8月の長い夜シリーズ

そして 8月の長い夜


2004.10.3UP




 プルルルルル……
 プルルルルル……
 プルルルルル……

 ピッ

『はい』
 3回のコールの後、焦がれていた声が機会音となって耳に響く。
「啓太?俺」
 電話を通した会話。
 夏休みに入って実家に帰省しているだろう啓太に。
 嘗ての『親友』へ。
『わかってるよ。ちゃんとディスプレイに表示されてるよ。和希が登録した『My Dear』でね』
「…まだ、そのままにしててくれたんだ」
 くすくすと楽しそうな、2年の歳月を感じさせない啓太の笑い声が心地よく耳に響く。距離を感じないが如くの返答に、寂しさを感じていたのは自分だけだったのかと思ってしまう。
『…久しぶり』
「ああ、ホントに」
『元気だった?』
「おかげさまでね。啓太は…聞くまでもないかな」
『まあ、俺の場合、それだけが取り柄だからね』
「それだけじゃ、ないだろ?」
『…入学理由は“幸運”?』
「あははっ、こだわるなあ」
 以前と同じ気楽な会話。
 啓太の明るい声も。
 軽いやり取りも。
 だが、流れる雰囲気はやはり何か違っていた。
『…和希、今どこ?』
「気になる?」
 以前の啓太は、あまり俺に質問するって事がなかった。
 こんな些細な事でも、幾度も躊躇して。
 再三促して、やっとの思いで口にするのがいつもの事で。
『気になるだろ』
 2年が啓太にとって、どんな月日だったのか。
「どうして?」
 2年前。お互いを持て余して、堂々巡りになってしまった関係をどうにかしたくて離れることを選んだ。
『…アメリカからだったら、電話代、大変だろ?』
「なんだか所帯染みた言葉だな」
 今、あの頃の事など夢の中の事だったかのように笑いあえるのが、まさに夢のようだ。
『俺だってもう19だからさ。まったくの子供然とはしていられないの』
「…そっか。そうだよな」
『和希と違って、普通の金銭感覚だしね』
「俺、そんなに変わった金銭感覚してるか?」
『自覚がないのが恐ろしい』
 電話の向こうで啓太は楽しそうに笑っている。
 最後に見た、涙を流して震えていた啓太とはとても思えない。
「…帰ってきてるよ。日本に居る」
『…そっか』
 啓太の返答は、きっとこの後の展開を予想してのそっけないもの。
『で、日本の何処?』
「…何処にいるか判ったら、啓太はどうする?」
 沈黙。
 まだ迷ってるのか?
 いや、決まっている事を伝えられないのか?
『…どうするかは、教えてくれたら言うよ』
「駆け引きがうまくなったな」
『そんな事ないよ。ただ年相応になっただけだろ?』
「そうだよなぁ。来年成人だもんな」
『…その言い方、オヤジくさいぞ』
「…そんな嫌な事言う啓太には、今何処にいるか教えない」
 また、笑い合う。
 穏やかな雰囲気が心地いい。
 いつまでもそれに浸っていられない事はわかっているけど。
『…で、何処?』
「そうだな…とりあえず関東には居るな」
 少しでも引き伸ばしたくて、そんな遠まわしな言い方をしてみる。
『…関東の何処だよ』
「うーん…俺の実家のある区よりは田舎っぽい」
『…世田谷も、場所によってはすっごく田舎だと思うけど』
「世田谷じゃないよ。東京都ではないな」
 いい加減、自分でも馬鹿な事をしていると思う。
 でも、突きつけられる現実が怖い。
『東京都じゃない……って』
 でも、もう終わり。
 すぐに気が付く。
 電話の向こうから足音が響く。
 それは次第に、直に耳に届いて…
「…和希」
 玄関から転がるようにして、啓太が姿を見せた。
「…こんばんは」 
 2年ぶりの挨拶にしては、かなり間抜けなものだと思う。
 でも、それ以外に何を言えばいいのかわからなかった。
 会えたら言おうと思っていた言葉も、啓太の姿を目にした瞬間全て頭から消えた。
「家の前に居たんなら、早く言えよ」
「悪い」
「…悪趣味な所は変わってないんだな」
「だから、悪かったって」
 言葉は悪くなったが、その表情は2年前とは少しも変わっていなかった。
 いや、やはり少し大人びた気もする。
「…俺、和希に会えたら言おうと思ってた事いっぱいあったんだけどな…なんだかどうでもよくなった」
 静かに言葉を選びながら吐かれた台詞は、どうとでも取れるもので。
 この2年、いつでも恐れていた言葉。
 “もう、忘れたから”
 その一言を言われるのが怖くて、2時間も家の前で、電話をかける事すら迷っていたと啓太が知ったら、どう思うのだろう。
 女々しいと笑うのか。
 それとも…
 暫く目線があった場所から動かなかった啓太が、ゆっくりと歩を進め始めた。
 二人の間は、大体5メートルといった所か。
 その5メートルを、啓太がゆっくりと詰めてくる。実際の時間にしてみれば、ほんの数秒だろう。だが、今までで一番長い時間かもしれない。
 あの学園の教室で、啓太が来るのを待っていた時間よりも。
 二人で過ごす条件を獲得する為の2年よりも。
 成長する啓太を只、遠くから見続けていた日々よりも。
 何よりも長い時間に感じて…。
 思い焦がれていた顔が目の前まで来たとき、俺は目を閉じた。
 この期に及んで、啓太に言われる一言が怖かった。
「…あ」
 何かが頬に当たる
 それは、2年前のあの夜と変わらない少し固い髪の毛の感触。
 恐る恐る目を開けば、視界に入るのは思い描いたものと同じもので…。
「…会いたかった」
 耳元で囁かれた言葉は、それまでの不安を取り除くには十分だった。
 焦がれ続けた体を力任せに抱きしめて、思いを込めて囁く。
「…俺も、啓太に会いたかったよ」
 考えれば、只それだけでよかったのだ。
 再会して言うべきことは、ただ一言。
 “会いたかった”と…。
 恐れる事などなかったのだ。
 二人、再び出会ってしまえば、これまでの空白などは感じる事も出来なくなる。
 まるでそれが当然とばかりに、唇を重ねた。
 それは今までのどんなキスよりも深く、お互いの思いが伝わるような。
 だが決して情交に結びつかない、激しいキス。
 場所も、時間も、全てに意味が無くなる様なキスは、啓太の手が俺の首から離れるまで続いた。
「…これが、答えだと思ってもいいのか?」
 唇を離して、問う。
 この為に、2年の月日を耐えたのだから。
「…ちょっと違うけどね」
「え…」
 やはり、駄目なのだろうか。
 いや、今までも、そして今この瞬間も思いあっているのはわかる。
 それにこれからの行動が伴うかは、また別問題なのだろうか。
「和希さ、これから暇?」
 悪戯っぽい瞳で啓太は言った。
 それはいつか、自分が言った台詞。
「…『暇といえば暇だけど?』」
 自然とこぼれる笑みは、お互いによく覚えていると感心した所か。
「啓太の言った言葉なら、全部覚えてるよ」
「…嘘ばっかり」
「ホントだって」
「それが嘘だって言うんだよ」
 一頻り笑って、啓太は真面目な表情で口を開いた。
「話、長くなるだろうからさ。とりあえず確認」
「…そうだな」
 この場所に来たという事は、既に岐路に到達した事になると言うのに、今更足が震える。

 2年…。
 短いようで長い時間だ。
 俺の知らない新しい知り合いも出来ただろう。
 また、俺の知らない別れも。
 そして、感情に決別するのにも、十分な時間。
 相変わらず啓太は笑顔だ。
 その笑顔の真意が、もうすぐわかる。

 YesかNoか。

「俺、和希の事好きだよ。もう誰かに頼らなくても、ちゃんと言える」
 決意に満ちた顔。
 2年前には見る事の出来なかった表情だ。
「でもね。もう和希にも頼らないで、ちゃんと生きていけるんだ」
「…もう、一緒には居られないって事か?」
 おびえ続けていた事が、現実になるのだろうか。
「そういう事じゃない。言いたいのはそんな事じゃなくて」
「……」
 言葉を、待つ。
 死刑宣告が確定している人の公判の気分だ。
「和希、俺と付き合って」
「…え」
 夢、なのか。
 固執しすぎた思いで見る夢なのだろうか。
「俺、和希とはずっと一緒にいたい」
「…啓太」
「誰に何を言われても、この先の和希の人生壊す事になっても、俺は和希と一緒にいたいよ。…和希の事、独占していたい」
 一気に吐き出された言葉は耳の奥でリフレインしている。
「…嬉しくて…なんて言っていいのかわからないよ、啓太」
 俺の言葉に、啓太はくすりと笑った。
「俺さ、あれから色々考えたんだ。和希の事や自分の事。それでね。何処をどう考えても行き着くところは一緒だった」
 啓太の瞳が、俺の情けない顔を捉えている。
「あの頃怖かった事もさ。結局は思い切る以外にはどうしようも無い事だって考えた。だって、離れるのも怖ければ、一緒にいるのも怖いなんて…どうしようも無いだろ?」
 体を離して、少し頬を赤らめながら啓太は話し続けた。
「…子供だったなって、思うよ。まあ今でも、和希から見れば十分子供だろうけどね」
「そんな事ないよ。…俺なんかより、ずっと大人になったよ、啓太は」
 俺の言った言葉に、啓太は嬉しそうに微笑んだ。
「でね、更に考えた」
「…うん」
 次から次へと溢れる言葉に、馬鹿の一つ覚えのように合図値をうつ。
「どうしたらこの“怖い”がなくなるかって」
「…どうするんだ?」
 俺の言葉に、啓太は鮮やかな笑顔で答えてくれた。
「俺が、和希の隣にいられる人になろうって思った。誰にも何も言わせないくらい、この先、和希に何があっても支えていけるような、そんな人間になろうって思ったんだ」
「啓太…」
「色々出来るようになったよ。あの学園にいて、周りの人からいろんな事教わって。車の免許も取った」
 自分が思っていた“少年”は、そこには見当たらない。
 目の前にいるのは、しっかりと自立した一人の男だった。
「でね、極め付けが」
 一瞬の間を置いて、啓太は口を開いた。
「今年から、シスコに留学するんだ」
「…え?」
「少しでも早く和希の傍に行きたかったら、去年決めた」
 それは、思ってもいなかった事で。
「…驚いたな。でも、エスカレーターで入ったって聞いてたけど…」
「あれ?聞いてない?前期で退学届け、出してあるけど」
「ああ…まだ聞いていない」
 驚いた俺の顔を、啓太は楽しそうに見つめている。
「じゃあきっと、七条さんあたりが意地悪したんだ」
 笑いながら懐かしい名前を口にする。
「英語習ったの、七条さんに?」
 苦手だった筈の科目を、どんな苦労で習得したのか。
 元々勤勉な啓太でも以前のレベルを考えると、こればかりは一人でどうにかなったとは思えない。
「うん、まあ中心はね。それはもう、みんなそろって懇切丁寧に、スパルタ方式で教えてくれましたとも」
 懐かしい目をして、楽しそうに俺の居なかった2年を語る。
「こっちで大学出てからでもよかった気もするけど、これから更に4年も時間あけたら、和希が金髪美女に攫われちゃうかなって心配になった」
 おどけて言った後、啓太は笑顔を崩さずに真面目な口調で俺と向き合った。
「あの時、和希に“残れ”って言ってもらって良かったって思ってる。有難う」
「…そんなに誉められた理由じゃなかったけどね」
「和希がどう思って言ったとしても、俺の為にはなったよ。やっぱり和希のおかげ」
「そうか…」
 何かを得た啓太は、以前には無かった輝きがあった。
 それを喜ばなくてはいけないのに、少し淋しい気がする。
「でも…もし俺がシスコから別の場所に赴任してたらどうしたんだ?俺の行き先で留学決めるなんて…」
「ああ、ちゃんと調査済みだったから大丈夫。俺にはつよーい味方がいるからね。サンフランシスコでの和希の動きとか、もう日本に戻らない為の画策とかも、全部筒抜け」
「…また七条さんか」
「あと、実はこっそり中嶋さんもね。因みに、公に和希の動向調べてくれてジャッチしていたのは西園寺さん」
「まったく…あの人達は」
 もうここまで来たら笑うしかない。
 想像していたよりも遥かに成長した啓太と、その環境に。
「でさ…まだ俺、和希の返事、聞かせてもらってないよ?…これから先、俺と一緒にいてくれるの?」
 ずっと。
 この2年…いや、啓太と初めて会った時から見たくて、守りたかったものがそこにはあった。
「…改めて言うまでも無いだろ?元々は俺が啓太に頼んでいた事なんだから」
 暗闇から抜けた瞬間の、目も眩む様な光に満ちている様な笑顔。
「じゃあ、和希からもう一度言ってみて」
「…改めて、何でも無い時に言うのはなんだか恥ずかしいな」
「…俺の一生を2年で決めさせようとした奴の台詞じゃないぞ、それ」
 もう、かなわないな。
 啓太をもう一度抱きしめ直して耳元で囁いた。
「…『保険』使ってくれ」
 あの日、二人の関係を切り出した言葉。
 3年前の今日、啓太に伝えられなかった真意を込めて。
「…その言葉で来られると、どう返したらいいか準備してなかった」
 その言葉を使った時の状況を思い出したのか。
 啓太は少し赤くなって俯く。
「じゃあ保険屋さん。支払い期間はどのくらいですか?」
 俺の背中に啓太の腕が回る。
 その腕は、別れ際の抱擁よりも少し位置が上がっていた。
「もちろん、一生だよ」
「それなら安心して使わせていただきます」
 長かった迷宮に、ようやっと別れを告げられた。

 もう、迷わないから。
 もう、迷う事は無いから。

 8月の長く、暗い夜はもう明ける……。

 

 

END

 


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