夫婦喧嘩は犬も食わない。
そんな格言を長女は実感していた。
「あ……」
朝、出産の為に用意された家の朝食の席で、ソランが呟く。
夫のライルも含めて、その声に食事の賑わいの音は一瞬静まり返った。
もうそこそこ育った長女が母親に視線を向け、まだ幼い長男が、父親が口元に運んでくれるスプーンが止まった位置に、視線を固定させる。
「……きそうか?」
ライルは妻に向かって、二度目のその流れに問いかける。
その問いに、ソランは「多分」と曖昧に返事をした。
そしてフォークを置いて、ダイニングを後にする。
行く先は、ライルには当然分かっていた。
トイレだ。
一度目は過剰なほどに反応したが、その経験で、今回は落ち着いたものだった。
帰ってきたソランは案の定、当たり前の顔で食事を再開し、その後、病院に連絡を取る。
その行動で、『おしるし』が来たのだと、普通に理解した。
カレンダーを眺めれば、丁度の頃合だ。
予定日まで後2日。
入院の支度は済んでいるし、何も慌てる事は無い。
ライルはゆっくりと長男に朝食を取らせて、いつもの生活を促す。
騒いでも仕方が無い。
実際に陣痛が始まるまでにはまだ時間があるだろうと、子供に余計な心配を与えないように、笑顔を張り付かせた。
「……ダディ、手が震えてるよ。アタシ代わろうか?」
「……お願いします」
父親の威厳は、ライルには遠い存在だった。
長女が代わって、幼い弟に「おいちいねー」と言葉をかけながら朝食を与える姿に、女性の偉大さを見るのだった。
ライル・ディランディがソラン・イブラヒムと結婚して、3年が過ぎていた。
ソランの連れ子が一人いて、更にライル自身の子供も一人生まれていて、現在ライルは二人の子持ちである。
そして更に今、もう一人生まれようとしていた。
相変わらずソラン……「刹那・F・ストラトス(結婚後に姓変更)」と共に、兄の名を受け継いで「ロックオン・ストラトス」としてCBの活動をしながら、夫婦生活を送っている所為で、昔望んだような家庭生活は送れないが、それでも可愛い子供に囲まれて、ライルは幸せだった。
更に人としての幸せを、もう一つ手に入れようとしている。
前回と同じようにライルがソワソワと時間を過ごしていると、前回とは違う呼び出しコールが鳴った。
スメラギには当然予定日は伝えてあるし、トレミークルーでも知らない人はいないだろう。
なんと言っても、8ヶ月までは共に過ごしていたのだから。
妊婦であるソランは、胎児への影響も考慮されて、妊娠発覚から直に地上待機だったが、ライルは夫にも与えられる8ヶ月以降の産休まできっちり仕事をし、それでも勤務中であろうと操舵中であろうと妻と娘息子に連絡を取りまくり、更には送られて来るエコーの写真を同僚に見せまくって、みんなの失笑を買っていた。
当然予定日など、挨拶代わりだった。
故に、首をかしげながら端末を見れば、それはやはりCBの暗号回線だった。
「……はいはい?」
『ああ、良かった。シカトされるかと思ったわ』
あからさまにホッとした風情のスメラギに、いったい自分はどう思われているのかと、ライルは顔を引きつらせる。
「流石にしませんよ。……で、なんですか?」
今は少しでも妻から目を離していたくないライルは、さっさと用件を問う。
だが、問うた事に思いっきり後悔する羽目になった。
『ちょっとエージェントと連絡がつかなくなっちゃったのよ。潜入先がそこから近いの。探ってきて』
「はぁ?」
今自分は産休だ、と、そう訴えようとしたライルに、スメラギは先回りで口を開く。
『現状把握だけでいいわ。状況が分かれば、他の人を派遣するから。でも緊急なのよ』
「いやでも、丁度今朝おしるしが来たんですけど……」
『あら、じゃあ貴方は後2日くらい体が開くじゃない。丁度良かったわ』
確かに、分娩室に入るまで、ライルにはすることは無い。
というか、ソランからは分娩室すらついてこなくてもいいと、前回も言われていた。
付き添い出産は、あくまでもライルの望みなのだ。
それでも今、妻の傍を離れるのは、躊躇を覚える。
本格的に陣痛が始まったら車も出したいし、入院道具だって誰が持つというのか。
夫の立派な仕事だと、そう訴えようとした時。
「分かった。今から行かせる。場所と偽装コードをすぐに送ってくれ」
「え、ちょ……」
背後から、妻が当たり前のように、ライルの意思を無視して了承を告げてしまった。
『刹那、さっすがぁ! もう、ちょっと本気でこの旦那、教育しておいてよ!』
「ああ、善処する。悪かった」
「いやだから……」
普通そこは逆に「一人で出産なんて怖いわ」とか言ってくれる場面ではないのか。
お前にとって俺は何だと、馬鹿な言葉が喉元まで出かかる。
それでも、仕事を振ってきた本人が、一応社交辞令的にその台詞を先に口にしてしまったので、ライルはタイミングを逃した。
『一人で平気? 何ならすぐにフェルトに行って貰いましょうか?』
一番融通が利くと思われるクルーの名前に、ソランは笑って首を振る。
「任せろ。俺はガンダムの操縦と同じくらい、子供を産むのは得意だ。人の手など煩わせる事はない」
『そーおぉ? フェルトはがっかりしそうだけど……伝えとくわ』
ライルに向ける言葉は一切無く、ソランとの会話でスメラギはぶつっと通信を切った。
スメラギと会話するために、ライルの背中に大きなお腹を当てていたソランも、通信の終了と共にあっけなく離れてしまう。
そして更に、当たり前のように長女に言葉をかけた。
「ニーナ、聞こえていたか?」
「うん、聞こえてたよー。荷造り何日分?」
「必要は無いと思うが、一応一日分用意しておいてくれ。ダディは意識は低いが、腕は確かだ」
意識は低いが、は、余計な情報ではないのだろうか。
本格的に父親の威厳が、と、ライルは目が遠くなる。
当たり前のように行動する長女に、またもや哀愁が漂ってしまう。
『せっかく一緒に居られる時間なのに、離れるのイヤ!』
……とかなんとか、言ってくれてもいいと思うのだが、と。
うな垂れつつ、それでも愛用のマグナムを点検して、気持ちを切り替えようと試みる。
そうこうしている内に、ミッション内容が送信されてきて、必要な道具をそろえた。
依頼されたミッションは、場所は研究所で、どうやら研究内容に問題があったらしい研究者と接触して、情報を引き出すというものだった。
そして最終判断は、先日の大戦で取り戻したヴェーダが行うという。
研究を封印するか、否か。
つまりは研究データを破壊して、更には頭脳も破壊……研究者を殺害、という内容だ。
人が一人誕生する間際のミッションにしてはきな臭い内容に、眉を顰めてしまう。
それでも『そうする事』が必要だと、世界の情勢の安定に必要だと指令を受ければ、ライルに異論は無かった。
覚悟を決めて飛び込んだ世界だ。
家族の住む世界のために、と、自分の目標をもう一度目を閉じて頭の中で繰り返し、弾丸を充填させた弾倉を音を立てて装着させた。
「いやなら、俺が行く」
ライルの書斎のドアから、聞きなれた妻の声が響いて、ライルは覚悟を口にする。
「ばか。んなわけあるか」
本音は、人を撃つ事はいつまで経っても慣れない。
慣れたくも無い。
それでも過去の過ちを繰り返さない為に。
過去の自分の心痛を子供たちに味合わせないために。
愛した女を守れる立場でいる為に。
色々な理由を並べ立てて、ライルは愛用のオートマチックマグナムを懐にしまって、振り返り様笑顔を作る。
そして少し悲しそうな顔をしている妻に歩み寄って、艶やかな頬に唇を寄せた。
「それに妊婦に何が出来るって言うんだよ。俺のほうがマシだろ」
組織の先輩であり、ライルよりも長年硝煙の香りに馴染んでいる悲しい経歴を持つ妻を抱き寄せて、自身が健在である事を示す。
この女の為なら何でも出来る。
初めて出会ったときに思った気持ちに嘘偽りはなく、今もライルの心をその思いが占めている。
世界中の人から命を狙われても、彼女と子供たちさえ幸せに暮らせるのなら、ライルはこの世界で生きる意味があると思えていた。
そんな存在に心からの感謝を示す。
「お前は、立派に赤ん坊を産む事だけを考えてろ。今はそれが一番の仕事だ。皆がそう思ってるって事、忘れるな」
ライルが思っている以上に、ライルを思ってくれる妻に言い聞かせる。
ソランがライルを守ろうとして起こした行動に、過去に泣かされた事もある。
二度とそんな事が無いように、ライルは動くのだ。
お腹にさわりが無いように気をつけて抱きしめた妻は、ライルの背中に手を回して抱きしめ返してくれる。
その手は少し震えていて、彼女の不安をライルに伝えてくれた。
お産の前に精神衛生上良くない事は避けたかったが、それでも戦術予報士がライルを指名してきたのには訳があるのは解っていたし、彼女たちが昔からの仲間の「刹那」を大切にしているのも理解している。その上でのライルへの依頼に、ソランが不安を抱いているのが解って、もう何度も囁いている言葉を耳元で繰り返した。
「俺は死なない。お前が俺を必要としてくれている限り、絶対」
「……ああ、解っている。信じている」
信じている、と言葉にしながら、ソランの指がライルの背中に食い込んだ。
二人の世界でお互いの体温を確かめ合っていれば、ライルのミッションプランと共に送られてきたデータを持ち去った長女が、ラブラブな構図の両親の服の裾を引く。
何事かと視線を下ろせば、いつもの表情で、ずいっとライルの前にデータスティックと紙片を数枚差し出してきた。
「……なんだ、これ」
「今度の最短ルート。ちょっとだけハックかけて、さわりだけは調べておいた。スメラギさんの計算どおり、この手順で行ければ一日でしょ? 早く行って終わらせてきてよ。それじゃないと、今度こそ赤ちゃんの名前が「ガンダム」になっちゃうでしょ」
既にスキップ制度を利用して大学生になっているニーナに渡されたルートは、完璧だった。
幼い頃より叩き込まれている戦術と頭脳は、ライルが望んでいない方向に伸びていたが、それでも小さな協力者に感謝を告げる。
母親の名前のセンスに頭を抱えている長女が、そんな日常も交えて両親の心を解そうとしてくれているのがわかり、ライルは改めて愛おしいと感じた。
ニーナの言葉を受けて、作らなくともライルの顔には笑みが浮かぶ。
「そうだな。次はお前のご希望の女の子だ。俺はまた立ち会う為にもさっさと終わらせてくるよ」
長女の黒い頭を撫でてキスを落とし、食事を終えてオモチャで遊んでいる息子の頬にもキスをして、ライルはジャケットを羽織った。
「じゃあ、ロックオン・ストラトス、狙い打ってくるぜ」
いつもの出撃の時の、兄が言っていた言葉を受け継いで、暖かい部屋に背を向ける。
帰って来る。
出来れば陣痛が重くなる前に。
生きるだけではなく、これからのために、ライルは玄関を出た後、歩調を速めた。
頭を仕事モードに切り替えたライルは、この数年でCBには無くてはならない人物になっただけあり、エージェントが潜入したものとは別のルートで潜入し、更にはそのエージェントたちが持ち帰れなかった情報をたったの10時間で揃え、ヴェーダに転送をかけた。
建物内に潜み、指示を待つ。
警備システムは既に研究者達との接触の傍らにハッキングで掌握しているので、監視下に置かれていない部屋の、誰も来ない物の陰に隠れて、端末にカチカチと指をぶつける。
早くしろよ、と、頭の中で何度も呟く。
待つ時間が何よりも辛かった。
最初からやる事が決まっているミッションのほうが、気が楽であった。
そしてライルがデータを転送し終わった後5分で、スメラギから再び暗号通信が入る。
文面で送られてきた指示は、撤退だった。
元々状況の把握だけでいいと言われていたが、研究所内には既にエージェントが進入した形跡すら消されていた。
本人たちもおそらく、いや、普通に考えて消されているだろう。
そんな研究の末など、指示を受けなくともわかる。
ライルは直接暗号通信回線を開いた。
直ぐに繋がったスメラギは、表情が硬い。
『どうしたの? 一人で脱出は難しいかしら?』
あくまでもライルの安否に気遣ってくれるのは、勿論仲間として築いた信頼関係もあるのだろうが、やはり刹那の出産という一大イベントに対してのほうが大きいだろう。
優しい人殺したちに、ライルは目を眇めて笑って見せた。
「結果、出てるんだろう? 処理も引き受ける。まだ分娩台までは遠いと思うから」
何も無いのであれば、始まった陣痛の苦しみを和らげる手伝いもしたいが、妻はそれよりも、ライルが任務を全うして帰還する事を望んでいるはずだ。
ライルはそう思っていた。
それに、前回の出産の時の事を考えれば、今朝おしるしが来たのだ。となれば、退出ルートを最大限に引き伸ばしての作戦でも、本格的な陣痛には間に合う。
それでもスメラギは首を横に振る。
『今、命の保障が出来ない事はしたくないわ。刹那の為にも、子供の為にも。今回だってソコに行かせて悪かったって思ってる。だから今回は言う事を聞いて。他の人に任せて頂戴』
「でも、手は早く打ったほうがいいんじゃないのか?」
『……警備と称して、一個小隊がソコにいるとしても、あなたは生きて帰れるの?』
本音の出たスメラギに、ライルはウィンクを返す。
「任せとけって。俺、逃げ足だけは速いから」
まとまった話に、ライルは端末を持って立ち上がり、懐をコートの上から触って確認する。
行くさ。
その為に俺はいる。
そうスメラギに告げれば、珍しく困った顔をしたスメラギが画面に映る。
「脱出ルートは、心強い味方が計算済みだ。頭の中に叩き込んである。一時間後にまた連絡を入れる」
そう言い置いて通信を切ろうとすれば、スメラギはため息をついて了承してくれた。
だが、ライルの予想以外の言葉だった。
『……わかったわ。お願いする。刹那の陣痛はもう10分間隔だけど、あなたの強い意志を尊重するわ』
「……はい?」
ちょっとまて、と言いかけて、それでも己の言った言葉を受け取った戦術予報士は、にっこりと笑顔で通信を切ってしまった。
数秒、沈黙してしまう。
何故それを先に言わない。
妻の陣痛がそんな間隔になっているのならば、処理などせずにとっとと帰る。
あんたの言うとおりにする。
そう言いたくとも、再度通信を開いて遣り取りするには、もう時間も無かった。
「……はめられた」
敵にではなく、味方に。 乾いた笑と共に、とにかく早く帰らなければと、一頻り髪の毛をかきむしって、自棄を起こすかのように懐の銃を手に取った。
誰にも見つからずに研究室に忍び込み、不正に研究データにアクセスをかけて、拡散しないようにヴェーダによって組まれたウィルスを送り込む。
送信のゲージを眺めて、カウントされていく画面に、警備員が到着する時間を計算した。
そして処理が終わり、仮眠室に向かって無事に進入し、慌てている黒幕3人の処分も終わらせた。
返り血など浴びない。
撤退を考えて計算した距離に、狂いは無かった。
サイレンサーをつけて引いた引き金でも、火薬の反応に警備システムは動き出した。
予想通りの相手の動きに、ライルは予め頭の中に入れていた退出路に向かう。
ニーナが短時間で作り上げた撤退ルートは完璧だった。
元々のスメラギの戦術とあわせてのものではあったが、それでも最低限の戦闘で終わらせる事に成功した。
だが、二人の予想にも関わらず、建物から飛び出そうとしたところで、大量の人の気配を察知する。
これでは時間がかかる。
「……あーもう、もう陣痛始まってんだよッ!」
イライラとしながらも、それでも新しい銃倉に物陰で差し替えて、視界の限りの敵に狙いを定めていると、思わぬ方向から援護が来た。
そんな話は聞いていないと思ったが、それでも急いでいる現状には変えられず、援護に頼ってその場を沈黙させた。
監視カメラも破壊して、外の人間に怪しまれない動きで撤退を完了させれば、自然と安堵のため息が漏れる。
強力な消臭剤入りの袋にマグナムを入れて、人の目の着かないところで自分にも硝煙の香りを誤魔化すフレグランスを纏わせれば、後は一気に病院へと駆け込むだけだ。
それでもその作業の中、先ほどの援護はなんだったんだと考えていれば、誰もいないはずのライルの留まった場所に、足音が響く。
慌てて身を潜めて足音を確認すれば、ソコにはなんと長女の姿が。
どういう事だと慌てて彼女の腕をつかんで、物陰に隠れた。
「おま、なんでこんな所にいるんだよ! 託児所の門限はとっくに過ぎてるだろ!」
先ほどの殺伐とした雰囲気を瞬時に消して、躾の為に親の顔で長女を怒れば、長女は何食わぬ顔で更に自分の背後を指差した。
「保護者同伴だから平気だもん。それにマムの病院にいく途中だったし」
長女の指の先を見れば、朝、スメラギが寄越すと言っていたフェルトの姿と、更にはラッセの姿があった。
だが、長女の病院に行くにしては大きな荷物が気になり、その荷物から漂う香りに眉をひそめる。
「……お前に指示出したの、スメラギさんか?」
長女は彼女の父親の血を色濃く継いでいて、齢10歳にして射撃の名手だった。
命中率は80%を下回った事は無い。
それでも子供を戦場に立たせる等、ライルには承服できない事だった。
先ほどの援護の正確な射撃に、増援の正体を知って、ライルの表情は固くなる。
「指示なんてもらえるわけ無いじゃん。アタシの独断で、フェルトとラッセに協力してもらったの」
「なんでそんな事した! 危ないだろうが!」
厳しい父親の声色に、ニーナはうつむく。
それでも頭ごなしに叱らない父親に、自分の考えを言葉に出来た。
「……マムの病院、一緒に行きたかったの。一緒に妹を迎えたかったの」
暗に、万が一でもライルが居なくなる事が怖かったのだと言う娘に、これ以上ライルが叱る事もできない。
それでも声を落ち着けて、ライルは諭した。
「お前の気持ちはわかった。でもな、マムにも言ってるけど、俺は大丈夫だから。お前たちを残して死ぬなんて、絶対にしない」
「そんなの、わかんないじゃん」
「そうだな。でも今回の事でお前が無事だったのだって、結果的にはこうなってるけど、わからないだろ? 俺はお前よりも訓練もつんでるし、生き残るためにどうすれば一番いいかを考えられるだけの場数も踏んでる。単に戦えるだけの数値上の話じゃないんだ。体格と経験がこういうのには必要になる。だからお前に誰も指示なんて出してくれない。お前の気持ちはわかるけど、それはそれなりに勉強してから出来るものなんだよ。だから二度とするんじゃないぞ?」
ライルが静かに諭せば、ニーナはライルに縋って泣き始めた。 折角得られた父親がいなくなるかもしれない不安が取り除かれ、また初めて触れた緊迫した場面から開放された安堵からだと理解できたライルは、泣く長女の背中を撫で摩った。 背後で心配そうに様子を伺ってくれていた仲間に、長女を抱き上げて視線を向けた。 「悪かったな。どうせコイツが言い出したら聞かなかったんだろ? 次からは頭殴っていいからさ」
少しおどけて告げれば、ラッセは肩をすくめた。
「刹那の血だ。仕方がない」 ラッセの言葉の後に、フェルトも悲しそうに小さく笑って付け加える。
「それに、ロックオンも」
目の前の事に捕われてしまう彼女の両親に、そして意思を曲げる事を知らない二人に、フェルトは悲しげに微笑むしかなかった。
今回の長女の思考が、そのまま彼女の父親の命を奪ったのだと理解しているが故に、フェルトは止めた。
それでも真剣な眼差しに、父親が危ないと縋りつく彼女を止める事もできなかった。
二人の言葉を聴いて、ライルは瞳を閉じる。
子供にこんな思いをさせない世の中が早く作れるようにと、神に祈るではなく、自分のやるべきことを心の中で再度確認した。
長女の荷物に予備の消臭パックを放り込んで、病院ではなく、一旦自宅に向かって足を向ける。
道すがら、どうしても気になった事を、腕の中の少女に問うた。
「……お前さ、実弾使ったのか?」
大型のスポーツバッグの中には、ニーナのライフルが未だに熱を保持していた。
ライルの腰に当たるその熱に、いくら家族の命がかかっていたとしても、簡単に人を死に追いやったのかと、それだけは叱らなければと問えば、もう一年以上前から抱っこは恥ずかしいと避けていたニーナは、今回は恐怖が強かったのかライルの首から手を離さずに頭を振る。
「……それは、怖かったから、ちょっと強い麻酔弾と、カメラとライトを壊すにはゴム弾使った」
「ん、そっか」 訓練用に保持していたものだけの使用に、ライルもほっと胸を撫で下ろす。 多少ずれてはいるが、それでも世間並みの考えを娘が持っていてくれた事に、自分たちの職業を考えて安心してしまった。 戦闘など出来れば見せたくない場面だが、それでもどうしても子供にはばれてしまう。 家に保管してある実弾も、子供の目につかない場所に隠してあるが、それでも見つけてしまうのが子供というもので。
彼女の選択に、ライルはニーナの背中をやさしく叩いて言葉をかけた。
「お前が、簡単に実弾持ち出す子じゃなくて、嬉しいよ」
人の命の何たるかを理解していたのだと、その事に言葉をかければ、長女は更にライルにしがみついた。
家に帰り着き、ラッセとフェルトにリビングで待ってもらい、長女を風呂に放り込む。
ついてしまった硝煙の匂いを、いつもよりも多めにシャンプーを使って洗い流して、自分も新しい命に向かうために戦場の匂いを落として、慌しく用意した。
ソコまで広くない家の中を走る親子に、フェルトは笑う。
長女はライルの妻の連れ子であるのに、違和感の無い親子の図に、勝手に入れさせてもらったお茶を手に笑いながら言葉をかけた。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ。もうリンダさんが病院についてるから、ちゃんと手伝ってくれてるから」
「俺は分娩室に入りたいんだよ! ちゃんと最初に声かけてやりたいの!」
俺が父親だ! と、彼の妻の意味不明の台詞に意味をつけた彼の言葉に、リビングは笑いに包まれる。
フェルトが長女の髪の毛にドライヤーを当ててくれているのを横目に、ライル自身は水滴を拭っただけの状態で、手近にあったシャツとジャケットを羽織った。
「待たせた! 車に乗っててくれ!」
ライルがラッセに向かって自分の車の鍵を投げて、ライルは家の火の元を確認する。
素早く終わらせて玄関の鍵を閉め、駐車場に走りこんだ。
ラッセが回して置いてくれたエンジンは、ライルの足の動きに素直に従って、軽快な動きを見せる。
同乗者の安全を心にしながらも、それでも逸る気持ちが抑えられずに、車は普段の3分の2の時間で病院に到着した。
病院内を走らないように早歩きで進み、産婦人科の病棟に入れば、既にソランは分娩室近くの控え室に移されていた。
看護師に案内されながら、朗らかに看護師はライルに話しかけてくれる。
「奥様、お待ちしていましたよ。絶対に一緒に入りたがるだろうからって仰って、途中で一度、子宮収縮緩和剤の投与もなさったんですよ」
いい奥様ですね、と褒められるのは、喜びもあるがくすぐったい。
どや顔を晒せるほど若くも無い自分に、ライルは曖昧に笑うしかなかった。
控え室に入れば、リンダがソランの腰を摩ってくれていた。
「すいません、遅くなりました」
整備士のイアンの妻の彼女に頭を下げれば、穏やかな彼女は「遅くないわよ」と、ライルの無事を喜んでくれた。
だが妻は、苦痛の所為もあるのだろうが、入ってきたライルに舌打ちをよこす。
「あと5分来なければ、一人で産もうと思っていた」
「悪かったって。でもありがとな」
痛みの所為で汗の光る妻の額にキスを送り、リンダに代わって妻の腰を摩る。
ライルが到着したのを確認した看護師が、ソランの状態を調べて、直ぐに分娩台へと促してくれた。
そして、ライルの感動はココで最後となる。
後略
タイトルはアイルランド語で「訓練」です。
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