抽象的な愛 具体的な恋2

2010/07/08up

 

 ライルは某有名大学の文学部を卒業して、某有名商社の営業を生業として生活していた。対してニールは、思春期の殆どをセイエイ家で過ごした所為か、セイエイ氏の影響を受けて芸術方面に興味を示して、大学も美術系の大学を選び、そこそこ大きなデザイン事務所に席を置き、グラフィックデザイナーとして日々の糧を得ていた。

  そんな二人の決定的な違いは仕事の畑ではなく、帰宅時間だった。
  接待や飛び込みの仕事がない限りライルは規則的な生活を送れるが、ニールはそうはいかなかった。
  グラフィックデザイナーの仕事は、名前の華やかさとは裏腹に、いつでも納期ギリギリに飛び込んでくるクライアントからの変更指示や、印刷所との過酷な遣り取りがあり、家に帰れない事など珍しい事ではなかった。
  そう言った生活状況では、同居していたとしても会話などそうそう出来ない。故にニールは、あの日にライルがして来た宣戦布告がどうなっているのかを知らなかった。
  と言うよりも、なるべく忘れる努力をしていた。
  弟に引け目を感じた事はないが、それでも、双子でも長男次男ははっきりと性格に現れる。
  次男気質が顕著に現れている奔放なライルが、ニールに本気である事を伝えて来たと言う事は、ニールが刹那と会えない間にあれこれと迫っているのは想像に安い。
  当然ニールは心の中では巧くいかない事を祈っていたが、それとは反対に、その事で刹那が傷つかないかを心配していた。
  所詮、ニールとライルは刹那に取って『兄』なのだと思っていた。だから刹那が裏切られた気持ちになって寂しい思いをしていないかだけが気がかりだった。
  それでも流れて行く日々の忙しさに、今はそんな事に捕われている暇はないと、忘れる様に心がけた。

  何事も無かったかの様に過ごして一ヶ月、珍しく朝食の席で居合わせたライルがニールに話しかけて来た。
  とは言っても、ニールは前夜家に帰って来ていた訳ではなく、たまたま始発で着替えに戻って来ていただけだったのだが。
「兄さんさ、来週の土曜日って空いてる?」
  朝は勝手にお互いに用意する朝食で、ライルはトーストを食べ終えてコーヒーを啜りながら何気なくニールに尋ねる。
  ニールは駅から家までの間にあるコンビニで買って来ていたサンドイッチを銜えて、視線だけでライルに無理だと答えた。
「……だよなぁ。最近兄さん、死相出てるもんな」
  ニールはここ二ヶ月あまり、大きな仕事が舞い込んで来ていて、更にその納期が短い所為もあって、殆ど家に帰って来られない状態にあった。そんな状況では、当然土日などの休日などありはしない。
  ゆったりとコーヒーを飲むライルとは正反対に、手早く浴びたシャワーの雫を拭き取りながら、ニールは行儀悪く家の中を歩き回りながら朝食を口の中に詰め込んでいた。そんなニールに、ライルはおかまい無しに会話を続ける。
「じゃあさ、来週の土曜日、兄さんのカメラ貸してよ」
  答えの必要なライルの問いに、ニールは咀嚼も程々にサンドイッチを飲み込んで、Tシャツを被りながら問い返す。
「なんで? 何かあんのか?」
「ああ、あるの。刹那の学校の卒業生追い出し会で、刹那が演劇部で男役やるんだって。面白いから撮っておこうと思ってさ」
「へえ、卒業式か。もうそんな時期か」
  今手がけている仕事が夏の広告であった為に、ニールは言われて初めて今が春近い季節である事を思い出す。印刷業界は、常に一つ二つ先の季節の仕事をしている為に、季節感が狂ってしまうのだ。
「そ。だから兄さんがこの間買った一眼レフのデジカメ貸してくれよ」
  プロに頼むまでもない小さな取り扱いの素材を撮る為に、ニールが先日購入したばかりのカメラを指して、ライルは家では滅多に見せない営業スマイル全開でニールに頼む。ニールにはその意図が分かり過ぎる程わかってしまい、眉間に皺を寄せた。
「……通常レンズしか貸さないからな」
  ニールの素気ない返事に、ライルは思いっきり不満を吐露する。
「ええーっ! 席が後ろの方しか取れなかったらどうすんだよ! 望遠も貸してくれよ!」
「バカやろう! お前あれいくらしたと思ってんだ! 知識の無いお前になんか貸せるか! 気張って早起きしやがれ!」
  ただでさえ刹那の行事に参加出来ない悔しさがある上に、ライルは物の扱いが雑で、ニールは何度ライルに物を壊されたか数えきれないのだ。そう簡単に高価な物などライルには渡さないと決めていた。
「刹那の晴れ姿だぞ! 兄さんだって綺麗に見たいだろ!?」
「だからお前がきちんと早起きすればいい話だろ! ……っと、もうこんな時間じゃねぇか!」
  ライルの不満を聞き流して慌てて上着を取り、仕事用のB3版の入るプラスチック製のとって付きのカルトンを引っ掴む。
  今日は朝一にクライアントとの打ち合わせがあり、外回りの為にニールは普段はカジュアルな服の出勤なのを、スーツに着替えに戻ったのだ。その苦労を水の泡にはしたくなく、バタバタと家を飛び出した。
  すると玄関の前に、久しぶりに制服姿の刹那がいた。
「……ニール? スーツなんて珍しいな」
  セーラー服の上から学校指定のコートを着て、マフラーを巻いている。それでも短いスカート丈に、思わず笑いがこみ上げる。寒いだろうにと思ってしまうのだ。だがそんな姿が可愛らしく、先程までささくれていた心が解れる。
「ああ、今日は外回りがあるんだよ。だから着替えに戻って来た」
「また徹夜だったのか。体調は大丈夫なのか?」
  眉を下げて首を少し傾げる仕草は、小さな頃から変わらない刹那の不安を表す仕草だった。
  身体はどこから見てももう『女』になったと言うのに、確かにこの女性はあの子供だったと確認出来る瞬間に、ニールの顔の筋肉が緩む。
「平気平気。一昨日は刹那のメシ食わせてもらったから、全然余裕」
  態とらしいくらいの笑顔と共に、こちらもまた態とらしく見えるが、腕を振り上げてガッツポーズをとる。
  だが視線は、刹那の手に握られている、どう見ても『弁当』といった風情の包みに集中してしまっていた。
  刹那はニールの視線に気が付いて、己の手元に視線を移す。
「ああ、これか。これはライルが今月ピンチらしくて、弁当を作ってくれと頼んで来たから渡しに来たんだ」
  少し包みを持ち上げて説明をする刹那には笑顔で「そうか」と返し、心の中ではライルに向かって「あの野郎……」と毒づく。
  ニールはライルの懐事情を知っていた。
  それは刹那に言った様なピンチな状態ではない。寧ろ先月残業の多かったライルは、今月は裕福な筈だった。その残業を理由に、何度掃除当番をさぼられたか解らない。
  あからさまに刹那との接点を増やそうとしているのが解るその嘘に、ニールの眉がぴくりと動いた。
  刹那はそんなニールをじっと見つめた後、不思議そうに首を傾げた。
「……ニールもなのか?」
「あ?」
「ニールもピンチで、弁当が欲しいのか?」
「あー……っと、」
  ピンチな訳ではない。
  だが刹那との接点が増える事や、刹那の手料理が食べられるとなると、頼みたいのが本音だった。だがそんな自分の欲望のままに刹那の手を煩わせるのも戸惑われるのがニールだった。
  答えに迷っているニールに、刹那はふっと笑う。
「遠慮しなくてもいい。別にピンチじゃなくても、手料理が食べたいなら、ニールやライルの為なら幾らでも俺は作るから」
  ニールの考えだけではなく、ライルの嘘まで見抜いている刹那の言葉に、ニールは乾いた笑いを零してしまう。
  これではどちらが年上か解らない。
「それはそうと、急いでいたようだが平気なのか?」
  刹那の指摘に、ニールは慌てて左手首に巻いた腕時計を確認する。
「やっべぇ! 走らないと……! じゃあなっ!」
  久しぶりに太陽の下で見られた刹那の顔に思わず和んでしまったが、それどころではなかった事を思い出す。
  弁当の返事も返せないまま走り出したニールに、刹那はもう一度小さく笑ってディランディ家の門扉を開いた。
  ニールは走りながら、つい先程の大人びた笑顔の刹那を思う。
  あれでは自分だけが占有出来る様な事など考えられないと。
  それだけ刹那は一般的に見ても『いい女』として認識されると、走っている所為で荒い呼吸に紛れさせてため息をつくのだった。
  子供の頃から人の感情に敏感で、その所為で引っ込み思案ではあったが、大きくなってそれに優しさが加わり、実に巧く男の心を読んでくれる。それに加えて容姿の条件も、ライルではないが二人きりになるのが怖い程で。
  駆け込んだ満員電車に揺られながら、自分もライルの事は責められないと反省しつつ、刹那に対しての心を募らせた。



「今、ニールにあったぞ」
  勝って知ったるディランディ家にチャイムも押さずに刹那は上がり、朝食をゆっくりと楽しんでいるライルの前に、ライルの要望の弁当を静かに置いた。
「ああ、俺がシャワー浴びている時に帰って来て、人の事風呂から追い出しやがって、5分でシャワー浴びて出て来て十分で家出てった」
  いかにも不満そうに言うライルに、刹那はため息をつく。
「ニールは忙しくしているんだ。ライルが風呂から追い出されて直ぐに俺を呼んでくれれば、朝食くらい用意してあげたのに……。次からは呼んでくれ」
  ライルが食べ終わった皿をダイニングテーブルから下げながら、呆れた様に刹那は言った。なんだかんだいいつつ、実はニールとライルの兄弟仲があまりよくない事を知っているからだ。
  ニールはいつもどこか引け腰で、実の兄弟のライルにすら遠慮をして言いたい事も言えず、そんなニールにライルが苛立っているのを、幼い頃から見て来ているからこそ感じ取れてしまい、毎度呆れてしまう。
  双子が『陰』の気質と『陽』の気質に別れるとは一般説で聞いてはいた刹那だったが、それを聞いた時にも「ここまでハッキリと別れる双子も珍しいのではないか」と思った位、二人は真逆の性格をしていた。
  しかもそれが表立って出ていれば解りやすいのだろうが、そこは似ている所で、二人は自分の性格と逆の表の顔を作り上げている。
  案の定、ライルは刹那の言葉にふて腐れた表情をし、陰湿な表の顔を見せて、直ぐにいじけた風を装うのだ。
  昔から刹那がニールに頼ると、ライルは不機嫌になる。今回の事もその延長にある事だと思った刹那は、ため息をつきつつ慣れたディランディ家の台所に立った。
  リビングと対面式になっているキッチンでいつもの様に刹那が洗い物をしようとすると、いつの間にかライルがカウンター越しに刹那の顔を覗き込んでいた。
  普段に無いその構図に刹那は少し驚いたが、何か用があるのかとライルに視線を合わせる。
「……刹那さ、兄さんには優しいよな」
  ライルの言葉の意味が解らず、刹那は首を傾げる。
「別に区別をしているつもりは無いが」
「だって俺にはそんな事言ってくれた事無いじゃん」
「お前は何かあるとすぐに自分から俺に言ってくれるだろう。二日酔いで苦しいとか、疲れたからメシだとか。だがニールは言ってくれないから教えてくれと言っているんだ。俺だって兄の事は気になる」
「……『兄』、ねぇ」
  ライルは含みを持たせた言葉を発して、持って来ていたコーヒーカップの中身を一気に煽り、シンクの前の刹那に突き出す。『ついでによろしく』という事なのだろうとは、長い付き合いで解っている刹那は、何も言わずにそれを受け取る。それでも視線はライルに固定されたままだった。
  言葉の意味の解釈を求められている事をライルも長い付き合いで解ってはいたが、小さく笑っただけで、刹那の頭を撫で回して誤摩化してしまう。
「俺、歯磨いてくるわ。そしたら一緒に駅まで行こうぜ」
  ライルの言葉に時計を見れば、既に登校時間が迫っており、刹那は疑問を抱えつつも水道の取手に手をかけた。





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