言葉の壁


2007.3.25UP



 

「和希…俺、浮気してきていい?」
 夕食後、和希の部屋を訪れた啓太は、真剣な顔で和希に問う。
 問われた和希は、あまりにも不穏なその言葉に眉を顰める。
「………何?」
「だから、浮気してもいいかって聞いてるんだよ」
 恋愛関係にある二人にとって、啓太の言葉は衝撃的なものだ。いや、衝撃というよりも、二人の関係を危うくするものであり、そもそも『浮気』を宣言してする人物など聞いた事も無い。
「浮気って…なんだ?え?誰と?」
 突如沸き上がった問題に和希は対処しきれずに狼狽え、矢継ぎ早に質問を返す。
「七条さん」
 『誰と』と言う和希の質問に、啓太は軽く答えた。本来なら、軽く答えられるものでは無い事なのにも関わらず。
 実際に名前が挙がり、改めて和希は眉を顰める。
 大体、そんなにあっさりと相手の名前を言うものなのか?
 しかも会話の直前まで、そんな危うい雰囲気など何も無かった。
 和希はベッドを背もたれにして床に座り雑誌を流し読みしていて、啓太はその横でテレビを見ていた。
 そんな、日常の光景。
 和希はまず、自分に落ち度があったのかと急いで思考を巡らした。
 だが、特に思い当たる節は無い。
 その日一日の事だって、朝から今まで特に仕事が入る事もなく、二人で楽しく過していた筈だ。
 前の週は仕事は忙しかったが、啓太に変わった様子は無かった。
 いくら仕事が重なろうとも、和希は啓太を慮ってきたし、啓太も忙しい和希を慮って、出来る範囲の手助けをしようと努力していた。
 そんな、いい関係を築いていたのに…。
 そこまで思考を巡らせて、それでは、と和希は思う。
(本気になったって…事か?)
 啓太は『浮気』という言葉を使ったが、実は恋愛感情が和希に対してよりも七条に対するものの方が上回ったと言う事なのだろうか。
 啓太が件の七条を好いているのはわかっていた。
 それは恋愛感情ではないと思っていたのだが、実は和希の思い違いであったのであろうか。
 降って湧いた関係の亀裂に、和希の心臓は未だかつて無い程激しく動いた。
 どうしよう…。
 どうしたらいいんだろう…。
 何をしたら、啓太をつなぎ止められるのだろう…。
 そんな考えに支配された時、再び啓太の口が動いた。
「な?一回だけでいいからっ!浮気させて!」
 ………。
 一回だけとは、なんだ?
 何が一回なんだ?
 明るい啓太の表情を見る限り、どう見ても別れを切り出しているとは思えなかった。
 言葉と表情の違いに、和希は混乱する。
「啓太…何を言ってるんだ?俺の事からかってるのか?」
「からかってなんか無いよ!どうしても一回七条さんとセックスしてみたいんだ!」
 ………。
 和希の思考は本気で止まった。
 あまりにも衝撃的な事があると人の思考は本当に止まるのだと、思い知った。
「セックスって…え?」
 心の話をされる前に体の話をされてしまい、和希の混乱は加速する。
(セックスって…え?セックスって…あのセックスだよな?性交渉の事だよな?どう考えても性別の事じゃないよな?)
 言葉の意味をいつもの100倍の時間をかけて理解した時、和希の額に青筋がたった。
 だが、そんな和希の様子にも啓太はめげずに食い下がる。
「お願い!何も言わずに一度だけ見ないふりしてくれ!!」
「そんな事が出来るか!理由を言え!俺じゃ満足出来ないって事か!?」
 手にしていた雑誌を床に叩き付けて、和希はダンッと乱暴に立ち上がった。
「怒らないで許して!和希がどうのって事じゃないんだ!」
「ふざけるな!俺が問題じゃないって言うなら、どういう事だ!七条さんに心変わりしたって事か!?それならそうとハッキリ言ったらどうだ!そんな訳のわからない事言ってないで、ちゃんと説明するのが俺に対しての礼儀だろ!」
「心変わりなんてしてないよ!そんなんじゃないんだ!」
 激昂する和希に対して、啓太は真剣に答える。だが、その答えは和希の求めていたものでは無かった。
「啓太は何を言ってるんだ?俺にはわからないよ…」
 恋愛感情は変わっていないと啓太は言う。
 だが、体の関係を他の人物と持ちたいというのだ。
 和希が額に手を当てて沈痛な面持ちをする。その重い空気に、啓太は恐る恐る口を開いた。
「…理由、言ったら…許してくれる?」
 背中を向けた和希に啓太は上目遣いの視線を送るが、それが和希に届く事は無い。
 静かな空気の中、和希が身動いたのを合図に啓太は話し始めた。
「今日さ…会計室にお手伝いに行っただろ?その時に…」
 話し始めた啓太に、和希は横目で視線を送る。
 啓太は度々会計室を訪れて、その業務の手伝いをしていた。転校してきてから何かと手助けをしてくれた二人の先輩に、少しでも恩返しがしたいとの考えからだった。そして、今日も啓太は二人と接触をしていた。それは和希もわかっていたし、その上その場には和希もいたのだ。だが、啓太と件の七条に、何か特別な空気は感じられなかった。
 和希はじっと、啓太の言葉の続きを待つ。
 死刑宣告の様なその内容を聞き逃さない様に。
 その位重い話の筈なのだが、啓太の口から出てきた言葉は、あまりにもその重さとはかけ離れていた。
「七条さん、机に腰ぶつけたんだよ」
「……………は?」
 七条が机に腰をぶつけたから、何だと言うのだろう。まさかそのぶつかり方が酷く、怪我をしたというのだろうかと和希は考えた。だが、それではそもそも性交渉は出来ないではないかと思い直す。
「でさ…その時、七条さんが…」
「…七条さんが?」
 なんだか嫌な予感がすると和希は思ったが、話の続きを促す。
「…『Ouch!』って言ったんだ」
「……………」
 だから、何だと言うのだろう。
 和希の目は点になった。
 七条の言葉と、啓太が七条とセックスをしたいと言う事の接点が、和希には見つからない。
 だがその回答は、啓太の口からすぐに得る事が出来た。
「この間…和希が徹夜の時にさ。藤田の部屋で洋物のAV皆で見てて、女優の喘ぎ声が日本語じゃなくてさ」
 そんなのは当たり前だ。
 洋物のAVには、その国の女優が出ているのだろうから。
 だが、そこまで話を聞いた和希は、いやーな予感がした。
「七条さん、思わず出た言葉が英語なんだから…あの時もそうなのかなって…」
 やっぱり。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに、和希はがっくりと項垂れた。
「それで、確かめたいって?」
「だって!気になるじゃないか!」
 そんな事を気にするのは、きっと啓太だけだと和希は思った。だが、これが啓太一人の事だけではなかったのだ。
「さっき食堂でその話をしたらさ。みんな『気になる!』って事になって…誰かが確かめようって話になって…」
 アホの集団か。
 和希は自分の選抜に、この時初めて不安を覚えた。
「皆は『女仕掛ける』とか言ってたんだけど、俺には仕掛けられる女友達いないから…」
「別に啓太が確かめなくてもいいじゃないか。他の奴らに任せろよ」
「だって、ジャンケンに勝っちゃったんだもん」
 つまりは、ジャンケンに勝ったものが、事実を確かめられるという事だったのだ。
 勝負強い啓太は、その勝負にも思わず勝ってしまったと言う事だった。
「女友達いないって、言ったのか?」
「勿論言ったよ。そしたら皆が『じゃあお前自身が体をはれ!』って…俺だったらきっと、七条さんも相手にするって盛上がっちゃって」
 確かに、啓太が誘えば七条は乗るだろう。七条とて啓太を憎からず思っている事は明白なのだから。だからと言って、和希にそれが許せる筈も無い。何を好き好んで七条と兄弟にならなければならないのか。それ以前に、何故恋人を他の男に差し出さなければならないのか。
「………馬鹿が」
 思わずぽろっと溢れた本音に、啓太は食いついた。
「馬鹿は無いだろ!俺の身近に基本言語が英語の人間なんて、七条さんが初めてだったんだぞ!言うなれば異文化交流だぞ!」
 異文化交流等と大義名分を付けるのならば、もっと有効な事にチャレンジしてくれと、和希は心から願った。
 しかも七条は、生まれはUSAであるが、半分は日本人なのだ。その上、今の段階ですら人生の半分近くは日本で暮らしているのだ。
 だが、啓太の言葉に和希は一つひらめいた。
 馬鹿馬鹿しい事この上ないが、背に腹は代えられない。
 ニヤッと意味深な笑みを浮かべて、真剣な顔をしている啓太に近付く。
 啓太は和希の顔に笑顔が戻った事に安堵して、体の力を抜いた。
 その瞬間、啓太の体はふわりと中に浮き、直ぐさま柔らかいベッドの上におろされた。
「…え?何?和希?」
 疑問符を並べる啓太に伸しかかり、和希はにっこりと微笑んで口を開いた。
「Is there no problem if it is English person of the base language?」(基本言語が英語ならいいんだろ?)
「…何?」
 突然理解出来ない言葉を並べられて、啓太は更に不思議そうに和希を見る。
 その視線にも和希の笑みは壊れず、更に口を開いた。
「If Keita can speak in English, I can change the base language English. Therefore, keita must speak in English.」(啓太が英語で話してくれれば、俺だって基本言語を英語に切り替えられるよ。だからちゃんと英語で話して)
「え?スピーク…何?英語?」
「Time that I lived in English is almost the same as Mr. Sitijo. But, it might be post shortage because it sees the dream in Japanese.」(俺だって英語圏で暮らしてた時間は、七条さんと大して変わらないよ。でも夢は日本語だから、ちょっと役不足かもしれないけどな)
「何?なんて言ってるの?全然わかんないよ?」
 ただでさえ苦手な英語に加えて、突然始まった会話に啓太が付いて行ける訳も無い。和希とてそんな事は解っていたが、和希はかまわず続けた。
「Please speak in English. The base language is not changed from Japanese to English if it doesn't start speaking in English. Have you understood?」(英語で話せって。思考が日本語になっちゃうだろ)
「ちょっと…え?な、何?は?」
 啓太の疑問を置き去りにして、和希は啓太の服に手をかけた。
「えぇ!? なんなんだよ!? ちょっ…和希!?」
「Speak in English」
「や、そ…ええ!? 英語!? な、何で!? ちょ…何で脱がしてんの!? 和希!?」
 ばたばたと暴れる啓太に、和希は態とらしく大きく溜め息をついて顔を上げる。
「啓太、興味あるんだろ?」
 急に日本語に戻った和希に啓太は暴れるのをやめた。
「興味って何だよ!大体なんて言ってるのかわかんないよ!」
「異文化交流なんだろ?英語でのセックスに興味があるんだろ?だから、俺が体験させてやるって言ってるんだよ」
「だって和希、日本人じゃん!」
「七条さんだって半分日本人だろ」
「半分は違うじゃないか!それに和希は「Ouch!」って言わないもん!」
「七条さんだってこの間俺とぶつかりそうになった時「おっと」って言ってたぞ?」
「でも和希っ、エッチの時に英語が出た事無いじゃないか!」
「だから、それはさっき説明したろ?」
「わかんないってば!」
 元々不条理な事を言い出したのは啓太だったのだが、理解出来ない事を次々と言われ、その上友達との約束を破らされそうになって啓太は逆切れした。

「和希とエッチしたって仕方ないんだよ!俺はこれから七条さんとエッチしてくるんだから触んな!」

 啓太のこの一言で、とうとう和希の堪忍袋の緒が切れた。
「………わかった」
「え?」
 冷たい目で啓太を見下ろし、和希は啓太の上から体をどかす。そして、衣服を整えてすたすたとドアへと足を向けた。
「そういう事なら、俺が七条さんとエッチしてきてやる」
「………はぁ?」
「いいか?2時間待ってろ」
「ちょ…ちょっと待って!」
 流石の啓太も慌てた。言い出したのは啓太だったが、和希が他の人とエッチをするのは嫌だったのだ。
「別に和希にして来いなんて言ってないだろ!」
 啓太の制止の言葉に和希はドアの前で立ち止まり、冷たい視線を向ける。
「啓太が確かめたいのは喘ぎ声だろ?なら、啓太が誘ったってわからないじゃないか」
「何でだよ!」
「お前…七条さんを喘がせられるのか?」
「あ………」
 喘ぐのは受け入れる側だという事を失念していた啓太は、思わず口ごもる。
「それに、七条さんだって今の思考言語は日本語なんだろうから、それを変えるのなら、相手が英語の方がいいじゃないか。だから、俺がやってきてやるよ」
 言うだけ言って、和希はドアに手をかける。
 だが、啓太だって負けてはいられないのだ。
 確かに最初に浮気の話をしたのは啓太だった。だがそれは、友達との約束があったからで、何も進んで和希以外の人と体を重ねたかった訳ではない。本音を言えば、少し嫌かなとは思っていたのだ。だが、啓太自身がするのを耐えるのと、和希がするのを黙認しなければならないのとを比べれば、遥かに啓太自身がする方が気が楽だったのだ。そこで和希も同じ思いだと気が付ければ良かったのだが、残念ながら啓太はその事に気が付かなかった。
「お、俺だって出来る!え…英語はしゃべれないけど……あ、そうだ!そのAVだって、男だってなんか言ってたもん!それが確かめられればいいんだから、俺でいいんだよ!」
「啓太より俺の方が自信があるな。それに啓太の頼みなら俺はどっちだってOKだ。まあ、両方確かめるっていうなら、2時間じゃ足りないかもしれないけどな」
「誰も頼んでないよ!それにっ、最後までしなくてもわかるかもしれないじゃないか!」
「最後までした方が完璧だろ?どうせやるなら完璧を目指した方がいい。じゃあ、待ってろよ」
 和希が本格的にドアノブを捻った所で、啓太はベッドから飛び降りて和希に縋り付いた。
「ヤダヤダ!和希は他の人とエッチしちゃ駄目!」
「俺は啓太が他の人とエッチするくらいなら、俺がしてきた方がマシだよ。啓太以外ともとっくにしてるし、別にこれから一人位経験増えたって変わらないからな。バックは初チャレンジだけど」
「ダメーっ!和希は俺だけのなの!今はもう俺以外はエッチの時の和希は見ちゃダメなのー!それに俺がした約束なんだから、俺が確認しなきゃダメなのー!」
 何を言っても引かない和希に、啓太は半泣きになって縋った。だが、切れてる和希を止める事は出来ない。
「じゃあ、啓太見に来る?そうしたら啓太が確認出来るだろ?七条さんならきっと見せてくれるぞ?」
 どこからそんな情報が流れてきているのか。和希の中では七条は複数プレイOKな人物らしい。
 というよりもそもそも、いくら七条が啓太を憎からず思っていようとも、男である啓太をセックスの対象として認識するかもこの時点ではわからないのだし、憎からず思ってもいない和希を相手にするかというのもわからないのだ。なのに二人は既に「どっちが七条とセックスをするか」という事について討論しているのだ。ハッキリ言って、当の七条にとってはいい迷惑である。
 そんな二人の不毛な押し問答を遮る様に、和希の部屋のドアがノックされた。
 二人は一瞬沈黙し、ドアに視線を向ける。
 すると再びコンコンッとノックの音が響く。
 和希は大きく溜め息をついて、握りしめていたノブを捻った。
「…こんばんは。夜分にすみません」
 ドアを開けると、そこには騒動の中心である七条が立っていた。
 七条の声に反応して、啓太は和希の背中からひょこっと顔を出す。
「伊藤君も今晩は」
「あ、こんばんは。あの、しち…もがっ」
「御用は何でしょうか?」
 余計な一言を遮る様に啓太の口を掌で押さえて、和希は慌てて用件を促す。
 その様子に当の七条はクスクスと楽しそうに笑い、和希に封筒を差し出した。
「これ、頼まれていた例のチェックです。僕が気が付いた範囲の問題箇所と、あと僕の意見をまとめておきました」
 話の内容が、和希自身が七条に頼んだ事だとわかり、和希は部屋の中へ七条を招き入れようとした。
 が。
 この場に啓太がいると、また話がアヤシい方向に向かいそうな気がして、啓太を一瞥する。
「…啓太。あとで部屋行くから、ちょっと帰っててくれないか?」
 口を手で押さえられながらも、啓太とて引き下がれない。
 和希の思案通り、啓太はいいチャンスだと思ったのだ。
 時間にして数秒。二人はじっと睨み合ったが、その均衡を破ったのは七条だった。
「別に問題ないんじゃないんですか?僕に見せられる程度の機密性でしょ?それに、伊藤君が内容を全て把握出来るとも思いませんが」
 余計な事を、と和希は心の中で舌打ちをする。そして救いの手を差し伸べられた啓太は、ぱっと顔を輝かせた。
「少し説明もありますしね。遠藤君の指示も聞きたいですし…よろしければ伊藤君、お茶を入れて頂けませんか?」
 柔らかく押さえつけられていた和希の手を振り払って、啓太は「はい!」っと元気よく返事をする。一方和希は眉間に皺を寄せて、それを良しとしない事を七条に表すが、そんなモノを受け入れる七条でもない。
 七条は啓太ににっこりと微笑んで、部屋の中へと歩を進めた。




「…という感じですが、いかがでしょうか?」
 書類の内容を口頭で確認し、七条は書類とDVD-ROMを和希に差し出した。
 部屋の中央に置いてある小さな机を挟んで向かいに座る和希は、差し出された書類を受け取り、更にその内容を確認する。
「さしあたって問題は無いと思う。いつも有り難う」
「いえいえ」
「アルバイト料は、いつもの口座に振り込めばいいかな?」
「はい。それで宜しくお願い致します」
「じゃあ、今月締めで出させてもらうから、来月の25日には振り込まれると思うからよろしく」
「こちらこそ宜しくお願いします」
 二人の会話を啓太は和希の横で聞いていたが、七条の言った通り、何がなんだか全く理解出来なかった。
(宇宙語にしか聞こえない…わかったのはバイトなんだって事くらいだよ)
 和希はたまに、あまり機密性の無いものに関して、七条にシステムチェックのアルバイトの依頼をしていた。七条もいいお小遣い稼ぎになるので、話がくれば西園寺を通さずともその依頼を受けていたのである。
 手にしていた書類を封筒にしまい、和希は啓太の入れたコーヒーを口にしながら感慨深く呟いた。
「七条さんくらいの能力の人が数いればいいのに」
「有り難うございます。でも僕はまだ普通の高校生ですから、専門のエンジニアの人から見ればまだまだでしょ?」
(七条さんがどの位なのか想像もつかないけど…普通の高校生じゃない事は確かだよな)
 啓太は七条の言葉に心の中で突っ込みを入れる。
 七条が『普通の高校生』だというのなら、はたして啓太は何なのであろうかと思うのだ。
「七条さん。『普通』って言葉をもっと研究した方がいいですよ」
 啓太の心を代弁するかの様に、和希が苦笑とともに言う。
「高校生なんかすぐやめて、俺の所に来ませんか?高待遇でお迎えしますよ?」
「魅惑的なお誘いですが、それはお断りさせて頂きます。僕にも夢はありますから」
 いつもの笑顔で、七条は和希の誘いをはね除けた。
 和希も断られる事はわかっていたので、「残念だなぁ」と一言漏らすだけで終わらせた。
 だが、啓太は七条の言葉が気になった。
「七条さんの夢って、何なんですか?」
「おや、伊藤君は僕の夢に興味があるんですか?」
「はい!」
 高校生離れした能力の持ち主の夢とは何かと、将来の夢を模索中の啓太は興味津々で問いかける。
 キラキラと瞳を輝かせて答えを待つ啓太に、七条は小さく笑って口を開いた。
「そうですねぇ。漠然としたものなんですが、取りあえず高校を卒業して大学には行きたいですね」
「…それから?」
「大学の先攻は決めてないんですが、世間並みの学歴を取得してから仕事に就きたいです」
「…それからそれから?」
「…それから、愛する人と一緒に末永く幸せに暮らせればいいと思ってます」
 極一般的な人生設計なのだが、七条の口から出るとそうは思えないのは何故だろうと和希は笑った。
 だが、そんな和やかな空気も、啓太のぽつりと漏らした言葉で打ち消される。
「愛する人…」
 そこから、七条が部屋に来る前の事を連想してしまった多感な少年な啓太は、ハッと顔を上げた。
「七条さ…!」
「啓太!」
 身を乗り出した啓太を和希は慌てて押さえ、更に再び啓太の口を掌で塞いだ。
「もがっ…もがもが」
「馬鹿な事言うな!」
「んがっ…ぶっ!」
 和希の手から逃れようと啓太は必死にもがいたが、いかんせん力の差があり過ぎる。端から見ればじゃれあっているような二人に、七条はにっこりと深い笑みを称えた。
「伊藤君が相手なら、僕はかまいませんよ?」
 七条の言葉に、啓太と和希はぴたりと動くのをやめて、七条を見つめる。
「一回だけでも試して頂ければ、もしかしたら伊藤君の心が僕に移るかもしれませんしね」
 主語がなくても、当の会話をしていた二人には当然理解が出来る内容で。
 和希の背中に、つーっと冷たい汗が流れた。
「あの…どこから聞いてたんですか?」
「それは、秘密です」
 いつもの口元に人差し指をあてる仕草で、方目を瞑って悪戯っぽく七条は答えた。
「でも、申し訳ありませんが遠藤君は御免です。アナタでは勃ちません」
「ほらみろ和希!やっぱり俺だよ!」
 何が誇らしいのか、啓太は勝ち誇った笑顔で和希に告げる。反して和希は顔を顰めて啓太を詰る視線を送るが、それが功を成す事は無い。
 恋人の貞操観念の低さにも涙が出そうになるが、目の前の男が自分達の会話を聞いていた事に気が付かなかった自分自身にも和希はがくりと首を足れた。
「でも、先にご報告させて頂きますと、僕は童貞じゃありませんよ?」
「「…は?」」
 いきなりの七条の性体験の告白に、和希と啓太は揃って間抜けな声を上げる。
「僕は幼少期しかアメリカでは過してません。なので、当然初体験も日本人とです。さっき遠藤君も言ってましたが、確かに英語圏の方とセックスをしたらどうなるかはわかりませんが、日本の方とのセックスは、感嘆詞も日本語です」
 確かめようとしていた事柄を先に口頭で告げられてしまった啓太は、「なーんだ」と呟いて肩の力を抜く。
「それでも試して頂けます?」
「それがわかれば問題ないんだよな!? 啓太!?」
 七条の誘いを打ち消す様に、和希は声を張り上げて啓太に断りの返答を促した。
「あー、うん…えっと、日本語ならいいです」
「それは残念ですね」
 あまり『残念』そうには見えない笑顔で、七条は啓太の答えを受け止め、その返答に和希は安堵して床に突っ伏した。
 こんな馬鹿馬鹿しい事で体力と気力を使ったのは初めてだと、和希はこっそり涙を流した。そんな和希の様子と七条の笑顔に、啓太は「はっはははっ」と、乾いた笑いをあたりに振りまく。
「それにしても、伊藤君が僕のセックスに興味があったなんて驚きましたよ」
「いや、別にセックスに興味があった訳じゃなくて…」
 全て承知している筈なのに、更に話を引き摺る七条に、和希も起き上がって頬を掻いた。
「本当に試してみません?若い男って言うのもいいかもしれませんよ?」
 チラリと和希に視線を送って、なにげに皮肉を付け加えた七条に、視線を送られた和希はぴくりと眉を上げる。
「それは、どういう意味ですかね?」
 確かに和希の年齢は現役高校生よりは上だ。だが、『若い』という言葉が当てはまらない年ではない筈だ。それでも目の前の高校生から見たら、大人というだけで『若い』という言葉に相当しないのかもしれない。
 そんなジェネレーションギャップを和希が感じていると、現役高校生の恋人が、更に突き落とす発言をした。
「でも、若いかどうかって言うのじゃなくて、ちょっと七条さんのサイズに興味があったりして…」
「啓太!?」
「だって和希!風呂場でみた七条さんのは通常サイズでも凄いんだぞ!? あれが育ったらって考えたら興味あるだろ!」
 握り拳付きで真顔で力説する啓太に、和希は目眩を覚えた。
 何でそんな所ばかりに興味を覚えるのか。
 七条に興味を抱くなら、もっと別の方向にどうして行かないのか。言語の事に関しても、最中の言葉ではなく会話に興味を抱くとか、下半身のサイズを気にするなら、上半身の頭脳に興味を持って欲しいと願ってしまうのは仕方の無い事だと思う。
 そんな啓太の下らない興味に、七条は笑顔を崩さない。
「サイズ…ですか?流石にそこは計った事無いのでわかりませんねぇ。伊藤君はどのくらいなんですか?」
「え?俺ですか?俺なんてエノキサイズですよ」
 あはは、と啓太は明るく答える。
(何なんだ…こんな事を明るく会話してるこの二人は…そういうお年頃なのか?そうなのか!?)
 ここは酒の席じゃない。
 目の前にあるのはただのコーヒーだ。
 和希は思わず目の前の飲み物を確認してしまった。
「まあ、サイズはいいんですけど、伊藤君が気にしてた僕の言葉ですけどね」
 話が下ネタから逸れた事に、和希は思わずホッとしてしまった。
 自分に話が及んだらどうしようかと思っていたのだ。
 別にサイズに自信がない訳ではなかったが、それでも恋人以外にそんなモノを知られるのは御免だと思っていた。
「言葉って…基本言語の事ですか?」
「そうです」
 下ネタの時と変わらない笑顔で、七条は話しはじめた。
「基本的に、僕や遠藤君みたいに別の言語圏に長く住んだ人はですね。直前にした会話で頭の中が切り替わっちゃうんですよ。今日会計室で出た言葉も、直前に僕の母と電話をしていた所為で、基本言語が英語になってしまっていたんです。でも、今は伊藤君や遠藤君と日本語で話しましたから、ちゃんと日本語に戻りました」
「へーえ。なんだか便利なんだか不便なんだか微妙ですね」
「そうですね…Did you suffice in such an explanation?Mr. Suzubisi?」(こんな説明でいいですか?)
「Yes, well…」
 和希の返答を得て、七条はふふっと笑う。
「ほらね?」
「ほんとだー。和希が英語しゃべってる」
 興味津々で和希を見つめる啓太に、当の和希はため息を零した。
(いや…別にいいんだけどね…)
 どこから興味を持とうが、それが自身の教養になるのであればそれでいいとは思うのだが、あまり根源を聞きたくなかったというのが和希の本音だ。
 よもや、自分の恋人がアダルトビデオから言葉に興味を持ちましただなんて、何が悲しくて知らなければならないのか。
「じゃあ、俺が英語ペラペラになったら、和希もエッチの時には英語になるのかなぁ」
「…啓太…」
 どうやらどうしてもその手の話が気になるらしい啓太に、和希は頭を抱えた。
「ああ、遠藤君はセックスの時日本語なんですね」
「……当たり前でしょ。俺は長く住んだってだけで、基本的には日本語でしか考えません」
「でもこの間、僕とぶつかりそうになった時に『Pardon』って言ってましたよね?」
「ええ!?」
 またもや話を戻されて、和希は七条を軽く睨む。
 笑顔で話し続ける七条の真意は、交渉術に長けている和希にさえよくわからない。
(ああもう、なんだってこんなに扱い辛い子なんだ)
 能力は人一倍。
 でも、問題も人一倍。
 性格が悪いとは言わないし、人格的にも問題がある訳ではないのだが、並の大人を相手にするよりも全力で向かわないと、和希ですらすぐに足下をすくわれるのだ。
(帝王学って、なんだっけ…)
 啓太の浮気発言からダメージを受けまくっている和希は、既に精神的にへとへとだった。
「でも、伊藤君が英語に興味があるのなら、僕は喜んでお相手しますよ?」
「相手って言っても、俺話せないですし」
「なら、これから英語しか話してはいけないって事にしたら、話せる様になるんじゃないですか?結局は環境ですよ」
「そんな事になったら俺、すっごい無口になりますよ!」
 浮気計画を練った相手とけらけらと愉しそうに話す啓太に、和希は再び目眩を覚えた。
 だが取りあえず、啓太の浮気は回避出来たのだ。
 事の大元を考えて、和希は肩の力を抜く事にした。
 後は勝手に話してとっとと帰ってくれと、心の中で祈るばかりだった。
 そんな和希の様子に、七条はまた意味深な笑みを浮かべる。
「He does an interesting conception.」(伊藤君も、面白い事を思いつくんですね)
 和希の苦悩を面白がっているとしか思えない七条の言葉に、思わず視線がきつくなる。
「…Don't tempt him.」(啓太には手は出さないで下さいよ?)
「I don't want to make the same experience as you.」(僕だって貴方と兄弟にはなりたくないですよ)
「Really? But, you seem to have had the interest of him.」(でも、啓太としてみたいって思ったでしょ)
「Somewhat…well…yes. He is attractive.」(まあ、多少は。伊藤君は魅力的ですからね)
「…何二人で話してるんだよ」
 一人会話のわからない啓太は、和希の袖を引っ張り説明を求める。
 だが、説明の出来ない事を話しているからこそ、啓太にとって暗号になる言葉を使っている七条と和希だった。
 まさか本人の前で、手を出す、出されるの話はおおっぴらに出来る訳も無い。
 その上和希は、この話でまたもや啓太に七条との情事に興味を抱かれても困るのだ。
 まだまだ、啓太を手放す気はない。
「However…It is glad to think for him to have been interested in me.」(でも…僕は伊藤君の範疇に入ってるみたいで嬉しいですよ)
「Because…don't tempt him.」(…だから、手、出すなよ?)
「If he doesn't tempt it, it is safe.」(誘惑されなければ、出しませんよ)
 笑顔が深くなる七条と、視線がきつくなる和希を見て、啓太は恐る恐る口を挟んだ。
「…俺、もう七条さんと浮気しようとか思ってないよ?」
「「え!?」」
 わからない筈の会話に答えを出されて、七条と和希は二人揃って驚いて啓太を見つめた。
「啓太、聞き取れたのか?」
 啓太が聞き取れる程ゆっくりと会話をしているつもりはなかったと和希は啓太を伺うが、その返答は想像を超えていた。
「ううん。言葉は全っ然わかんなかったけど、顔を見てれば大体わかるよ」
「「…顔?」」
 読唇術?と一瞬頭を過ったが、まさか啓太がそんな事が出来るなど聞いた事がなかった。その上、読唇術で英会話が聞き取れるなら、今の啓太の英語の成績は有り得ない。
「七条さんはどんどん愉しそうな顔になるし、和希はどんどん怖い顔になるから…そしたら前に話してた事考えればわかるだろ?いや、俺も七条さんに失礼な事言ったなーって、ちょっと反省してるんだけどね。ホントにごめんなさい、七条さん。七条さんだって、ホントは俺なんかとセックスなんてしたくないですよねー」
 合っているような合っていないような…でも大元に対しては適切な回答に、和希と七条は顔を見合わせた。
 表情のみで会話を聞き取る男、伊藤啓太。
 他の言語に通じている自分達より、実は能力的には上なのではないかと和希と七条は思った。
 そして、啓太の理論を用いるのであれば、啓太は生物教師海野の様に、動物とも会話が出来る様になるのではないか。
 英語・ドイツ語・フランス語・中国語に精通している和希よりも、英語・フランス語・日本語の三言語で思考出来る七条よりも、人の表情から感情を読み取って会話を理解する啓太は、無敵な気がする。
 言葉の壁。
 啓太にはそんなモノは無いも等しいのかもしれない。

 

 

 

END




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