勤務2ヶ月目に入った所で、和希は急に忙しくなった。
相変わらず毎日家には帰ってくるんだけど、殆ど夕食を食べなくなった。
帰宅は大体深夜1時くらい。
帰って来て軽く夜食を食べて、それからまた書斎に入って仕事をしている。
学校も2日顔を出していない。
それでも朝は俺達と同じ時間に起きて、一緒に朝食を食べている。
よく体が保つなって思う。
これだけよくしてもらっているから、何とか俺も和希の手助けが出来ないかって考えるんだけど、当然仕事の事なんか手を出せる筈もない。
だからせめて俺はちゃんと「お帰りなさい」を言って、夜食を出してあげるんだ。そして和希の書斎には、和希が好きな赤いバラの花を飾ってあげている。ちょっとでも目で楽しめる様にって思ったんだけど、感想は貰ってない。気が付かないなら気が付かないでいいけどね。今日は花屋さんで百合を進められたからヤマユリにしてみた。
でもこう連日だと俺の方が保たなくなって来た。
今日も和希は遅くて、朋子は先に寝かせた。
昨日、和希は待っていた俺に「先に寝てていいから」って言ってくれたけど、それじゃ何の為に俺がいるのかわからない。
普通に身の回りの世話はしたいと思う。
だけど、どうしても眠い。
ちょっとだけのつもりでソファに横になったら、もう金縛りみたいに体が動かなくなった。
暫くして、玄関から鍵の開く音がする。
和希が帰って来たんだ。
起き上がって「お帰りなさい」って出迎えなきゃ。
そう思ってるのに、体が動かない。
リビングの扉が開く音がして、足音が近付いて来た。
「……まったく。だから待ってなくていいって言ってるのに」
和希が呆れてる。
働かせてもらってるのに、こんな所で寝ちゃってるなんて、やっぱりダメだよな。
何とか瞼を上げようと必至になったけど、まるで接着剤でくっつけられたみたいに開かない。
一人で頑張っていたら、何か柔らかいものが唇に触れた。
………何?
ちゅっと軽い音がして、その柔らかいものは離れた。
途端に唇に冷気を感じる。
その後、柔らかく髪を撫でられる感触がした。
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ。俺は啓太の事…で、守りたいんだから」
髪の毛を撫でられるのが気持ちよくて、和希が何を言っているのかがわからなかった。
ふわりと体が浮く感覚がして、俺は引きずり込まれる様に意識を手放した。
目を開けると、自分の部屋だった。
しかも、ちゃんとパジャマを着ている。
「……リビングまでしか、記憶がない」
和希が帰って来たのは何となく覚えてるけど、自分で部屋に入って着替えて布団に入った記憶は皆無だ。
それと…。
あの唇に触れたものは何だったんだろう。
あれは現実?それとも夢?
酷く曖昧な感覚で、しかも何が触れたのかもわからない。
指で自分の唇をなぞってみるけど、全然あの時の感じとは違う。
暫く考えていたけど、窓から差し込む光がやけに明るいのに気が付いて、ハッと時計を見た。
「やばっ!学校すら遅刻しそうじゃん!」
慌てて着替えてリビングに駆け込むと、そこには朋子が笑って立っていた。
「もう和希さんは行っちゃったよ。今日も学校は行けなくて、仕事先から帰る時間は連絡くれるって」
うわーっ、やっちゃった。
「朝ご飯はちゃんとあたしが出したし、問題無いよ」
「…ごめん。有り難う」
初めての寝坊に、ちょっとばかりショックを受けた。
前はよく朝起きられなかったんだけど、ここに来てからちゃんと起きられる様になってたって言うのに…。
「いいよ。お兄ちゃん毎晩遅くまで起きてたんだから。和希さんも「寝かせておいてあげて」って言ってたし」
和希…。
その名前に、昨日の言葉が蘇って来た。
『待ってなくていいって言ってるのに』
『そんなに頑張らなくてもいいんだよ』
夢現で、そんな事を言ってくれた。
そして…。
『俺は啓太の事…で、守りたいんだから』
何で守りたいって言ってくれたんだろう。
っていうか、守りたいってなんだよ。
そりゃ、俺は頼りないけどさ。
仕事だって言うのに、こんな寝坊とかしてる奴だしさ。
それでも男としての沽券が、守られるって立場は許さない。
ちゃんと雇ってもらってるんだから、それなりの働きはしたいと思ってるのに。
黙って考え込んでいたら、朋子が俺の顔を覗き込んで来た。
「そんなに落ち込まなくたっていいじゃん。普通の会社員だって寝坊して遅刻する事だってあるよ。お父さんもあったじゃん」
まあ、確かに。
「それに、そんなに固まってる暇無いと思うよ?あたしそろそろ学校行くから」
…うわっ!そうだった!
「お兄ちゃんの分のご飯はそこにあるからね。行ってきまーす」
「…いってらっしゃい」
なんだか兄の威厳は俺には遠い存在らしい。
用意してもらっていた朝食をかき込んで、俺も慌てて家を出る支度をする。
リビングにはヤマユリの香りが漂っていた。
3日後の昼頃、和希から『今日は早く帰れる。忙しいのは今日で終了』ってメールが入った。
久しぶりの3人の食事だって考えながら、俺は授業が終わってから最近の通例で速攻帰って、家の中を整える。最近は朝を朋子に任せちゃってるから夜は俺が作ろうと、和希が帰ってくる2時間前から台所に立った。
「…お兄ちゃん、悪い事言わないから、あたしに任せた方がいいよ?」
「だって最近は朝、俺なんにもしてないもん。俺の仕事なんだから、トモは気にしなくていいの」
「いや、そう言う理由じゃ…」
何が言いたいのかはよーっくわかってるけど、それでも意地だ。
本を片手に、俺は味見をしつつ夕食を作った。
和希は7時に帰って来た。
そして3人で何時もの様にご飯を食べたんだけど…。
「…今日、啓太が作った?」
一口目で、和希は何かを考えながら聞いてきた。
「うん。よくわかったな」
朋子は隣で静かに箸を置く。
「…今、あっためてくるからちょっと待ってて」
一言そう言いおいて、朋子はキッチンに消えて行った。
…なんだ?
なんか変?
っていうか、朋子は何を温めるんだ?
暫くするとキッチンからいい匂いが立ち籠めて、朋子がお盆に乗せておかずを運んで来た。
しかも、昨日の残り物とかじゃない。
2品あるそれを、それぞれの前に静かに置いて、何事もなかったかの様に朋子は食事を再開した。
俺は恐る恐る新しい皿に箸をつける。
…そこで、自分が作ったものがいかに不味いかを知る事になった。
料理してる最中はなんにも思わなかったけど…確かに酷い。
和希も何も言わずに、朋子が差し出した皿に箸をつけている。
「…トモ、いつ作ってたの?」
「お兄ちゃんが帰って来る前」
「でも今日、6時間ある日だったろ?」
「もう慣れたよ。ご飯くらい1時間もあれば作れる」
俺は倍かかったよ…。
妹の有能さに感謝していると、和希はぶっと吹き出した。
「…なんだよ。笑うな」
「いや…朋子ちゃんが一緒に来てくれて良かったなと思って…」
そりゃ悪うございましたね。
俺一人じゃ今頃クビですかね?
でも、何で味がわからなかったんだろう。
ちゃんと途中までは普通に食べられると思ったのに。
「これは、朋子ちゃんも雇った方がいいな、俺」
和希は笑いながらそう朋子の事を誉めてくれた。
「あたしはまだ働いちゃいけない年です。それにご飯くらいお金貰わなくていい」
「働いたらいけないって事はないよ?でもまあ…な?」
訳のわからない相槌を和希は俺に求める。
「…なんだよ。雇用は和希が決めればいいだろ?」
俺は拗ねたね。
どうせ俺に出来るのは、掃除と洗濯くらいだよ。
頬を膨らませてると、朋子も笑い出した。
「ほら、お兄ちゃんが拗ねちゃった。大体今まで殆ど料理しなかったんだから、出来なくても当然だとあたしは思うんだけどね」
「トモだって別にご飯なんか、母さんがいた時には作ってなかったじゃないか」
「あたしはちゃんとお手伝いしてたもん」
言われてみると、確かに一緒に台所に立っていた様な気がする…。
「それに、お菓子作るの好きだから」
そうなんだよなぁ。朋子の作るお菓子は美味しい。この間の日曜日にもクッキー焼いてて、それはもう美味しく頂きました。
「朋子ちゃんはよく出来た妹だね」
「可愛い兄を持つと、自然とこうなるんです」
…可愛い?
俺ってそう見えてたのか?
朋子の言葉に和希は大きく頷いて同意した。
「気苦労が耐えないねぇ」
「…お互い様だね、和希さん」
……なんだよ、この二人。
なんか俺だけ阻害されてる。
しかも意味ありげな視線で会話してるぞ。
でも今とても立場の弱い俺は口を挟む事も出来ずに、黙々と朋子のご飯を食べ続けた。
そんな経緯があったからか、朋子は家からあまり出なかった。
新しい友達の話も聞くのに、全然遊びに出かけないんだ。
ちょっと心配になって、俺は聞いてみる事にした。
「トモ、友達に誘われないの?」
「…何が?」
和希が風呂に入っている間、リビングで二人でテレビを見ていた時に話し出したから、朋子は不思議そうな顔をした。
「だってお前、全然友達と遊びに行かないじゃないか」
「お兄ちゃんだって行かないじゃん」
「俺はいいの。金貰ってここで働いてるんだから。友達もみんな事情知ってるし。でもトモは違うだろ?」
「あたしだって似た様なものだよ。お兄ちゃん一人じゃ、ご飯どうするのよ」
「そんなの何とでもなるよ。それに和希だっていらない時あるんだし、出かけてもいいんだよ?」
ちゃんとお小遣いだって渡してる。
世間の親がいる家庭となるべく変わらない生活をさせてやりたいから、父さんと母さんが決めたお小遣いと同じ額を渡してるんだ。
最初朋子は「いらない」って言ったけど、仕事もしてもらってると理由を付けて渡してる。
普通に育って欲しいから…。
「まあ誘われはするけど、最近は泊まりが多いんだよね。何処かにみんなで遊びに行くって言うより、誰かの家に泊まりで行ってって感じだから、やっぱり行く気になれない」
「だから、行けばいいじゃないか。友達付き合いだって大切だよ?」
「わかってるけどさぁ…」
言葉を濁す妹に、何とか説得しようと身を乗り出した。
「ご飯とか、トモが心配する事じゃないよ?…まあ、俺のご飯はまずいけど、それでも俺の仕事なんだから」
「そうそう。不味くても食べらればいいから、朋子ちゃんはちゃんと友達付き合いした方がいいよ?」
不意に、背後から声が響いた。
和希は髪の毛を拭きながら、俺達に近付いてくる。
「俺は二人を縛りたくはないね。啓太だって有休あるんだから、出来ない日は『出来ない』って言ってもいいんだし。只でさえ24時間勤務なんだから、あんまり深く考えてると保たないよ」
実質労働時間は8時間あるかないかだけど、やっぱり家に居るってなると気分的に区切りがわからないんだ。和希はそれを考えて何時も24時間勤務って言ってくれる。
でも、実際には『働いてる』っていう感覚があんまり無いんだけどね。
生活費は月額決まっていて俺の給料から天引きされてるし、なんか実家に居た時と生活感はあんまり変わらない。ただ家事をする様になったってだけだ。
和希の言葉に、朋子はふっと視線を逸らせてぽつりと呟いた。
「…まあ、あたしがいない方が都合がいいのかな?」
都合って…なんだ?
俺が考えてると、和希は慌てた様に付け足した。
「いやっ!そんな事はないケド!っていうか、逆にいないと危ないかもしれないけどっ…!」
なんか、この間から俺には通じない二人の会話が多い。
「あ、それが心配なら、友達をここに呼んでもいいよ!? ここは朋子ちゃんの家でもあるんだからねっ!?」
和希も雇い主の威厳って言葉からは程遠いな。
多分俺達の中で、一番強いのは朋子だ。
…俺が最弱だけどね。
「じゃあお言葉に甘えて、今週末行ってもいいかな?土曜日からカナちゃん家でお泊まり会しようって誘われてるんだ」
「「うん!行っておいで!」」
俺は普通に嬉しくて声がでかくなったけど、和希は何ででかくなったんだ?
俺達は息をあわせた様に同じタイミングと同じ言葉で朋子の背中を押した。
その週の土曜日。朋子はなんだかんだと嬉しそうに友達の家に遊びに行った。
やっぱりずっと行きたかったんだろうな。我慢しなくて良かったのに。
…っていうか、俺が頼りなかったんだろうな。
ちょっと反省しつつ、洗濯物を取り込んでいたら和希から連絡が入った。
珍しくメールじゃなくて、通話だった。
「はい」
『あ、俺。今日はもうこれから帰るんだけど、朋子ちゃんどうした?』
なんだ。朋子が心配だったんだ。
ホントにいい奴だよな。人の妹まで心配してくれるなんて。
ここに居られたら朋子も普通の女の子に育つのかもしれない。
流石は教育者様。いや、クラスメイトでもあるけどね。
実際に働いてる所を見た事がない所為か、どちらかと言うとクラスメイトの印象の方が強い。
「朋子ならちゃんと出かけたよ。他所のお宅に行くからって、パウンドケーキ焼いて持ってった」
『おー、流石にしっかりしてるな。ところで今夜、外で食べない?』
「………」
それは暗に、俺のメシは食べたくないと言ってるのか?
ええ、ええ。俺のメシは不味いですとも。
黙った俺に、和希はまた慌てて付け足してくれた。
『いやっ!啓太のご飯がどうのじゃなくて!今日は俺、食べたい店があるんだよ!』
その慌てぶりが、俺のメシは食いたくないと白状している様なものなんですけどね?
まあ、いいか。
「なら和希、食べておいでよ。俺は適当に済ませるからさ」
別に困窮している訳じゃないけど、外食する様な余裕はないな。
それに、どうせなら朋子も連れて行ってやりたいし。
なんか俺一人で行くのは気が引ける。
『いいじゃん、一緒に行ってくれても。俺は啓太と食べたいんだよ』
「うーん…」
でもなぁ。
どうしても気が引ける。
『それに、啓太はもっと味を勉強しなくちゃね』
…その一言は痛い。
でも俺の場合、味云々以前の問題だと思うんだけど…。
それでもここまで言われたら、取りあえず頷くしかない訳で。
「…うん。わかった。行こう」
『それじゃ、後30分くらいで帰るから、着替えておいて』
「了解」
通話を終わらせて、俺は急いで残りの家事を片付けて、久しぶりに外出用の普段着に袖を通した。
電話から1時間後の今、俺は車の中に居たりする。
しかも、和希が運転してる車。
…いや、別にいいんだけどね。やっぱりこう、違和感がある。
チラリと隣を見ると、鼻歌でも歌いそうな勢いで、上機嫌で運転しているクラスメイト。
クラスメイトなんだってば。
溜め息をついてシートに深く体を沈めると、和希が声をかけて来た。
「どうした?なんかあった?」
なんかあった?って…ありましたとも。
「ちょっと違和感感じてるだけだから、気にしなくていい」
「違和感?」
「だって、クラスメイトが車運転してるんだぞ?違和感感じるだろ」
「ああ、そっか」
和希は更に楽しそうにけらけらと笑った。
和希から見たら笑い事だろうけどね。なんかこう、差を見せつけられてるって感じ。もともと俺は和希に雇われてるんだけど、家の中じゃそんな事全然感じさせないでいてくれるからピンと来てなかった。
…コイツが俺とは違うって事。
俺なんか足下にも及ばない程、大人だって事。
何となく面白くなくて、その後は黙って窓の外を見ていた。
車が目的地に着くと、更に面白くない出来事が待っていた。
「………ちょっと」
「なに?」
「ここに入るのか?」
「うん」
そこはちょっと洒落た感じの一件の料理屋だった。
そう、料理屋。
ファミレスじゃないんだ。
店の前の看板を見ると、スペイン料理とか書いてある。
「……俺、帰る」
店の前にメニューがちょこっと置いてあるけど、そこに書いてある金額は、とてもじゃないけど高校生には出せないもので。
しかも、親なしで働いてる俺が、どうやったらそんな額を食べ物に出せるって言うんだ!
「まあまあ、そんな事言わないで。たまにはお兄さんに甘えてみようよ」
「だーれがお兄さんだ!」
そりゃまあ、実際にはお兄さんだろう。何と言っても車が運転出来る年なんだから。
でも、今までそんな素振り見せてこなかったじゃないか。
家の中でも学校でも、今までと変わらない態度で一緒にいてくれたくせに!
「ほら、もう二人で予約しちゃってるし、入ろ?」
ぶすくれる俺の背中を優しく抱いて、和希は店の中に俺を強引に連れ込んだ。
腕の感触と行動が伴わない奴だよ、まったく。
店の中に入ると、すかさず店員が寄って来て席に案内してくれた。
こんな店、俺が高校に合格した時に父さんが奮発して連れて来てくれた時以外、入った事ない。
あの時はイタリア料理だったな。会社の近くにある、接待にも使う店だって言ってた。イタリア料理って言ったらピザとスパゲティくらいしか想像してなかったんだけど、出て来た料理は何かがまぶしてあるお肉とか、貝殻付きの貝とか、どれもすごく美味しくて俺ははしゃいだ。家族4人で楽しくしゃべって、食べて、父さんはお酒飲んでて、母さんはデザートに夢中で…。
白いテーブルクロスを見ていたら、後頭部が重くなって来た。
あの時は今こんな事になるなんて夢にも思わなかったな。
「…啓太?」
心配そうな和希の声が聞こえて、俺はハッと顔を上げた。
「やっぱりココ、嫌か?」
「うっ、ううん。そんな事ない」
慌てて首を振って否定して、差し出されたメニューを広げた。
でも書いてあるメニューは理解不能なものばかりで、俺は早々に冊子を閉じる。
「俺、どれがどんな料理かわかんない」
俺の言葉に和希は「じゃあ、俺が適当に頼んでいい?」って聞いてきて、俺の頷きを確認してから色々注文してくれた。
出て来た料理はどれも美味しかったけど、なんだか食欲が湧かなくて俺は途中でフォークとナイフを置いた。
「あんまり美味しくない?」
「ううん、美味しい。だけどなんか食欲湧かなくて」
正直に言ったら、和希はちょっと困った顔で笑った。
変かな?…変だよな。俺、食欲の権化みたいなヤツだったし、食べ物残すなんて有り得ないよな。でも本当になんだか食べたくない。
「甘いものだったら入る?」
「…いらない」
ケーキとかアイスとか想像してみたけど、やっぱり俺の食欲を刺激してはくれなかった。
なんだか間が持たなくて水に手を伸ばしたら、和希もナプキンを机の上に置いて「出ようか」って言った。
「いいよ、和希は食べてて」
「いいんだよ。俺も結構お腹いっぱいになったから」
嘘つけ。まだメインを半分も食べてないじゃないか。
それでもお店に居ること自体が辛く感じて来た俺は、その嘘にだまされたフリをして店を出てもらった。
車に乗っても俺は話をする気分になれなかった。
悪い事したなぁって思ってるんだけど、なんだか口が開かない。
見るともなしに窓の外を眺めてたら、見覚えのない景色が広がった。
家に帰る道とは違うみたい。
何処かに行くのかな?
俺は早く家に帰りたいんだけどな。
まだお風呂掃除してないし。
今日はシンクも磨いてないし。
取り込んだ洗濯物も、たたんでないし。
やる事は山の様にある。
和希が車を止めたのは、それから一時間も車を走らせた後だった。
「…ここ、どこ?」
「港の見える丘公園」
って、横浜じゃん。
家から随分遠いなって思ってたら、そんなに遠くまで来てたんだ。
でもすごく綺麗だ。
停泊している船の明かりとか、海沿いの店の明かりとかがキラキラ光ってる。
あんまり夜景って見た事なかったから、ちょっと感動した。
二人で車を降りて、人気のない遊歩道を歩く。
途中の自販機でジュースを買って、ベンチに腰掛けた。
ベンチのある広場は、週末なのも手伝ってかカップルばっかりだった。
「……俺達、浮いてるね」
「気にするな。…ああ、ほら、あっちにも女同士がいるよ」
「女の子同士は浮かないけど、男同士は浮くよ」
「それは男女差別だ」
和希の真剣な顔にやっと俺は笑えた様な気がする。
だけど次の瞬間、なんだか笑う事が疲れてしまった。
久しぶりに妹がいない所為か、なんだか今までと気持ちが違う。普通の笑い方がわからない。
俺は今朝まで、どうやって笑ってた?
何を楽しいと感じてた?
手にしていたジュースは俺の大好きなイチゴミルクだったけど、それすらも美味しいと感じられなくなっていた。
「…啓太」
和希が、呼んでる。
答えなきゃ。
でもなんて言っていいのかわからない。
普通に「何?」って言えばいいって事すら思い浮かばなかった。
思考まで動かなくなって、俺は慌てた。
だけどやっぱり口は開けない。
「いいんだよ。無理に話さなくても」
優しい声が耳元でして、ふっと体が傾いた。
和希が俺の頭を抱いてくれていた。
三ヶ月も一緒に暮らしてるのに、この時初めて俺は和希の香りに気が付いた。
なんだか、いい匂い。
花の香りがする。
どの花かって言うと…そうだ。昨日和希が買って来てくれたヒヤシンスの香りだ。黄色い花の色が、とても綺麗だった。それは、父さんと母さんの棺の中に入れたものと一緒で…。
「………っう」
花の香りに誘われる様に、目から涙が溢れ出る。
一粒溢れたと思ったら、止まる事を忘れた様に次から次へと溢れて和希のシャツを濡らした。
汚したら悪いって思って自分の袖で拭おうと思うけど、腕まで俺の言う事は聞いてくれなかった。
「っ……ふっ……う……」
鼻が詰まって口で息をし始めたら、うめく様な声が漏れてしまって恥ずかしい。
恥ずかしさも手伝って、俺の涙はますます止まらなくなった。
「ここには誰も知ってる人はいないよ。だから、泣いても大丈夫だよ」
知ってる人はいないけど、そこそこ人はいる。
泣いてるのがわかったら絶対見られる。
こんな年で外で泣くなんて恥ずかし過ぎるよ。
そう思って唇を食いしばったら、和希は本格的に俺を抱きしめた。
「これで顔は見えないから」
和希の胸に顔を押し付けられて、花の香りが鼻腔に充満する。
もう、止められなかった。
「うっ……ううっ………ひっ…」
何で涙が出るのかよくわからないけど、心が痛い。
痛くて痛くてたまらない。
涙を流す度に、その痛みは酷くなる一方だ。
痛いから、余計に涙が出る。
泣く俺の髪の毛を、和希はあの夜みたいに優しく梳いてくれる。
梳きながら、和希は俺の髪の毛にキスをしているみたいだ。時々暖かい息を頭に感じる。
子供みたいに泣いてるから、そんな事するのかな。
それでも和希のキスはとても気持ちがいい。
子供扱いされてるのはちょっと腹が立つけど、それでもこの気持ちよさには代えられない。
キスは、俺が泣き止むまで続けられた。
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