『嫉妬』。
 こんな嫌な感情は誰だって持ちたくない。
 腹の底が煮えくり返る様な、それでいて頭からは全ての血が落ちて行く様な感覚。そして、なにより病気になったのではないかと思う程、胸が締め付けられる。
 だが、一度誰かに恋愛感情を抱いてしまえば、金持ちだろうが貧乏人だろうが、紳士だろうが淑女だろうが、それから逃れられる事は無い。もし「そんな子供じみた感情は持たない」という人間がいれば、それは本当の恋をしていない者の言葉だ。


Jealusy


2008.1.20UP



 


「え?実家に帰った?」
 俺は1週間の海外出張から帰って来て、真っ先に恋人の啓太の部屋を訪れた。
 学園自体は冬休みに突入しているが、年末年始の寮の閉鎖日ギリギリまで学生会の手伝いをすると啓太が言っていたので、啓太自身が自室にいないのを確認する為だけにその扉を叩いた。案の定、中からは何の返事も無く、人が動く気配もなかった。俺はそのまま、啓太の言葉を鵜呑みにして学生会室の扉を叩いたのだが、中にいた住人からは思いもよらない返事が返って来たのである。
「なんでも、急な野暮用だとさ」
 学生会室の主人、王様こと丹羽君がつまらなそうに口にボールペンを喰わえて、頬杖を付きながらぶっきらぼうに俺に言い放った。
「午前中に誰かから電話がかかって来たと思ったら、慌てふためいて出て行ったぞ」
 短い王様の言葉に付け足す様に、メガネのフレームを長い指で押し上げながら。面白そうに中嶋さんは俺に告げる。彼が何を考えているのかわからない訳ではないが、彼の考え通り、俺は面白くなかった。
 別に、恋人だからと言って全ての行動を報告しろとは言わない。だが、今日俺が帰って来るのが分っていたのだから、一言くらいメールでも寄越して欲しかったというのが本音だ。恋人の動向を、他人に知らされること程不愉快なものは無い。しかも、この部屋にいる二人は、どう見ても啓太が俺と付き合い始める前は、啓太のことを憎からず思っていたのは明白なことだった。そして、今もまだその思いは燻っている様に俺には見えている。きっと俺達の破局を、ひっそりと待っているのだろう。そんな二人からの報告が、俺にとって快いものの筈が無い。
 俺はそんな二人に余裕の笑顔を向けて、「有り難う」と一言告げると、目的の人物のいない部屋を後にした。
(まったく、人の不幸を喜ぶなんてろくな大人にならないぞ。あの人は)
 休み中の誰もいない教室棟の廊下を、心の中で悪態をつきながら早足で歩く。そのまま寮の自室に戻り、ジャケットの内ポケットに入れていた携帯電話を取り出し、早速啓太に連絡を入れる。午前中に学園を出たのなら、もしかしたらまだ電車の中かもしれないが、着信を見て貰えれば、きっと折り返しかけて来てくれるだろう。
 出張に出かける前、クリスマスを二人で過ごせない分、年末年始を一緒に過ごそうと約束していたのだから、きっとかけて来てくれる。
 ところが、俺の予想に反して3コールもしないうちに、当の啓太の声がスピーカーから流れて来た。
「あれ?今電車じゃないのか?」
 スピーカーからは町の雑踏の音も聞こえてくる。
『ちょっと寄り道して帰るんだ。和希は今寮?』
「ああ、さっき帰って来た。お土産渡そうと思って学生会室に行ったら、王様から啓太は急に帰ったって聞いたから…寄り道って、急いでたんじゃなかったのか?」
 学生会室で言われた言葉から、啓太はかなり焦っていた様子が伺えたので、俺は普段通りの何気ない言葉の遣り取りのまま、啓太に聞いていた。
 だが、啓太から帰って来た言葉は、俺の思い描いていた様な普段通りの言葉では無かった。
『べっ別に急いでなんか無いよ。まあ夕飯までには帰らなきゃいけないけど』
 啓太は嘘をつくのがヘタだ。
 俺の質問にあからさまに動揺した様子が、表情を見なくても分ってしまうあたり、素直と言うか正直と言うか…。
「…啓太、何で急に実家に帰ることにしたんだ?明後日から俺の家に泊まるって約束してたのに」
 『あっ明後日は多分大丈夫だからっ!今日はどうしても帰らなきゃいけない用事が出来ちゃっただけで…』
 俺の質問の答えになっていないことは、啓太は重々承知しているのだろう。はぐらかそうとして声が上擦っている。
 俺が啓太の声色から様子を探っていると、啓太のすぐ側からであろう音量で、聞き慣れない声がした。
 『ねぇ、まだぁ?』
 その声に、俺は愕然とした。
 それは、どう聞いても女の声だったのだ。
『ごめん和希、ちょっと待ってて…』
 スピーカーからガサガサと雑音が響き、啓太が慌ててマイクの部分を手で押さえている様子が伺える。
 その女は誰なんだ?
 俺に聞かれちゃまずい相手なのか?
 俺の中で、沸々と疑惑の念が沸き上がる。
 啓太は以前の学校でも、男女問わず人気があったらしく、いまだにその交友関係は切れていない。当然その中には女の子もいる訳で。以前から少し気にはしいていたが、啓太に不審な行動は見受けられなかったので、俺は何でもない振りをしていた。只の友達にまで、一々嫉妬しているなどと思われては、大人の男としての襟持ちが許さない。
 だが、今回の啓太の行動、言動は明らかに不審だ。
 何故、何も言わない?
 別に普通に実家に帰るだけなら、俺にはっきりと言えばいいだろう?
 それに、隣にいるらしい女の声。
 しかもその声色は、かなり甘えた様子なのだ。
 電話口から流れてくるぼそぼそとした話し声の中に、啓太の言い訳めいた言葉が聞こえてくる。その言葉に、あからさまに不満の色を醸し出している女の声。それは、かなり親しげで、只ならぬ中の様に思える。
 俺は苛々しながら啓太が電話口に戻るのを待った。
 暫くして、再び雑音が響き、啓太が話し出す。
『ゴメン、また夜にでも電話するよ…』
「啓…っ」
 俺が不安を吐露する前に、無情にも電話は啓太から一方的に切られた。
(なんだったんだ、あの雰囲気は…)
 女の子に話かけている啓太の声も、いつもより甘く聞こえた。
 しかも、俺と二人っきりの時に聞くような甘えた声では無く、一人の男として甘やかしている様な声。
 俺が、聞いたことの無い声。
 啓太は根っからのゲイではない。まあ、俺だってそうだけど。
 この学園に来た当時は、男同士のそれに驚愕し、引いている様に見えた。だから俺は、啓太に告白する時にかなりの覚悟を決めていたし、最悪絶縁される事も考えていた。それでも断ち切れない思いがあったからこそ、奇跡の様に今の状況を手に入れたのに。
 …俺は、失ってしまうのだろうか。
 俺のいない一週間の間に、啓太は心変わりしてしまったのだろうか。
 俺と啓太の間には、決して埋められない年齢の差がある。言ってしまえば俺は大人として恋をしていて、啓太は子供として恋をしている。
 子供の恋。
 それは、嘗て俺も経験した事のある、感情的にはかなり希薄なものだ。告白して、それを受け入れれば、二人は晴れて恋人同士になる。それは大人も子供も変わらない。だが、彼らの時間の流れは遅い。そのくせ、感情や行動などは、大人の何倍ものスピードがある。2ヶ月付き合っただけで、長い交際だと言う奴もいる。俺達大人にとっての2ヶ月と、彼らにとっての2ヶ月の時間の感覚の差は、果てしなく遠い。故に、啓太にとっての一週間と、俺にとっての一週間も、また違う感覚なのだろうと思う。そしてこの一週間のうちに啓太が本来の男としての恋に目覚めてしまったとしたら、もう俺には出番が無いという事だ。
 啓太は『夜電話する』と言っていたが、それは何の話なのだろう。
 俺の中の不安は留まる事を知らずに、頭の中を駆け巡っていた。
「…気晴らしにでも行くか」
 生産性の無い事をぐるぐる考えている自分に気がついて、一人、自室で呟いて、俺は制服から外出着に着替える。いつものジーンズに、飛行機の中で編み上げたセーターを着てブルゾンを羽織り、不安を振り切る様に自室を出た。




 町中は既に、クリスマスのイルミネーションは外され、百貨店は正月商戦ムードへと移行していた。たったの一週間で、これだけ町の様子が変わってしまうのは日本の特徴だろう。俺はぼんやりとそんな町の風景を眺めながらゆっくりと歩いていた。何か目的がある訳でもないので、急いで歩く必要は無い。強いて言えば、いつでも俺は啓太に似合う物を探してしまうと言う癖があるくらいだ。それも、当の本人の記念日近くでもない限り、別段必死になって探す必要も無い。そもそも啓太は、誕生日などの記念日以外で俺が何かを送ろうとすると、あまり嬉しそうな顔はしてくれないのだ。
 そんなこんなで一人でウィンドウショッピングなどをしていると、ふと一件のジュエリーショップに、目が行った。…と言うより、中にいた客に目が止まった。それは、見間違える筈も無い人物がそこにいたのだ。
(…啓太?)
 いつも帰省の時に持っているスポーツバックを右肩に掛け、左側にいる女の子としきりに話をしている。
(……誰なんだ?)
 生憎、女の子の容貌は他の客に隠れている状態で、どんな子なのかは俺の位置からは見えない。だが、二人の雰囲気はとても幸せそうで、どう見ても只の友達とは思えない物だった。
 俺はその様子を外から呆然と眺め、先程の電話の様子を思い出していた。
 その子が、そうなのか?
 その子は、俺よりも優先させる様な間柄の女の子なのか?
 いつもその場所にいるのは、俺だった筈だろ?
 周りなど目に入っていない様な啓太の様子を、まるで劇場の舞台を客席から眺める様に俺は見つめた。
 二人は、どこから見ても可笑しくない似合いのカップルに見える。啓太よりも低い身長の彼女は、甘える様に啓太の左腕に自らの腕を絡ませて、嬉しそうに話かけている。その彼女に、啓太もまた優しく微笑んで、答えている様だ。
 やがて、買う物が決まったのか、啓太が店員と話をし始める。
 ふと、彼女が外の俺の視線に気がついたのか、外の様子を伺う様な仕草をした。
 俺はその段になって、暫く止めていた足を動かしてその場を去った。

 その後、どうやって寮の自室まで戻って来たか記憶が曖昧だった。
 見てしまった衝撃的な映像。
 まさか、こんなに早く啓太を手放さなければいけない状況を考えなければならなくなるなど、一週間前の俺には想像も付かなかった。いや、遅い早いの問題ではなくて。いつの間にか俺は、啓太が俺から離れていく事を考えなくなっていたのだ。
 いつでも俺の側で笑っていた啓太。
 俺の仕事が忙しくて、ろくに恋人同士の時間も楽しめない俺達だけど、それでも啓太は俺の隣で笑ってくれていた。
 俺が「愛してる」と囁けば、照れながらも自分もだと返してくれて。
 啓太の広過ぎる交友関係に嫉妬を覚えれば、細かな俺の表情を読み取って「馬鹿だなぁ」と宥めてくれて。
 そんな啓太の俺への愛情は、俺の心の中に、啓太への恋心が安定した状態で住み続ける事に助力してくれていた。
 そんな啓太の思いもよらなかった姿。
 俺に見せた事の無い笑顔を向け、楽しそうに異性との時間を過ごしている様子に、俺がどれだけのショックを受けたのかなんて、俺自身にも計り知れないくらいの物で。
 不安を振り切る為に出かけた先で、決定的な物を見てしまった事は、これから先の覚悟を決めなければいけないと言う神の啓示なのか。
 神様なんて信じてない俺だけど、この時ばかりはそんな事を考えずにはいられなかった。
 幸せと不幸は、人生において同じだけの量だという。
 今までの幸福は、この不幸の為の前振りだったのだろうか。
 暖房も付けずに寒い部屋の中、現在において唯一の啓太との繋がりである携帯電話を眺め続けた。

 『夜電話する』と曖昧な返事をして電話を切った啓太から、その夜電話がかかってくる事は無かった。






 悶々と眠れない夜を過ごした俺は、久しぶりに一人きりの朝食を取りながら、ぼーっと窓の外の常緑樹を眺めていた。それは、「常緑」と言う名前の割には、少し茶色がかった冬の緑で、外の寒さを暖かい食堂に如実に伝えていた。
「よお!朝っぱらからしけた顔してんなぁ」
 朝っぱらから元気のいいその声は、昨日、俺と同じ様に啓太がいなくなった事でつまらなそうにしていた王様だった。
「…お早うございます。王様は朝っぱらから元気ですね」
 いくら少ないと言っても、まだ学生の残っている学内で、敬語無しに上級生と話すのは怪しまれるし、それに普段からの会話を変えるつもりも無い俺は、いつもの通りに挨拶をした。
「啓太がいなくて寂しいんだろ、お前」
 にやにやと面白そうにこちらの様子を観察している王様に、心の中ではムッとしながらも、表面は笑顔で「疲れですよ」なんて返答する。
 彼は何も言わずに俺の前に席を陣取り、「朝から食べるにはどうだよそれ」という様なメニューを大盛りで載せたトレーを、少々乱暴に机に置いた。
「お前、今日はどうするんだ?まだ学園にいるのか?」
 みそ汁を一気飲みした王様は、伺う様にこちらの返答を促す。きっと、啓太の抜けた穴を俺で埋めようという算段だろう。
「いや、今日はもう実家に帰りますよ。たまには顔見せろって親も言ってますしね」
「んだよ。学生がまだ頑張ってるのに、お前はのうのうと実家に帰るってのかよ」
「それは自業自得でしょう。俺はちゃんと年内に終わらせなきゃいけない仕事は終わらせましたからね。王様はギリギリにならないと動かないその癖、どうにかしないと社会に出てから辛いですよ?」
 不貞腐れた顔をした学生達のリーダーに、ちょっとだけ大人の説教なんかをしてみた。俺の言葉に、彼はあからさまに嫌な顔をする。まあ、そう言うもんだよな。俺だって昔はこうだったと思うし。大人の意見を受け入れられない幼い彼に、思わず笑みが溢れた。どんなに優秀でもやっぱり子供だなと、少し安心したのかもしれない。
 王様は「うるせぇ」と一言漏らすと、どんぶり飯を勢い良く口の中に詰め込み始めた。その様子は普段の啓太を彷彿させ、俺はまた鬱々とした気分を思い出して、再び視線を窓の外へと向けた。

 自室に戻り、王様に言った様に実家へと向かう為に荷物の準備を始めた。荷物の準備と言っても、急場の為のノートパソコンと、少々の着替え。それで終わりだ。どうせ家に帰っても、そんなにゆっくり出来るとも思えない。啓太との予定が不透明になった今、毎年何とか逃げ出そうと画策している年始の親族のどんちゃん騒ぎに、覚悟を決めて飛び込むしか無い。…というより、それしか俺に残された逃げ道は無い様な気がする。せめて、「自分にも予定があるのだ」と自分自身に言い聞かせて、この鬱々とした気分を遣り過ごすのが一番なのだと思った。父の兄弟の子供達でも相手にしていれば、少しは気が晴れるかもしれない。一番下の叔父の子供は、まだ可愛い盛りだ。子供が嫌いではない俺にとっては、一番の慰めになってくれるだろう。
 啓太の事を少しでも頭から追い出す様に心がけながら、俺は荷物を詰めた鞄を閉めた。
 ふと、机の上に目が行った。
 そこには、出張先で手に入れた、啓太へのお土産が何処か淋しい様相で、静かに俺を見つめていた。
 …一応、持って行こうか。
 万が一、啓太から連絡があったら渡せるし。
 だが、その連絡が別れを告げる物だったのなら、渡せる物ではない。
 今回、俺は啓太へ特別な物を買って来た。
 それは、俺が勝手に作り上げているかもしれない啓太をイメージさせるもの。
 それを見た瞬間、啓太以外の人物を想像出来ない程の、啓太の瞳の色と同じ色のブルーダイヤモンド。
 ちょと高校生が身に付けるのには早いかもしれないドレッシーな時計にあしらわれている。
 『大人になった時に、付けてる所を見せて』と思って買って来た物。
 暗に、この先も一緒だよという俺の意思表示でもある訳で。
 エンゲージなんて物じゃないけど、それでも少しでも、一緒にいる時間がこれからも続く事を夢見ていたいから。
 けれど、昨日の光景が俺との関係の最後を表す物ならば、啓太には無用の物だ。いや、もっと言ってしまえば、啓太にとって重荷以外の何ものでもない物になる。過去の恋人からの物なんて、今更受け取れる物でもないだろう。
 俺は立ち上がってその包みを手に取り、大きくため息を付いた。
 その時、携帯電話が特定の音楽を奏でた。
 それは啓太専用の着信音。
 普段なら一も二もなく飛びつく所だが、流石に俺は躊躇した。
 もしかしたら、これが最後になるかもしれないと。
 コールが5回を数えた所で、俺は漸く手を延ばした。
「…もしもし」
 心臓は今にも口から飛び出しそうで、声も少し震えていたかもしれない。
 そんな俺の様子に気がつかない様に、啓太は明るくいつも通りの声を聞かせてくれた。
『昨日、電話出来なくてゴメンな』
「いや、いいよ。啓太には啓太の予定があるんだろ?…今はもう、俺に連絡とってもいいのか?」
 手の中にある包みを弄んでいた為なのか。口から出た自分自身でも思いもしなかった不安を露にした言葉に、啓太は更に驚いた声を上げた。
『なっ何言ってんだよ!…昨日電話しなかったのはホント悪かったって。…やっぱり怒ってるのか?』
 怒っている訳ではない。ただ、不安なだけ。いや、不安というのであろうか、この感情は。実際に突きつけられているではないか。あの光景を。それを見留めた後でも、まだ一縷の望みに縋っている俺は、この言葉で啓太に何を言わせたいんだろう。
 もう、自分が分らない。
 啓太の声を聞いてしまった今、更に分らなくなっていた。
『…和希?』
 黙ったままの俺に焦れたのか、啓太は不安そうに俺の名前を呼ぶ。
 けれど、何を言っていいのか俺は分らなかった。
 不用意なことを言って、このまま顔も見ずに別れを切り出されるのが恐かった。
『ホントに夕べは悪かったよぉ。気がついた時にはもう十二時過ぎてて、母さんに怒られながら風呂入ったら眠くなっちゃって…』
「…うん、別に夕べの事はいいよ。俺も疲れてて早く寝ちゃったからさ」
 こんな遠回りをしたって、来るべきときは来るのに。
 それでも、せめて顔を見たいと思うのは、許されない事なのだろうか。
 お互い探る様な会話でも、やはりこの瞬間が最高の至福に感じてしまう。
『あ、なんだ。よかった〜。で、明日の事なんだけど…』
 一瞬途切れた啓太の声に、俺は最悪を予感した。
 それを啓太の声で聞くのに耐えられそうも無くて、俺は先回りしてその後を引き継いだ。
「ダメになったんだろ?」
 我ながらずるいと思う。決定的な言葉を啓太に言わせる為に、素知らぬ振りをするずるい大人。啓太に言わせる事によって、被害者面をしようとしている浅ましい男。
 いつからこんな自分になってしまったんだろう。
 今までの人生の中で、今の俺が一番嫌いだ。
『え?俺の方は別にダメになってないよ?』
 彼女との時間を、俺に裂いてくれるのか?
 それとも、最後の約束位守ろうとしてくれてるのか?
「…いいよ、無理しなくても。折角実家に帰ってるんだから、ゆっくりしろよ」
 俺の知らない、あの女の子と。
 最後の言葉は飲み込んで、物わかりのいい大人を演じる。
『…和希?何?どうかしたのか?』
「どうもしないよ。ただ、啓太にも予定があるだろうから、俺ばっかりに構わなくてもいいよって言ってるだけ」
『なに?ホントに和希が何言ってるのか分んないよ?』
 啓太の声は、俺の返答が返る度に苛ついて来ているのが分る。
 まあ、そうかもな。啓太は昨日の事を俺が知ってるとは思ってもいないんだろうから。
『ああもうっ電話じゃ埒あかない!和希、今から支度して寮出ろ!新宿で合流!』
 怒った声で待ち合わせ場所だけ告げると、一方的に啓太は電話を切った。
 取りあえずはまだ会ってくれるんだな。
 それとも、直接顔を見て言うって事かな。
 啓太はなんて言うんだろう。
 ああ見えて、啓太は結構大人っぽい子だから、笑って「今まで楽しかったな」とか言うのかな。もしくは、子供の理屈で恋人としての関係を無かった事にして、また親友に戻れって言うのかな。そんな事、出来る訳も無いのに。
 それでも、啓太の言う通りにまとめた荷物を手に持って、部屋を出ようとしている俺は、滑稽だろうか。
 滑稽、なんだろうな。
 部屋を出る時、まだ掌に載せていた包みに気がついた。
 どうするべきなんだろう。
 一応、持っていくべきなんだろうか。
 啓太に渡せなかったとしても、俺の手元に残しておくのは辛過ぎるコレは、どうするべきなんだろうか。
 手の中のそれを視線から隔離する様に、無造作に鞄の奥底へと押し込んで、今年最後の、もしかしたら永遠に訪れる事はもう無いかもしれない自室の鍵を閉めた。




 啓太の指定した新宿に到着した俺は、取りあえず普段定宿にしているホテルの一室に荷物を置いた。すると、タイミングよろしく啓太から今日二度目の連絡が入る。きっと、俺が荷物をまとめ、電車で移動する時間を考えてのタイミングだったのだろう。でも荷物は先にまとめていたから、このタイミングになったっていう所か。
 今回は前回と違ってすぐに電話に出た。
「もしもし」
『あ、和希?今どこ?』
「さっき着いて、いつものホテルに荷物置いたとこ。啓太は?」
『俺も今着いてたんだけど…いつものって、あそこ?』
 その声には、明らかに戸惑いの色が交じっていた。
 俺と同じ部屋に居たくないって事かな。しかもホテルの部屋なんて論外なのかな。決して軽い訳じゃない啓太だから、新しい恋人に申し訳無いとか思ってるのかな。
「ああ…啓太が嫌ならコレから啓太の居る所に向かうけど」
 嫌がる事はしない。苦しいけど、それが啓太の選んだ答えなら、俺は受け止めなければいけないから。恋愛は片方が思ってるだけじゃ成立しないなんて事、誰だって知ってる。
『いや、別に嫌って訳じゃないんだけど…高校生が一人でふらふら入って行くのは勇気が居るんだよ、そこは』
 別に、隠さなくてもいいのに。
 でも、俺からそれを言う勇気もない。
 ホントにダメな男だよ、俺は。
「じゃあ、ロビーまで迎えに行こうか?」
『うん!その言葉が欲しかったんだよ〜』
 途端に明るくなった啓太の声に、苦笑を漏らさずにはいられない。
 取りあえずは同じ空間に居る事に対して嫌悪を示さなかった啓太に、複雑な思いになった。
 もしかしたら、最後かもしれないけれど。

 俺がロビーに降りると、丁度啓太がホテルの扉を潜ってくる所だった。
「あ、和希ー!」
 思いっきり手を振る啓太に、周りの視線が集まる。それに気がつかずに、啓太は真っ直ぐ俺の所に走り寄る。その表情は、笑顔に包まれていた。
「早かったな」
「和希こそ」
 一週間ぶりだというのに、いつもと変わらない口調。いかに俺が啓太にとって不必要な人間かを悟ってしまう。
「そこの喫茶でケーキでも食べるか?」
 甘い物に目がない啓太に、何気なく促す。それは、いつも二人で居る時に交わされるいつもの行動パターンだったから。
 けれど、啓太は顔を険しくして「いかない」と視線を逸らせた。
「何で?ここのケーキ、啓太好きだろ?」
「…そんな顔した和希と食っても、美味くない」
 そんな顔って、俺はどんな顔をしているのだろう。自分ではいたって普通に笑っているつもりだった。
 首を傾げた俺を置いて、啓太はすたすたとエレベーターホールに向かって歩き出してしまった。俺は慌ててその後を追いかけた。

 部屋に入ると、啓太は相変わらず険しい顔をして窓際に置かれているリビングセットのソファーへと乱暴に腰を下ろした。
「で?あの電話の意味不明な言葉と、今のその情けない顔の理由を聞かせてもらおうじゃん」
 いきなり喧嘩腰の啓太の言葉に、流石の俺も眉を顰めた。
「一週間ぶりにやっと会えたって言うのに、いきなりその口調は無いんじゃないか?」
 最後かもしれないのに。
 せめていい人を演じて離れようとしている俺を、攻める権利は啓太には無い筈だ。
 最初に心変わりしたのは啓太のくせに。
「一週間ぶりだからだろ!和希は俺に会いたくなかったみたいだな!なんだよっあの言葉は!『俺には俺の都合がある』?俺は和希との約束を訳も言わずに破った事なんて無いだろ。しかも一週間もどっかの大人な恋人が居なくなってた後だぞ?俺だって楽しみにしてたのに…自分の都合でダメになったんなら、そう言えばいいじゃないか!俺だって和希の仕事の邪魔なんかしないよ。それとも、俺には言えない事情でキャンセルなのか?それならそれで、俺の所為にするな!」
 一気に捲し立てる啓太に、俺は大人のプライドを何とか維持して、ゆっくりと口を開く。
「別に、俺の方は予定なんか入ってないよ。ただ、啓太が…」
  『啓太が…』。
 その後、何と言えばいいのか急に分らなくなり、口を閉ざした。
 ここから先を自分で言うのは、自分から別れ話を切り出すのと同じだ。それだけは絶対に出来ないし、したくない。せめて、最後は啓太に言わせたい。
 別に、裏切られたと憤慨するつもりも無い。だけど、この関係を終わりにする理由は啓太にあるのだから。いくら年上とは言え、それくらいの甘えは許されるだろう?まがりなりにも俺達は恋人同士だったんだから…。
「…『俺』が、なんだよ」
 途中で言葉を切ったきり、口を閉ざした俺を、啓太は先を促す。
 俺は、一度大きく息を吐いて、部屋の中にある冷蔵庫に足を向けた。
 ここで、啓太の言う通りに返答する義務は無い。せめて笑って送り出そうとしている事だけでも誉めてもらいたい。それ以外、何が出来るというんだ。啓太は、俺に何をして欲しいというんだ。
 だが、そんな俺の態度は、啓太の怒りを更に追い上げる事になった。
「和希!」
 背中に、啓太の怒号が響く。
 俺はそれを無視して、冷蔵庫の中から一本ビールを取り出して、無言でプルトップを押し上げた。
 部屋の中に『プシュッ』と小気味いい音が響く。
 一口、口に含むと炭酸が舌の上で弾け、独特の苦みが鼻に抜ける。
 その心地よさに気持ちを集中させていると、いつの間にか目の前に立っていた啓太が、俺の手の中から缶を取り上げて睨み上げて来た。
 久しぶりに間近で見た啓太の瞳は、俺に誤摩化す事を許さないとでも言う様に、清潔感を伴う透き通る様なスカイブルーだった。その色に、濁りは無い。
 けれど、俺は見てしまったから。
 啓太の俺への思慕が変わらずにそこに存在していようとも、それを上回る相手を見つけてしまったのだろう君に、どんな言葉をかければいいのだろう。
 脳裏に、昨日の光景が鮮やかに蘇る。
 俺に何も言わずに、『帰省』という言葉で学園を出た啓太。
 その実、会っていたのは俺の知らない女で。
 俺の知らない時間を、俺の知らない女と過ごした。
 あの後、啓太はどんな時間を過ごしたんだ?
 俺に抱かれている時の、幸せそうな笑顔を彼女に見せたのか?
 夜、電話出来なかったのは、本当は実家になんか帰ってなかったからじゃないのか?
 言おうと思えばいくらでも言葉は出てくる。
 けれど、それはどれも俺からは言いたくない言葉。
 我慢比べの様な時間が暫く過ぎて、先に負けたのは啓太の方だった。
「…そんなに昨日、和希の事を出迎えなかったのが癪に障るのか?」
「別に、そんな事ないよ。啓太には啓太の予定があるんだろ?俺だって俺の都合で動いていたんだから、そんな事で一々言わないよ」
 精一杯の虚勢。
 あの光景を見なければ、そんな事でも文句を言っていたかもしれないけれど、今となってはどうでもいい事だった。
 視線を外して答えた俺に、啓太は眉間に皺を寄せながら、俺の顔に手を添える。
「…じゃあ、なにがそんなに不安なんだ?一週間、電話がすれ違った事?それとも昨日、和希に何も言わないで急に実家に帰った事か?」
 啓太の最後の言葉に、俺は努めて平静を保とうと努力したが、そんな努力は啓太には通じなかった。
 少し揺れてしまった視線に、啓太はあきれた様にため息を零す。
「…まったく、とんでもない束縛彼氏だな」
 そうじゃない。
 そりゃあ、束縛はしたい。啓太が俺以外を見るなんて、本当は身の毛が弥立つ程嫌な事だ。けれど、今回の事はそんな事は超越しているだろう?
 何故、言わない?
 それは、俺に対しても彼女に対しても凄く失礼だろう?
 啓太の手の中にある缶に未練を残しつつ、俺は啓太から距離を取った。
 そんな俺の行動を、啓太は自分の言葉に対する肯定と取ったのか。昨日の事を俺に説明し始めた。
「まぁ、和希に言わないで急に帰ったのは悪かったよ。和希の性格、一番知ってるのは俺なのにさ。でも、昨日はどうしても抜けられない家族でのお祝いがあったんだよ。俺だって家族は大事だし、妹の一生に一度のお祝いだったし…」

 ………妹?

 だけど、昨日のあの子は…?
「電話も途中で切っちゃって悪かった。実家までの移動時間とか考えると、かなりギリギリで動いてたから、朋子にせかされちゃって。あ、昨日の寄り道は朋子と待ち合わせしてたからだったんだけどさ。本当は実家の近くでいいやって思ってたんだけど、朋子がどうしても学園の最寄り駅で行きたい店があるからって、あいつ、わざわざあそこまで来たんだよ。しかも、俺のセンスにケチ付けやがって、どうしても自分で見るって聞かなくて…」
 ……………。
「…それじゃ、あの時一緒に店の中に居たのは、朋子ちゃんだったって事か?」
 そんな、お約束な事…。
 啓太が妹と仲が良いのは知っている。だけど、あんまりにもお約束過ぎないか?
 それに、それ、浮気のいい訳の常套手段だぞ?
 啓太はあの子の事は、本気じゃなくて浮気だったって事か?
 それが真実なら、あまりにも不義理な啓太に、俺は眉を顰めた。
「え?昨日和希、俺達の事見たのか?」
 啓太の言葉に、思わず言ってしまった気まずい事実に気がついても、もう遅い。
「……あぁ」
 ここは素直に認めないと、更に気まずい。
「なんだよぉ、見かけたんなら声かけてくれれば良かったのに。ホントは朋子は、和希に選んで欲しかったらしいから。兄貴の俺のセンスはとんでもないんだと。で、最近和希が選んでくれた服着て実家に帰るだろ?それであいつ、和希の事センス良いとか言って、『和希さんも一緒に来て』とか、最初、我がまま言ったんだぞ。でも、和希が何時に帰ってくるかなんて分らなかったから、そこん所は断ったけど。見かけたんなら声かけてくれても良かったじゃん。あいつ、きっと大喜びしたのに」
 啓太が言っている事は本当なんだろうか。いや、啓太が嘘をつくとは思えない。それに、啓太が嘘を付くときは必ず分る。必ずどもったり、視線が泳いだりと、とても分りやすい。
 それじゃ…昨日からの俺の覚悟は、まったく無駄な事だったというのか?
 眠れないくらい考え抜いて、身を引こうと思った俺の考えは、そんなお約束な事に対して、してしまった事だったのか?
 ………俺、馬鹿?
 いや、馬鹿なんて言葉で片付けられるのか?
 いくら啓太の事になると見境無いからって、そんな事が実際に起こっていいのか?
 自分のあまりの情けなさに、思わず視線を中に浮かせてしまう。
「……でもお前、いくら妹だからって、腕組んで歩くか?」
 放心しながら思わず口走った俺に、啓太は一瞬の間を置いて答えた。
「…だって、いつもの事だもん。あいつが俺にべたべたするの」
 ………そうか。
 そういう兄妹がいても、別に可笑しくないのか。
 それなら、コレまでの啓太の言葉も理解出来る。
 俺に怒るのも、別にオカシな事は無い。
 言い淀んで、訳の分らない事を言っていたのは俺だって事なんだから…。
 ……ああ、情けない。
 がっくり首部を足れた俺に、啓太は恐る恐ると言った風に聞いてきた。
「…あの、さ。もしかして…もしかすると…俺が浮気、とかしてるって間違えた?」
 ここまで来たら、もう隠し様が無い。
 俺は素直に「はい」と、良い子の返事をした。
 笑いたければ笑え!
 俺が心の中で自棄になって呟くと、それを受け取ったかの様に啓太は盛大に笑い出した。
 この世で一番の喜劇を見たかの様に、啓太は盛大に床を転げ回って、ついでにひーひー涙を零しながら笑っている。
 ……いや、笑えとは思ったけどさ。
 そこまで以心伝心しなくても………。
 床に置き去りにされている取り上げられた缶を取り戻して、取りあえず啓太が笑い終えるまで待とうと、再度口をつけた。だが、半分を飲み終えても啓太の笑いは止まらない。
 流石に不貞腐れた俺は、ちょっとだけ反論に出る事にした。
「だって俺。朋子ちゃんの後姿なんて知らないよ。それに、何が理由で急に実家に帰ったなんてしらなかったし…」
 不貞腐れた俺の表情がまた啓太のツボを突いたのか。啓太は一旦顔を上げたが、俺を見るなり「ぶっ」と擬音を立てて吹き出した。
「ああもう!そこまで笑う事無いだろ!」
 俺のこの状況は、まさに『逆切れ』というヤツだ。
 分っていても止められる物ではない。
 誰だって、恋人が知らない異性と腕組んで歩いてたら考える事だろう!
 特に俺達の場合、同性で付き合っていると言う後ろめたさがある訳だから、仕方の無い事だ。それなのに啓太は、そんな俺を笑い続ける。
 昨日はハッキリ言って傷ついたのだ。
 それは、俗に言う『嫉妬』という感情だったのだけれど。
 今日、ここに来るのにどれだけの勇気を持って行動したかなんて分らなかっただろう啓太に、何となく反感を覚える。
 それでも、安堵した事には変わりは無くて。
 これからも愛しいこの子を手放さなくても良いと分って嬉しい事には変わりなくて。
 笑い過ぎて呼吸の荒い啓太に、眉をしかめて覆いかぶさった。
「大体、啓太が俺になんにも言わなかったのが悪い」
「ご、ゴメンゴメン。それはホントに悪かったと思ってる。俺もちょっと焦っちゃってたからさ」
「焦った?なんで?おめでたい事だったんだろ?…ていうか、そもそも何のお祝いだった訳?」
「え………」
 俺の質問に、啓太はあからさまに動揺した。
 ………怪しい。
 だけど、これが啓太の言えない事のある時の行動だと改めて実感してしまうあたり、本当に俺って馬鹿だった。
「なあ、何のお祝い?」
 先程とは逆に視線を泳がせる啓太を逃がさない様に、俺は床に二人して倒れ込んでいるこの状況を変えようともせず、啓太の顔を覗き込んだ。
「け・い・た?言ってくれないと俺また勘ぐるよ?」
「いや…言える事と言えない事が俺にもある訳で…」
 何故か頬を染めた啓太に、俺は方眉をあげる。
「啓太の妹のお祝いだったら、俺だって何かしたいよ?ちょうどいい機会だからちゃんと朋子ちゃんの顔も見てみたいし」
 どちらかと言うと本音は後者なのだが、前者も全くの嘘という訳ではない。啓太がどれだけ妹を可愛がっているか分っているから。
「いや!和希に祝ってもらう様な事じゃないから!あくまでも家族で祝うべき物だし…」
 何となく疎外感。
 暗に俺は他人だと啓太に言われているみたいで。
 確かに俺は他人だよ?啓太の家族じゃない。
 でも、俺は啓太の家族になる事を望んでいるし、啓太もそれを分っている筈なのに、『家族』という言葉を今現在で使うのは、ちょっと酷いんじゃないか?
 それに…。
 なんだか啓太の事で知らない事があると言う事実は、面白くない。
 さっき啓太にも言われたが、本当に俺はとんだ束縛男かもしれない。
 だけど、その俺を選んでくれたのは啓太だよ?
 でも………。
 家族だけでの祝いを強調する様な事って、一体なんなんだろう。しかも、頬を染める様な事………。ハッキリ言って想像がつかない。
「…彼氏が出来たとかじゃないよな。まだそんな年じゃなかったよな?」
「馬鹿。彼氏が出来たのを家族で祝うなんて事あるわけないじゃないか」
 確かにそうだ。
 そう言う事はあまり親には言わないだろうし、もし言ったとしても、寄宿している息子を呼び戻してまで祝う事じゃない。
 じゃあ、何で?
 真剣に考えてる俺に、啓太は観念した様にぼそりと答えた。
「………だよ」
「え?なに?」
 その声は小さ過ぎて、至近距離に居るというのによく聞こえなかった。なので、普通に問い返した俺に、啓太は自棄になった様に叫んだ。
「初潮が来たの!朋子に!だから急な家族のお祝いだったの!」
「………あ…」
 そうか。女の子にはそれがあった。
 啓太が頬を染めた理由も、家族を強調した理由も漸く理解した俺は、まずい事を聞いてしまってバツが悪くなって頬を掻く。
 そりゃあ、俺がお祝いしたらまずいよな。
「……にしても、早いんじゃないか?」
 昨日の後姿を見る限り、確かに十一歳にしては体の大きな子だったと思う。だけど、まだ小学生だぞ?
「うちは家系的に早いんだって。母さんも同じ位だったらしいし、母さんの姉妹もにた様な物だったって……ああもう!これ以上言わせるな!」
 啓太はこれ以上無い位真っ赤になって、俺の下から逃げ出した。
「だから、俺がお祝いに何か買ってやるって言ったら、和希が見たって言うジュエリーショップの物が欲しいって言うから、貯金はたいて買ってやったんだよっ。これで納得したっ?」
 尚も首まで赤くして叫ぶ啓太に、俺は申し訳ないやらバツが悪いやらで。でも、それ以上に愛おしくて、背中を見せている啓太に抱きついた。
「………なんだよ。甘えたって和希なんか可愛くない」
「啓太に可愛いなんて思われたくないよ。でも甘えたい。たまには良いだろ?」
「たまにじゃないだろ。まったく、浮気なんてとんでもない嫌疑かけられた上にこんな恥ずかしい事まで言わせて……」
 確かに。啓太には踏んだり蹴ったりだなと、俺は腕の力を込める事で詫びの気持ちを表した。そんな俺の行動に、啓太はふっと息を吐いて小さく「でも許す」と言ってくれた。
 そんな啓太が本当に愛おしくて。
 こんな、自分が分らなくなる様な恋愛は初めてで。
 そっと啓太を仰け反らせて、その唇を奪った。
「んっ………」
 小さく甘えた声を出した啓太は、一旦俺の腕を解いて俺の正面に向き直る。
「一週間ぶりのキスが背後からって言うのはどうだよ」
 目元を赤く染めて、暗にその先を促す啓太に、俺は生涯の敗北を感じた。
 もう、本当に敵わない。
 大人の余裕なんて、到底維持していられない。
 今度は視線を合わせて、再び唇を合わせ、激しく口内を犯す様に舌を絡めた。
 啓太の足から力が抜けて、俺のセーターを掴む細い手が震え出した頃あいを見計らって、啓太をベッドへと運ぶ。
 ギシッとスプリングが鳴り、その音を合図に唇を離すと、啓太が潤んだ瞳で抗議する。
「……ちょっと展開早くない?」
「早くない早くない。心も体も準備ばっちり」
 既に啓太を欲しがっている下半身を、啓太の太腿に押し付けて、今日初めて余裕の笑顔を作った。
「早いよっ。俺はもうちょっといちゃいちゃしてたい」
「そんなの、後からいくらでも出来るだろ?それに最終的には啓太だってこうしたいだろ?」
「それは…そうだけどさ。情緒が無いよ」
 啓太の口から出るには、あまりにも不似合いなその言葉に、俺は思わず吹き出した。
「なんだよっ。笑う事無いじゃないかっ」
「だって………啓太から『情緒』なんて言葉が出るとは…思わなかった」
 ぷうっと膨れた啓太に、俺は何とか笑いをかみ殺して、そっと赤い頬を撫でた。
「じゃあ、いちゃいちゃついでにエッチって言うのはどう?」
「言ってる意味、わかんない」
「じゃあ、分る様にしてあげるよ」
 尚も膨れている啓太の頬に、ちゅっと軽くキスをする。そして瞼にも唇を落とし、前髪を掻き揚げて額にも唇を落とす。そのまま髪の毛の生え際を伝って耳の裏に至まで、丹念にキスを繰り替えした。
 啓太が唇の動きを追っている間に、片足を啓太の足の間に滑り込ませて、太腿をすりあわせる。
 核心には触れない様に。
 そのじれったい動きに、暫く肌を合わせてなかった啓太が、どう言う反応を示すかなんて、勿論分っている。
 ちゅっちゅと顔中に唇を落としていると、啓太は恥ずかしそうに俺の顔を両手で自分の顔から引きはがした。
「そ、そんなにしなくてもいいっ」
 真っ赤な顔で俺の唇を両手で押さえ、もじもじとシーツを蹴っている。
「だって、いちゃいちゃしたかったんだろ?」
「…和希がすると、やらしい」
 直接セックスに結びつかない愛撫に、先に根をあげたのは当然啓太で。
「俺がやらしいんじゃなくて、啓太がやらしいんだろ?俺は、啓太の希望通り、いちゃいちゃしてただけだよ」
 しれっと笑顔で答えると、啓太は赤く染まった目元で上目遣いに軽く睨んできた。
 もう、ホントに可愛いったらない。
「い、いちゃいちゃって、こういうんじゃなくてっ」
「じゃあ、どう言うのが啓太のいちゃいちゃ?」
「えっと、もっとお話ししたり…キスしたり…」
「だからキス、いっぱいしてるだろ?それに、啓太がちゃんとしゃべれる様に、唇にはキスしてないよ。しゃべらないのは啓太だろ」
「そうじゃなくってっ」
 しどろもどろに反論を試みている啓太を他所に、俺がキスを再開させると、啓太の口から甘い吐息が溢れる。
 待ちに待ったその反応に、俺は最後の仕上げとばかりに、啓太の性感帯の一つの耳に吐息まじりに囁いた。
「ほら、この一週間どうしてたか、俺に教えて?」
「あ………」
 肩を震わせて小さく喘いだ啓太は、我慢の限界とばかりに啓太自ら唇を合わせてきた。
「お話は……後でいい」
「いいの?」
 恥ずかしそうに俯く啓太の顔を覗き込んで、分りきった問いかけをする。
「もう……ばかっ」
 可愛らしい悪態と共に絡み付いてきた腕に、俺は小さく笑って、久しぶりのその魅惑の果実に手をのばした………。





 会えなかった時間を取り戻すかのように、激しくお互いをむさぼり合った後、柔らかい毛布の中で啓太を抱きしめながら、その愛しい髪を優しく梳いていた。
 ふと、自分の持ってきた鞄が目に入る。そこで啓太に渡すべき物を思い出した。
「あ、そうだ。俺、啓太に渡す物あった」
「なに?」
 俺の腕の中で、熱い体を冷ましていた啓太は、気怠い声で返事をする。
「出張のおみやげ」
 一言で完結させて、何でもない風を装う。
 啓太を抱きしめていた腕を外して、出がけに悲壮な思いで鞄の奥底へと突っ込んだ包みを、啓太に見せる。
「………これ、なに?」
 一見では分らないだろう小振りな箱に、啓太は興味津々といった感じで覗き込んだ。
「開けてみろよ」
 啓太は俺の手からその箱を受け取り、俺の言う通りに白い略正方形なその箱を開けた。中にはいかにも宝飾のケースと分る、グレーのベルベットの箱。
「………なんか、嫌な予感がするんだけど」
「嫌な予感はひどいなぁ」
 眉を寄せて、ちらりと俺を見上げながら、啓太はそっと蓋を持ち上げる。
 中身を見た啓太は、大きな目を一瞬更に大きくして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「………こんなの、どうしたの?」
 ブルーダイヤモンドをあしらった文字盤と、プラチナのベルトの時計を、啓太は困惑の表情で見つめる。
「俺の愛の証。今回は折角ロンドンに出張だったから、ちょっと見て回ったんだ。そしたらそれがあってさ。啓太の瞳と同じ色だなって思ったら買ってた」
「買ってたって…そんな簡単に…」
 手の上にある時計から視線をあげて、俺をちょっと睨んでくる啓太は、本当に魅力的で、一般的に見たら高価なそのダイヤすら霞んで見える。
「たまにはいいだろ?俺がそれを啓太に送りたい気分になったんだから」
「よくないよっ!こんな…高そうなの、俺、貰えない!」
「そんなに高くないよ」
 ダイヤモンドの価値としては中くらいのそれに、俺は何気なく答えた。
「和希の『そんなに高くない』は信用ならない」
「そんな事ないよ。俺の母が身につけてる物の十分の一もしないよ」
「そんなセレブの世界と比べられても困るっ!とにかく、これは受け取れない!」
 強固に俺に返そうとする啓太に、ちょっと淋しさを感じてしまう。
「それに、こんなデザイン、高校生で身につけても可笑しいだろ」
「それは分ってるよ。だから、大人になったら身につけてよ」
「………え?」
 にっこり笑って、ケースの中から時計を取り上げて、俺は啓太の腕に強引に巻き付けた。
「これが似合う様な大人になってって言ってるんだよ。それで、その姿を俺に見せてって事なの」
「………それって、俺が和希から離れる事の予防って事?」
 啓太のいう所の『情緒』のかけらも無いその直球な言葉に、俺は苦笑した。
 こういう所がまだまだ子供だなって思う。
 それがまた、余計に愛おしい。
「ほら、俺って束縛男だからさ。何重にも保険かけとかないと安心出来ないんだよ。だから、啓太は俺に安心をちょうだい?」
 腕に光る真新しいその時計に、啓太はちょっと困った顔をして、大きなため息をついた。
「こんなの無くても、離れる予定なんかないのに」
「予定は未定って言うだろ?」
 口で啓太に負ける筈の無い俺に、啓太は諦めた声で「ありがと」と、短く了承してくれた。
 啓太の健康的な肌に光るプラチナは、まだまだオモチャみたいに見えるけど、それがとても可愛く見える。
 いつか、啓太がこれを当たり前の様に身に付けられる様になった頃、俺達はどうなっているのかな。
 出来れば一緒に住んでいたい。
 同じ道は強要出来ないけれど、このダイヤに負けない位の輝きを、啓太が身につけてくれている事を願う。
 そして、その輝きを引き出すのが自分だったらもっと嬉しい。
 でも、綺麗になった啓太に、俺はまたヤキモキして、今回みたいに些細な事で嫉妬するんだろうな。それは、恋には付き物だから仕方が無い。
 啓太は、自分の腕に巻き付いている時計を、角度を変えながらうっとりと見つめている。
「ホントにこれ、綺麗だね」
「啓太の瞳と同じだろ?色合いも、光具合も。どんなに成長しても、これだけは変わらずにいれくれよ?」
「和希はもうちょっと変わってくれ。不安になる度にこんなの贈られたら、俺が安心して家に住めない」
「は?」
 啓太の言葉を理解出来ずに、思わず間抜けな声を出してしまった。
「泥棒とかに入られそうだから恐いんだよ!ああもう、今度のお年玉で金庫買おう。ホントはPSP買おうと思ってたのに…」
 ぶつぶつ言いながらも嬉しそうな啓太の顔に、俺は心が温かくなった。
 なんだかんだ言って、ちゃんと俺の心は啓太に届いている。
「…なあ、啓太。もし俺が、啓太の知らない女と腕組んで歩いてたら、啓太もやっぱり嫉妬する?浮気だと思う?」
 試す様なこんな言葉に、意味なんて皆無だけど。
 だけど、何となく知りたくなった。
 俺の言葉に、啓太はすっと眉を寄せる。
 そして、思いもしなかった言葉を吐いた。
「……そんなに言うんなら言うけどさ。この間和希、お見合い話来てただろ。あれ、めちゃくちゃ頭に来た。しかもお見合い写真には美人が写ってるし、和希はお見合いの事言わないしさ。その場に居た石塚さんがフォロー入れてくれてなかったら、今頃理事長室のガラスは全部割れてたね」
「ああ、お見合いなんてする気もなかったから言わなかったんだけど…ガラスが割れるって?」
 啓太の言葉は、時々主語が抜けて意味がわからない。
 お見合い話とガラスとの因果関係は、どこにあるんだ?
「そりゃあ、俺が大暴れするからに決まってるじゃん。あ、でもホントに石塚さんの御陰で最低限ですんだから」
「最低限って…何した?」
 俺は恐る恐る尋ねた。
 目に見える範囲では、別に破壊活動された形跡はなかった気がするんだけど…。
「お見合い写真、思いっきり土足で踏みにじらせて頂きました」
 …………。
 いつの間にか無くなってたんだな、あの写真。
 気がつかなかった…。
 でも、ちょっと啓太の足跡付きの写真を見てみたかった気がする。
「それは、石塚に感謝しないとな。石塚が居なかったら、俺は寒い部屋で仕事しなきゃいけないハメになってた訳だ」
 声にどうしても笑いが交じる。
 大暴れって、それはあんまりだろう。
 啓太が居る限り、俺が結婚なんて考える訳ないのに。
 くすくす笑っていると、啓太に軽く腕をつねられた。
「和希、人の事笑える立場か?」
 そりゃ、ごもっとも。
 それでも沸き上がってくる笑いは、可笑しいからじゃなくて嬉しいから。
 そして啓太の気持ちも、この言葉で分った気がする。


 子供だからとか、大人だからとか。本当の恋にはそんなの関係がないのかもな。
 些細な事で嫉妬して、喧嘩して。年齢の差を超えて、本当に愛し合ってる。
 嫉妬なんて感情、本当は持ちたくないけれど。
 腹の底が煮えくり返る様な、それでいて頭からは全ての血が落ちて行く様な感覚。そして、なにより病気になったのではないかと思う程、胸が締め付けられる、そんなドロドロした物をお互いに抱えてる。
 でもそれは、仕方の無い事。
 俺達は今、本当の恋をしているんだから。

 

 

 

END




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