、想像ができる位で。
 だが、現状が物語っていたのは、結婚して……いや、付き合い始めてからの言葉が、本気だったと言う事に他ならないと言う事だ。
 触ってもいい。
 というか、刹那がニールと触れ合うのを、止めない。
 問題は、『ニールが刹那に触る』と言う事ではなく、『刹那がニールと触れ合う』という事柄かもしれないと、思い当たった。
 根本的に刹那が受け入れてしまっているのが問題なのかもしれないが、刹那にニールが拒める筈も無く。
「もしあの言葉を本気で思っていたのなら、俺が拒まない限り、お前が出るのは無理かもしれない」
 思い当たった事を呟けば、殊更ニールは不思議そうに首を傾げた。
「……え、訳わかんないんだけど」
「だから、ライルは本気で俺がお前を愛しているのを受け入れている、と言う事だ。そして多分、今日の事を考えると、お前と俺に話をさせてやりたいとか、もしくは行き過ぎる考えをする男だから、今日くらい、娘の親である俺達を夫婦でいさせてやりたいとか、思っているのかもしれないと……」
 あまりの刹那の発想に、ニールは引き攣る。
 まさかと思っても仕方が無い。
 弟は独占欲が強く、そして自己中心的で、ニールとの些細な差に反発して、癇癪を起こすように寄宿学校にまで逃げた。
 そうニールには見えていた。
 そんな弟が、そんな事を考えるなど、あり得ないと思う。
 実際に、夜は寝室の側にも寄れなかったのだ。
 それが独占欲の表れだと、普通にニールは思っていた。
 そんな考えを素直に刹那に伝えると、夜の事と言う事で思い当たった刹那は、顔を歪める。
「いや……公開プレイは趣味じゃないらしいから……俺がどうの、と言う事じゃないと思う」
「はぁ?」
 増々訳がわらか無いニールは、歪んだ刹那の顔を覗き込む。
 視線で答えを促したが、流石にそこは刹那にも憚られる所だった。
「……お、教えて、お願い! なんか気になる!」
 たまらずにニールは懇願するが、刹那の視線は戻らない。
 駄々っ子のように刹那の体を揺らせば、仕方が無いとため息をついて、ポソリと刹那は呟いた。
「……お前の弟は、生粋のSだ、と言う事だ」
「……S? スパイ?」
「……そう思いたいなら、そう思っていればいい」
「ちょ、なに、その言い方なに!?」
 少し救いを求めたニールの言葉を、そのまま刹那は流そうとしたが、流石に流される事は無い。
 更に刹那を揺らして答えを求めれば、再び刹那は視線を逸らせながら、その一端をニールに突きつけた。
「お前を寝室に近付けなかったのも、俺の姿がどうのと言うよりも、見たいのに見れないと悶えるお前の姿が望みだったんじゃないか、と」
「え、えぇ? なに? え?」
 納得したくない事を言われて、更にニールは混乱する。
 つまりは、夜の生活は、ニールがいる時にはニールまで巻き込んでいた……という事で。
 気配すら察知出来ない割には、非道な事をする弟に、頬が不自然につり上がったまま元に戻らない。
「そ、そんな子だったか? え? だって、どっちかって言うとアイツMっぽかった気が……」
「それは、表面上だ。みんなそう思う。俺も最初はびっくりした」
 ベッドの中では別人。
 そんな事を呟かれれば、もうニールは混乱から戻れない。
 そして、ベッドの下に自然と置かれている収納ボックスが目に入る。
 ベッドの下に収納があるのは別に問題は無い気がするが、ベッドの下全体を使っていない、一つだけの箱が、嫌に気になった。
 じっと見つめてしまったニールに、刹那は更に追い討ちをかける。
「……ああ、それは見ない方がいい。知らないまま逝けた方がいいと思うぞ」
「い……いや! そんな事言われたら、見ないわけにはいかないから!」
「流石にダメだと思う。……ああ、そう考えれば開けてみるもの手かもな」
「そんなあっさり……! っていうかお前、受け入れられてるって事は……っ」
「……それも、知らない方がいいと思う」
 あからさまに視線を逸らされて、子供の頃の可愛く喘いでいた刹那が蘇る。
 胸も尻も無かったが、それでも可愛かった。
 だが、成長してナイスバディになった彼女は、ある意味全てがニールの知っている『刹那』では無くなっていた、と言う事だ。
 あまりの事に、ニールは久しくなかった肉体の感覚を覚える。
「あ……刹那、俺、眠くなって来たかも」
「……眠く、なのか? 意識が朦朧とするんじゃないのか?」
「そうとも言うかも……」
 そのままニールはふらふらとベッドに歩み寄り、パタリとその上に倒れ込んだ。
 そんなニールの姿を見て、刹那は思う。
 ライルが呼ぶ事も無くなるのかもしれないが、ニールがそれに答える事も無くなるのかもしれない、と。
 ベッドから呻くように呼ばれて、一緒にベッドに潜り込む。
「俺……お前がMでも愛してるから……」
「ああ、俺もお前を愛してる」
 そんな会話の後、糸が切れるように夫の身体は黙り込んだ。
 その後には、規則正しい寝息が寝室に木霊する。
「……お休み、ニール」
 あらゆる意味で、刹那は呟いた。






 次の朝、身体を揺さぶられる感覚で、目が覚めた。
「ソラン、ソラン」
 慣れた呼び声に、やはりあのままニールは逝ったのだと、起き抜けの回らない頭で思う。
 目を開ければ、見慣れた笑顔が側にあった。
「おはよ」
「ああ、おはよう」
 チュッといつもの朝の挨拶が唇に降りて来て、戸惑いの無いその動作に確信出来て、ソランも笑った。

 あの後、意識の無くなった夫にパジャマを着せて、自分も着替えてベッドに潜った。
 おそらくこうなるだろうと、そう思ったからだ。
 そして案の定、夫は首を傾げる。
「俺、いつの間に寝たんだ? ラッセとしゃべってた気がするんだけど……」
 いつもソランよりも早く起きて、妻の為にモーニングティを入れるライルは、いつものようにソランにマグカップを手渡す。
 暖かい紅茶を吹いて冷ましながら、何事も無かったかのように嘘をつく。
「ああ、いきなり寝てしまった。子供のようだったぞ」
「なんだよ、起こしてくれれば良かったのに。夕べは折角騎乗位してもらおうと思ってたのにさ」
「疲れていたんだろう。アレだけ泣けば、疲れもする」
 式の事を告げれば、ライルは気まずそうに視線を逸らせた。
「だってさぁ、感動だろ」
 紅茶を一口含んだ妻の頬に軽いキスを落として、自分の分のカップを持って窓辺に歩み寄る。
 窓の外は夕べの雨が上がっていて、朝の清々しい光が、雨の名残を照らしていた。
 そんな風景を見ながら、自分のカップに口を付けて、ぽつりとライルは零した。
「あーあ。夜なら俺も、兄さんの幽霊見れると思ってたのに、結局俺の前には現れてくれなかったなぁ」
 昨日の騒動をまったく知らない、幽霊を呼びつけていた本人の台詞に、ソランは思わず吹き出してしまう。
 前に、どころではなく、お前の中に入っていたと告げてもいいが、このまま知らない方がいい気もすると、ソランは吹き出した後に口をつぐんだ。
 だがライルは、いきなり笑い出した妻に、怪訝な視線を送る。
「……なんだ? 何かあったか?」
「い、いや、何でもない」
 言葉で否定をして笑いを堪えるが、顔がいびつに歪んでしまって、そんな妻の顔を更に怪訝そうにライルは覗き込む。
「……兄さんに、会えたのか?」
 ライルの口からその話が出れば、もうソランに笑いを堪える術は無い。
 再びぶはっと吹き出してしまい、ライルは震えるソランの手からカップを取り上げる。
「なー、笑ってるって事は、お前だけあったって事?」
 もうここまで突っ込まれれば、当たり障りの無い部分だけでも言わなければ納得しなさそうな夫に、「いや」と首を横に振る。
「……お前が寝た後、リビングに現れた。それでニーナとラッセと三人で話をした」
「なんだよー! ずりぃ!」
「ニーナがキチンとゴーストバスターをしてくれたから、どうやら居なくなったみたいだがな」
 一頻り会えなかった事に文句を言った後、ライルはため息をつく。
 そして、夕べソランが思った通りの事を口にした。
「まあ、娘の結婚だしな。そんな日くらい、キチンと両親してあげて欲しかったから、出て来てくれたなら良かったよ」
 改めて聞くと、やはり面白く、ソランはまた小さく笑った。
「まったく、お前はどれだけ俺達を愛してくれているんだ?」
「そらぁ、心の底からに決まってるだろ。そんじゃなきゃ、こんな生活してないし、あんなに子供も作らないさ」
 確かにそうは思うが、だからといって、ライルから見れば例え兄弟でも前の男も込みで愛してくれているなど、夕べの事があるまでは、信じきれなかった。
 それでもその気持ちが嬉しくて、ソランはベッドを降りてライルに抱きつく。
 ソランの身体には、近寄った途端にいつものように腕が回されて、その落ち着く空間に酔う。
「ライル」
「ん?」
 腕の暖かさに酔いながら、心の底からソランは言った。
「愛してる」
「ああ、俺も愛してるよ」

 全てを愛してくれている貴方に、心からの感謝を。

 心の中で呟いて、軽く唇を合わせた後、着替える為にクローゼットを漁る。
 普段着を手に取って、いつもの朝の会話に戻った。
「何か食べたい物はあるか?」
「んー、卵はスクランブルがいい。……あ、でもラッセって何が好きなんだろうなぁ。憔悴してるだろうから、せめて飯で元気を取り戻してから宇宙に戻らせてやりたい」
 休みの関係で、今日はもうラッセは宇宙に戻る。
 その後、ソランの出産の時と同じように、妻が臨月に入った所で再び休みが貰えるのだ。
 ライルの言葉に、ラッセのいつもの食事を思い浮かべたが、彼はいつも食堂で出されるプレートを、文句も言わずに食べていた事しか知らなかった。
「なら、今日は朝食の席の話題は決まったな」
 新しい家族の、食べ物の趣向について。
 次に彼が家に来るときには、また違う家族の様子になる。
 そう思いながら、ソランはパジャマを脱ぎ捨てた。
 そこでふと、背後からライルの声が響く。
「あーあ」
 何か後悔している様な声にソランが振り向けば、夫が着替えをじっと見ていた。
「俺、マジで昨日頑張ろうと思ってたのに。新しいロープの結び方覚えたんだよね。試そうと思ってたのにさ。寝ちまうって、年かなぁ?」
 頬を摩りながら悔しそうにしている夫に、苦笑しか浮かばない。
 最後にニールが残していった言葉を思い出して、また笑ってしまう。
 弟と元嫁の隠された性癖にショックを受けて昇天した幽霊は、おそらく彼くらいだろうと。
 それでもある意味いつもの会話に、ソランは笑った。
「痛いのはヤメてくれ。あと、跡がつくのもな。子供達に気が付かれたら大変だぞ」
「そんなヘマはしません。これでもお父さんなので、情操教育上悪い事は教えない。それにコウイウのは、自分で調べるのがお約束。探究心旺盛じゃないなら、やる資格無し」
「そんな探究心は、どうかと思うが」
「でも、ソッチ方向で気持ちイイなら、年頃になればしちまうだろ。まあどうでもいいさ。子供達は子供達で、大人になってからキチンと愛する人が見つけられればさ」
 最終的には普通に親の感想を言って、ライルも着替えに入る。
 先に着替え終わったソランは、晴れやかな気持ちでリビングを横切った。
 そこにはまだ誰も居らず、また昨日の事から気配を探ってみたが、やはりいつもの家の気配しか感じられなかった。
 夕べの事は、ライルの愛が生んだ奇跡。
 改めて思って、笑ってキッチンに立った。

 ある程度料理が進んだ所で、家中にライルの声が響く。
「ガキども起きろー! 朝飯まであと10分! 遅れたら飯無しだからな!」
 階下から呼ぶいつもの声に、二階が俄に慌ただしい動きを見せる。
 いつもの穏やかな朝の風景に、もう一度ソランは笑った。
 これからは、もうこれが一生続くのだ。
 夕べ、ニールを送った後、写真と一緒に、長年飾っていた彼とのエンゲージをしまった。
 死体になるまで、これを身につける事は無いと。
 あまり使わないデスクで、写真と一緒にしまう宝飾品のケースに手紙を入れた。
 自分を送ってくれるであろう、誰かに宛てて。
 棺に入れてくれと、それだけの短い文。
 ライルとの結婚指輪が光る左手で、その手紙をニールとのエンゲージに入れて、これで漸く自分も吹っ切れたとソランも肩から力を抜いた。

 貴方といられた幸せな日々に感謝を。
 貴方といられる幸せな日々に愛を。

 変わらない日常の中で、来年の自分の誕生日を思う。
 来年の誕生日のいつもの時間には、ライルに話しかけようと考える。
 その時何を話そうかと、そんな事を思いながら新しい朝に心を躍らせた。





end


だらだら書きましたが、これで一応まとめです。
この後の時間軸も気が向いたら書くと思いますが、今の所よいよいになったじいさんの下の世話位しか思いつかないので、誰も喜ばない方に100円をベットさせて頂いて、 沈黙しておきます(汗)。
書くとしたら、これより前ですね。
まあそんな訳で、タイトルは実はニル刹でした〜って落ちです。
死に別れは二人とも覚悟していたので、表面上は普通に暮らしてましたが、実は色々気になってたんだよ、と。
娘は普通に寂しくて、ライルは二人の気持ちに気が付いてて、兄さん捕縛しました、みたいな。
幽霊設定で、どこまで介入させるか悩みましたが、これがワタシ的限界です……。
もっと兄さんをウダウダ悩ませる方向も考えたんですが、やっぱり安らかに見てて欲しいって言う願望を優先させて頂きました。

何はともあれ、落ちがわかりやすすぎた事に全力で土下座します……。