抽象的な愛 具体的な恋1

2010/07/08up

 

「結婚しよう、今すぐ」
 雨の降り始めたスクランブル交差点は活気に溢れていて、普通の声量のその言葉は、かき消されるくらいの音量しか刹那の耳には届かなかった。





  刹那・F・セイエイとニール・ディランディ、ライル・ディランディの関係は、簡単に言ってしまえば『幼なじみ』という括りになるだろう。
  その付き合いは、出会いから既に二十年以上の時間を得ている。
  中東にあった小国が内乱で崩壊の危機に瀕して、その国に生まれ育った才能のある画家であるセイエイ氏が亡命先として選んだ国は大国ユニオンだった。
  そしてその経済特区の一つである日本に住居を構えた。
  その家の隣に、商社勤めを生業としているディランディ氏が、勤め人として回避出来ない『転勤』という人事異動でアイルランドから移住して来た。
  都市部に行けば多種多様な民族が行き交う日本だが、二軒が並ぶその区域は少し都市部から離れた緑豊かな土地で、肌の色の違う二つの家は微妙に近所から浮いていた。二軒が仲良くなったのはそう言う経緯も含めての事だったが、それでも子供もいる二つの家族は楽しく交流をしながら暮らしていた。
  だが、長い時間を過ごす間には、色々な事件がある。
  最初はディランディ家の不幸。
  ニールとライルが中学生の時に、ニールとニールの双子の弟のライルを残して、両親と妹が事故で他界してしまった。
  それでも幸いだったのが、彼らの家は持ち家の個建てであり、その先の家賃の心配が無かったと言う事。更には彼らが成人するまでの財産が、十分に残されていた事だった。
  ただ未成年だけで住むには問題があった為、隣に立地していて、更に交遊の深かったセイエイ家が、中学生の二人の身元保証人になった。
  その上、セイエイ婦人は成長期の二人を気にして身の回りの面倒を見る様になり、セイエイ家は双子の兄弟の実質的な保護者となった。
  ニールとその弟のライルは、セイエイ家の恩に報いる為に、一人娘の刹那を実の妹の様に可愛がった。
  8歳も歳の離れた女の子は、気を張らなくても二人の心を掴むには十分な程愛らしく、庇護欲を誘う。
  故に、刹那が9歳の時に迎えたセイエイ家の婦人が他界するという事件の後、セイエイ家の台所は、画家の創作活動が忙しいセイエイ家の父親の代わりに、ニールとライルが請け負うことになっても、何も疑問を持たなかった。
  そうやって自分達も育ててもらったのだからと、まるでそこが二人の家の様に思えて、自然と役割分担をする事にした。
  だがそれも、二人が学生のうちの話だった。
  中学を卒業すると同時に、ライルは全寮制の学校に進学を決め、家を出ていた。長期休暇は自宅に戻って来て、それまでの生活と変わらない雰囲気で暮らしていたが、それでもやはり限界があった。
  更に二人が大学に進学をする頃には、また話が変わって来た。
  それぞれの生活が忙しくなる年頃に合わせて、燐家との交流はなかなか計れなくなる。
  それでも二人が成長すると言う事は、セイエイ家の娘である刹那も成長していた。
  バイトに明け暮れる二人の体調を気にして、まるで刹那の母親がやっていた様に、台所に立つのはニールやライルではなく、刹那になった。
  まるで本当の家族の様にお互いを愛し合い、不幸な中でも生活は順調に営まれていた。
  だがやはり、他人は他人だった。
  成長とともに訪れる『思春期』。
  子供だった三人は、大人に変貌を遂げて行く。
  双子はセイエイ婦人の気遣いを受けて、普通の『男』になった。
  そして刹那も双子に守られながら、『女』へと変わった。
  近所からも美男美女と言われる三人が、それぞれに下したジャッチも同じ物で。
  秀でている三人が、家族同然で暮らしていても、血の繋がりの無いお互いに惹かれ合ったとしても、仕方の無い事だった。
  そして刹那が十六歳の誕生日を迎えた後に、変化は起きる。
  高校の制服を纏った刹那は、もう双子が可愛がっていた『女の子』ではなかった。
  おせっかいな友達に施された今時の短い制服のスカートから覗く足は、しなやかで魅力的で、段々子供っぽさも抜けて来ている表情も、もうとても気軽に一緒に風呂に入る事など出来ない程の『女』になっていた。
  そして休日に打ち合わせが入ったセイエイ氏を抜かしたディランディ家での夕食後、刹那が自宅の自室に戻った後に漏らしたライルの一言で、ついに三人のそれまでの関係は壊れた。

「刹那、いい女になったと思わねぇ?」

  刹那が残していったココアのカップを眺めながら、ライルは兄のニールにぽつりと零す。隣とは言え外が暗くなった時間を考えて、門扉の先まで刹那を送り、ソファに戻ろうとしていたニールは、その言葉に一瞬動きを止める。
「……バカか。刹那は妹みたいな物だろ」
  極力何事も無い様にニールは返したが、一瞬止まった行動をライルは見逃さなかった。
「だけど俺ら、血の繋がり無いし」
  先程まで話の傍らに飲んでいたカップを手にしながら、ライルは言葉を続ける。
「スタイル抜群の上に、通っている学校は男の憧れのY女子高。その中でも特待生だぜ。しかも性格も良くて料理の腕も抜群なんて、出来過ぎな女だろ」
  刹那が入れてくれたライル好みの渋めの紅茶が揺れているカップを見つめながら、指折り条件を述べるライルを、ニールは先程のライルと同じ様に、刹那の残して行ったココアのマグカップを見つめながら聞くとも無しに耳にしながら、自分のカップに手を伸ばす。カップの中にはライルの飲み物とは別に入れられた、ニール好みのブランデーの効いたミルクティが揺れていた。
  双子の兄弟のくせに、好みがバラバラな二人の為に、刹那はいつでも飲み物を三種類用意してくれていた。そんな気遣いの出来る女性は、ニールとて殆どお目にかかった事はない。
  言葉は濁したが、ニールも常にライルと同じ事を思っていた。
  それでも小さな頃から共に育って来ている刹那から見れば、おそらく自分は兄なのだろうと思い、その刹那の信頼を失いたくないが為に、その手の話題をニールが口にする事は無かったのだ。そしてライルからも今までその話が出なかったと言う事は、おそらく同じ考えなのだろうと思っていたニールにとって、ライルの言葉はかなり衝撃的だった。
  動揺を押し隠そうとしてカップを傾けたニールに、ライルは口の端を上げる。
「俺、刹那の事好きなんだよね。俺が貰っちゃってもいいかな」
  ライルが刹那の事を好きな事など、当然ニールはわかっていた。それはニールも同じ気持ちだったからだ。暗黙の了解で気持ちを表さなかったと思っていたニールの考えを、ライルは平然とした顔で裏切った。
「貰ってもって……刹那は物じゃねぇし、刹那の気持ちも考えろよ。兄妹同然のヤツにそんな事言われたら、刹那だってどう思うか……」
「まあ確かに『兄妹同然』だったな。でも実際には兄妹じゃない。俺はそろそろ我慢出来ないね。ケダモノだからさ」
  暗にニールの気持ちもわかっていると言うライルの言葉に、ニールは眉間に皺を寄せる。
「わかってんなら自粛しろよ。人としての尊厳捨てるなよ」
「刹那が手に入るなら、人としての尊厳なんて俺はいらない。兄さんは勝手に自粛して人としての尊厳守ってな」
  カップの残りの紅茶を飲み干して、ライルは勢いよくソファを立った。そして空になったカップをリビングと続いているキッチンのシンクに置くと、そのままリビングを出る動きを見せる。
「おい、どこ行くんだよ」
  今までの会話から、ニールは自分と同じ背格好の男の背中を視線で追いかけて、行き先の確認をする。今日は隣の家は年頃の娘一人なのだ。
  俄に慌てている兄に、ライルはぷっと吹き出してリビングのドアに手をかけた。
「自分の部屋だよ。別に襲いにいく訳じゃないから安心しな。流石に俺でも強姦まがいな事なんてしないさ。俺は俺なりに刹那の事は大切だと思ってるしさ」
  肩をすくめてリビングを出て行くライルから、ニールは視線を逸らせる。そんなニールを置いて、ライルは宣言通りリビングを出て二階の自室に足を向けた。

  階段を上る音を聞きながら、ニールは嵐が去った後の様な荒んだ心を持て余してソファに沈む。
  とうとうこの時が来てしまったと、深くため息をつく。
  刹那は子供の頃から可愛かった。それは容姿だけではなく、無口で無愛想に見える喜怒哀楽が巧く表情に出せない所や、それでもふとした瞬間に、親しい者だけに見せてくれる柔らかい笑み。その特別が、まるで自分一人に向けられている様な、自分一人の物の様な気がしていた。
  ライルが高校の時に寄宿学校で家にいなかった頃、刹那とニールは親密な時間を過ごしていた。まだ幼かった刹那の遊び相手にもなり、芸術活動に忙しかったセイエイ氏は子供にそこまで構う暇は無く、父親の代わりに刹那を夏休みに海に連れて行ってあげたのもニールだった。その時の嬉しそうに輝く様な笑顔は、今でも忘れない。
  夕食をセイエイ家でご馳走になっていたニールは、当然の様にその後に刹那を風呂に入れる係だった。それがいつの日か、刹那が嫌がる様になった。
  もう大きくなったからと。
  そう言われてはっと気が付けば、刹那はもう小学校5年生だった。思春期の恥じらいが出て来てもおかしくない年頃だと納得した反面、その刹那の言葉はニールに自分でもわからない感情が芽生えた瞬間だった。それが恋の予兆であったのだと、今ならはっきりとわかる。
  いつから刹那を『女』として見ていたかなんて、ニールにはわからない。
  ただ可愛くて、幼くして命を落とした妹の様に可愛がっていた筈が、いつの間にか『女性』として認識していた。
  長く時間を共に過ごし過ぎた所為で、どこが境界線だったかなどわからないのだ。
  故に今、刹那に対してライルと同じ思いを持っていても、一歩が踏み出せない。
  『兄』として慕ってくれていた刹那のニールを見る視線が変わるのが、何よりも怖い。
  その点、寄宿で3年間ブランクのあるライルの方が、感覚的には遠いのかもしれない。だからこそ一歩を戸惑う事無く、同じ思いを抱えているニールに対して釘を刺す様な事を言えるのだろう。
  そこまで考えて、ニールはもう一度大きなため息をつく。そして刹那が入れてくれた冷めてしまったミルクティを飲み干して、ライルと同じ様にシンクのカップ専用の漂白剤の張ってある桶へ沈めて、自室に戻った。





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