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2004.0.8.05UP |
無言で車を走らせて、一番落ち着くはずの自分の家に啓太を伴って帰ってきた。 だが、長い間存在しなかった人間を、家は主と認めていないのか。 それとも、俺の中で既に、そこが自分の家ではなくなっていたのか。 数ヶ月ぶりに鍵を回してドアを開けても何の感慨も浮かんでこないばかりか、どこかよそよそしささえ感じる。 只、隣にいる啓太の表情ばかりが気になる。 「ここって、和希の持ち家?」 玄関からリビングへと伸びている通路に、啓太の声が響く。 「いや、名目上は社宅だよ。いつ何所に赴任するかなんてわからないからね。自分で家なんて買わないよ」 「ふうん。…やっぱり、ずっとここには居ないんだ」 短い廊下は、二言三言、二人が会話を交わす間に終わりを告げて、いつか啓太と電話をしていたリビングへと到達する。 あの時。啓太の泣き声が愛しく感じて飛び出したリビングだ。 今は本人がここに居るというのに、心のざわめきは、愛しさとは別の所で起こっているのが少し悲しい。 「そうだな…大分代替わりの騒動も落ち着いてきたし…もしかしたらそろそろ移るかもしれないな」 啓太はリビングの中央を横切り、海に面した大きな窓を躊躇無く開け放ち、そのまま無言でテラスへと足を下ろした。 「…水、いるか?」 先ほどまでのアルコールで、乾いているであろう咽喉の具合を問いかける。 …それしか、かける言葉は見つからなかった。 「ううん、いいや。それよりも風呂、借りていいかな」 振り返った啓太の顔は、背後の暗い海の表情と酷似していた。 「ああ、いいよ。着替えは俺のでいいか?」 「ううん、着替えはいいよ。このままでも別に問題ないから」 啓太が、自分の着ているラフなTシャツを、おどけた様に引っ張ってみせる。 その拍子に、隠されていた胸元が不意に覗く。 あの時、啓太の痴態に嫌悪を覚えたというのに、今はそれを忘れたかのように、俺はその白い啓太の胸元にに欲を感じた。 嫌になる。 自分が。 啓太はそんな俺の戸惑いを感じて、引っ張っていたシャツをゆっくりと離して、悲しそうに微笑んだ。 二人の間を沈黙が流れる。 「風呂、そっちのドアだから」 耐え切れずに、一言必要事項のみを啓太に告げてリビングに背を向け、仕切りは無いが別の空間になっているキッチンへと足を向ける。 キッチンで冷蔵庫を物色していると、ドアの閉まる音が部屋の中に響く。 それに続いて、水音がかすかに響いてきた。 「…ふぅ」 自然と安堵のため息が漏れる。 氷とグラスと、お気に入りのボトル一本を手にリビングに戻り、3人掛けのソファーに体を投げ出す。 「…一人になった理由が、あれじゃあね」 先ほどの啓太の言葉が頭の中を回る。 別れたのは、俺の所為。 俺の為なわけじゃない。 むしろ、今までの関係こそ、啓太にとっては俺の為だったという事。 人が思うほど不幸でもない今の俺の状況は、啓太には理解し得ない物らしい。 (ま、自分が一般とは違う育ち方をしているのは自覚あるけどな) あの夏の日と同じ様に、グラス中の氷が音を立てる。 一口、口をつけただけのグラスの中身は、既に溶け出した氷の水と交じり合って、少しその色の明度を上げていた。 ぼんやりと窓の外を見つめ続ける。 唯の友達だった最後の日。あの時の窓の外の風景は、夜だというのに夏の様相を色濃く映し出していた。 四季の中で『夏』が一番好きな俺は、その様相を啓太と重ね合わせて恋焦がれていた。 だけど、今は既に冬を通り越して春にならんとしている。 当然窓の外の様相も、あの時とは違う。 …違うのは窓の外だけではないけれど。 あの時知り得なかった啓太の不安と焦燥は、現実のものとなって今、二人の間に横たわっている。 これだけの長い年月思いあって来た心は、お互いを受け入れてしまえば、離れることなんて今更出来るはずもないのに。 故に、離れることを怖がることも無い。 だが現実に、啓太はその恐怖を感じている。 昔のお家じゃあるまいし、いくら財産があったからといって必ずしも相続しなくてはいけないということも無いのだが、それを今の啓太に話したところで、気休めにしかならないことは分かりきっている。現に、親の物を子供が継ぐことを前提とした教育は施されてきている。今の立場も、結局はその教育の賜物といったところだ。だが自分自身、その立場に執着があるかといえば、これは特には無いのだ。 只、啓太の為だけに作り上げたものだから。 啓太の為に手放すのは惜しくはないし、それすら俺の望んでいることだ。 すぐにでも手放して見せて、固執した考えを改めさせられればいいのだが、今日明日で現状の全てを放棄し尽すことも出来ない。 どうすれば、不安を取り除いてやれるのか、見当もつかない。 打開策を見つけられない。 一つだけはっきりしている事は、啓太は俺のものになる気は無いって事。啓太が一人身になろうがなるまいが、その事実だけは変わらない…。 自虐的な思考が頭の中を占め始めた時、初めて真剣に策を練っている自分に気がついた。 「今更…だよな」 考えてみれば、俺が自分から啓太を欲したことが、今までに何回あっただろうか。 時間が無かったというのは言い逃れなどではなく現実問題としてあったのだが、自分の気持ちをきちんと啓太に話したことが、あったろうか。 なし崩しの行為の中、自分の不安を啓太にぶつけて… 部屋の中にかすかに響いていた水音が止んだ時、時計が日付の変更を告げた。 その音で我に返る。 再びグラスを手にして口元へと運ぶと、角度が変わって居所をなくした氷の音と重なるように、浴室のドアの叩かれる音が鳴った。 弾かれる様にソファーから体を起こして、浴室へと向かう。 「なんだ?どうした?」 生暖かく湿った湯気が、細く開けたドアの隙間から漏れ出す。 「ごめん、タオルの位置がわかんなくて」 「ああ、そうか。ごめん」 謝罪と共に背後の戸棚を開けてバスタオルを一枚取り出し、その細く開けられたドアの隙間に押し込んだ。 その拍子に、シャワーの熱で上気させている啓太の肌が見える。 今はもう、誰かの物ではない、啓太の肌。 その考えが頭をよぎった瞬間、理屈よりも早く体が動いていた。 「和希?」 突然全開にされたドアに、啓太は不振な目を向ける。 その目に押されること無く、俺の腕は啓太を包んでいた。 「…服、濡れるよ。和希」 俺の腕を拒絶するでもなく、かといって受け入れる様子もなく、啓太は淡々と、何事も無いように言った。 「それだけ?啓太が気になるのは俺の服のことだけなんだ?」 「…」 沈黙。 それは、どうして? 期待の時間をくれているのか? それとも、俺を傷つけない為の拒否の言葉を捜しているのか? 答えは、後者だった。 「…同情はしなくてもいいよ、和希」 「同情?」 啓太の手が、ゆっくりと俺の腕にかかり、その包容を解く。 「もう…踏ん切りがついたから」 水滴に覆われた長い睫毛が、その重さを耐えることなく啓太の青い瞳を隠す。 「なんだか勝手に完結されるのは、納得がいかないんだけどな」 「勝手にって…あそこまで徹底的に避けられたら、どんな鈍感な奴でも気が付くよ。今日は迷惑かけちゃったけど、これからはもう、付きまとったりもしないし、迷惑もかけない。今日も、ここに連れてきてくれただけで十分だから…」 ぴちゃん…と、首筋に水滴が落ちてくる。 まとわり付くような湿気は、あの夏の日の夜に似ていて、あの時感じていた愛しさを思い出させた。 「…別に、啓太のことが嫌いになって離れたわけじゃない。今日の事だって、迷惑だなんて思ってないよ。むしろ、まだこういう事を俺に頼ってくれて嬉しかった」 ―『俺』という人間を認識してくれて― 情事の跡の無い項を見つめながら、前に自分で言った台詞を思い出す。 「…保険、使わないか?」 電話越しに「今の彼氏と別れたら付き合おう」と言った俺に、啓太は「保険みたいな言い方だ」と笑った。 あの時はジョークでしか伝わらなかった言葉も、今なら真実の言葉として伝わるはず。 もう、これ以上自分を誤魔化したくは無いから。 「あははっ…和希、その台詞覚えてたんだ」 啓太は乾いた笑いと共に、まるで遠い昔を思い出しているかのように、目の前にいる俺をすかして空虚に呟いた。 「ちょっと嬉しいよ。でも…使えないよ」 「何故?啓太も俺の事、好きでいてくれてるんだろ?お互い思いあっていて、何でダメなんだ?」 これだけの思いを分け合っているというのに、何故そこまで俺は拒絶をされなければならないんだろう。 「好きだけど…和希とだけは付き合えないよ」 まるで、自分以外のことには目を向けないかのようなその仕草が、俺の中の何かを焼切った。 「…俺だけのものには…なる気はないんだ?啓太は」 バスルームの中に、自分の声が反響する。 その声は、自分でも驚くくらい硬質なものだった。 「…和希が、俺だけのものにならないのに、俺にそれを要求するんだ?」 「どうして俺が啓太のものにならないって考えるんだ?俺は今まで一言もそんなことは言ってないだろ」 「…」 啓太は返答をすることなく、俺の手から落ちたバスタオルを拾い上げ、自らの体に沿わせた。 「確かに、俺も今まで自分の気持ちをきちんと伝えてこなかったのは卑怯だったよ。啓太に相手が居ることばかりに目を向けて…一緒に居てくれる意味を考えなかった。それは今更取り繕おうとしても出来ることじゃないかもしれない。でもな」 お互いの気持ちを確認しあおうとする言葉が、空々しく室内に木霊する。 「今、俺が居る…啓太の言うところの自分の自由が無いこの立場が、お前のために作られたものって事、忘れてないか?これを啓太がわずらわしく思うのなら、いつだって排除することは出来るんだぞ?」 真剣に話そうとすればするほど、言葉は心には届かずに、只空を震わせ消えていくはかない存在になる。 相手に届かない説得が滑稽だとわかっていても、一度走り出したら止まることは出来なかった。 「…出来ない事、言うなよ。いたずらにこっちに期待持たせるような事…やめろよ、和希。じゃないと、俺…勘違いするだろ?」 水を含んで重くなった茶色の髪の毛も、うつむいた啓太の表情を覆い隠している。唯一見えている口からは、拒絶の言葉しか流れてはこない。 埒の明かない押し問答に、自然と口調はきつくなっていく。 「勘違いって何だよ。勝手に変な方向で勘違いして空回りし続けてきたのは啓太だろ?その上この期に及んでごまかすのか?だいたい、啓太はどうしたい訳?俺から求めればそうやって逃げるし、曖昧にしていれば他に相手捕まえて俺と対面せずに、求めるのは俺の体だけ。お前は一体、俺にどういうことを求めているんだよ」 慣れない感情の高揚に、体が震えてくる。 滑稽だよな。本当に。 さっきまで練っていた策なんて、啓太本人を目の前にした今の現状で何の役にも立たない。 たたせる事が出来ない。 「…無理だよ。俺の求めることに和希が答えるなんて」 「口に出してみろよ。無理かどうかは俺が判断することだろ?」 「出来ないって判ってることを要求して、拒否されるのはいやだ」 こんな、まだ成人もしていない子供相手に本気になって。 挙句、成長しきっていない、自分を持て余している子供に、自分の苛立ちをぶつけて。 守ってあげようとしてきた相手を、守るどころか自ら絶壁に立たせている。 人を服従させる方法を今までいやというほど学んできて、他の人間は大概自分の考えに屈服させて来たというのに、何故か啓太にだけはそれを行使出来ない。結果、今までにないくらい自分を不安定にさせている。 セルフコントロールなんてお手の物だった筈なのに。 客観的に考えれば、自分の利にあわない物なんて排除すればいいだけのことなのに、それすらもままならないなんて、本当に滑稽だ。 「拒否されることがいやだから言わないんだ」 静かな俺の声に、啓太は力なく頷く。 何を言っても無駄なんだね。 俺の言葉は啓太には届かない。 「何がかなわないって思っているかわからないけど、俺がそれをかなえてあげられないから、俺のものにはなりたくないんだ」 更にゆっくりと、啓太は頷いた。 その姿が、今まで経験したことのない、黒いものが体中をうごめくような感覚を俺に与える。 それは当然の様に俺の中に浮上して、じわじわと今まで根強く俺の中にあったものを侵食していく。 「それなら何故、俺の気持ちを知った上で、セックス求めてきたんだ?」 自分でも、ひどく冷たい声になったことはわかった。 きっと、誰も聞いたことのない自分の声。 俺自身ですら、自分がこんな声が出せるとは思ってなかった。 「俺は啓太の体だけが欲しいわけじゃない。それがわかっていて、啓太は俺にセックスを求めてきたんだよな」 啓太の体がびくりと振るえて、バスタオルを握った手に力が篭る。 「啓太が俺に拒否されることを怖がっていたのはよくわかったよ。でもな…」 頭と体が別々に反応する。 まるで、寝起きに起こる金縛り現象と逆パターンだ。頭は考えようとしているのに何も動かず、体だけが勝手に動いていく。 動いた俺の腕に、啓太は素早く俺の脇を通り抜けようと動く。 きっと、本能的に俺の感情の動きを理解したんだろう。 でも、遅い。 気が付けば、逃げを打つ啓太の体を捕まえて、力任せにバスルームの壁に叩きつけて、その退路を絶っていた。 「…卑怯だよ。啓太」
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