いつもどおりの笑顔で


2010.06.09UP



 

「おかえり」
 和希がリビングの扉を開けると、そこには夕飯の支度をしている啓太がいた。
 一瞬、立ち止まって。
「ただいま」
 いつもどおりの笑顔で答える。
 それは、暗黙のうちに作られた、二人の儀式だった。




 作ってもらった夕食を囲んで、最後に出てきたケーキに、和希は笑う。
「なんだ、覚えてたんだ」
 誕生日という日の最後の場面で、啓太が「おめでとう」も言わずに差し出したそれにも、また、笑う。
 笑う和希に、啓太は少し不満そうな顔で頷く。
「忘れられないんだもん」
 その不満そうな顔もまた、和希を楽しませた。
「忘れたいのか?」
「忘れたいよ」
 当たり前に返されて、肩をすくめる。
 手元に置かれたウィスキーのグラスが、カタンと氷と擦れる音を立てた。
「じゃあ、忘れちゃえば?」
 グラスの結露を触った、少し湿った指先で、啓太の瞼に触れて、青い大きな瞳を隠す。
「あなたは段々眠くなる〜」
 お約束の催眠術の台詞を和希が口にすれば、啓太は笑った。
 そして指先の冷たさを楽しむように、少し顔を和希に寄せる。
「どれを忘れたい?」
 催眠術に入る前に確認しなければいけないことを今更問えば、啓太はやはり笑いながら答えた。
「和希の事、全部」
 その言葉に、和希は再び肩をすくめて。
「わかった、全部な」
 了承の言葉を返して、さらに啓太の瞼を撫でた。
 それでもそれ以上言葉は紡がず、ただひたすらに指触りのいい肌を撫でて、離す。
「……忘れた?」
 ありえないことを問えば、やはり答えは想像通りだった。
「全然」
 馬鹿な会話に、二人でもう一度笑って、お互いの手元にあるグラスを、再び合わせた。




 食事を終えて、二人で入浴をして、当たり前のようにベッドに雪崩れ込む。
 むさぼるように唇を合わせて、お互いの肌をまさぐり、快感を求めた。
 気分が落ち着くころには、啓太は絶頂の証を自分の肌の上とシーツに3回吐き出して、和希は啓太の中に2回吐き出していた。
 濃厚な空気の中、啓太は嫌そうにその跡を見つめる。
「あーあ、ドロドロ」
「もう一回風呂はいるか?」
「入ろうかなぁ、気持ち悪いし」
 足を伝う精液を、気だるげにティッシュで拭いながら、啓太は床に落ちていた和希のシャツを手に取った。
 まるで自分の物のように体に纏い、ベッドを降りる。
 そんな啓太の背中に、和希もまた当たり前のように言葉をかけた。
「俺も入りたいから、温めておいてくれよ」
「えー、面倒くさいし。それに何で湯船まで入るんだよ」
「癖だから」
「もー、変な癖なんだから」
 文句を言いつつも、啓太が要望を飲んでくれることは和希には解っていたので、そのまま寝室を出る啓太を見送った。
 そして自分は、汚れたシーツを引き剥がして、啓太がお気に入りの肌触りのいいシーツに敷き変える。
 風呂から出た後、すぐに眠れる体制を整えて、汚れ物を抱えて啓太の後を追った。

 シーツを洗濯機に突っ込んで、浴室のドアを開ければ、既に暖かな湿気に覆われていて、その心地いい空気に顔を緩める。
 和希が入ってきた事を気にも留めずに体を洗う啓太を見て、また和希も気にも留めずにその啓太に抱きついた。
「ちょっと、動きにくいよ」
「じゃあ、俺が洗う」
「そんな事しなくていいから離せ」
「やだ」
 成人しても相変わらず柔らかい啓太の肌を撫でながら、結局場所を変えてもう一度肌を合わせた。

 衝動を晴らして、二人で啓太が温めた湯船に浸かりながら、何とも無く浴室内に視線を送る。
「……そう言えば、今回は短かったな」
 腕の中の啓太に世間話的に問えば、啓太は大きくため息をついて和希に背中を預けた。
「和希の所為だから」
「なんでだよ。連絡すらしなかったのに」
「和希が誕生日なんて迎えるから、思い出しちゃったんじゃないか」
「それ、俺の所為か? 毎年この日に年取るのは仕方ないだろ」
「和希の所為なの」
「あー、はいはい。俺が悪かったよ」
 理不尽な言葉を流して笑えば、啓太も笑う。
 そして、世間話の続きをする。
「相手も悪かったんだけどさ。なんかしつこくて、ちょっと引いてた。それでぼんやりカレンダーみてたら、和希の誕生日だなーって思って、今日の夜会いたいって電話かかってきて、気がついたら別れるって口にしてた」
「……啓太、いつか刺されるぞ」
「葬式は和希に任せる」
「俺でいいんだ?」
「それ以外いないだろ」
「……そうかもな」
 小さく笑って、啓太の湿気を含んで少し色の濃くなった茶色の髪の毛に唇を落とす。
 再び帰ってきた、愛しさを込めて。


 啓太が最初に和希と別れたのは、高校を卒業した時だった。
 先に進む自分たちの道が違うと言って、一方的に別れを切り出した。
 当然その時は和希は縋ったが、それでも啓太が戻ることは無かった。
 半年で諦めて、それからはたまに連絡を取るくらいの関係に落ち着いて、さらにその2年後、啓太から連絡が和希に入った。
 曰く、恋人と別れて行くところが無いと。
 和希は電話越しに首を傾げたが、それでもまだ啓太を思っている心は変わらず、了承して家に招いた。
 啓太にはまだ実家もある。
 それでも自分の元に来てくれたのが、純粋にうれしかった。
 しばらく啓太は和希の家に住み、そして当たり前のように再び関係を持った。
 だが、その3ヵ月後に、啓太は再び和希に別れを告げる。
 その理由は、「好きな人が出来た」というもの。
 ありきたりな終わりの言葉に、和希は自分の心を無理やり納得させるしかなく、啓太の背中を見送ったのだ。
 暫くは仕事が忙しく、啓太のことを考える暇も無く和希は過ごしたのだが、ある日家に帰ると啓太が玄関の前に立っていた。
 何事かと問えば、ふられたと言って、和希の胸で啓太は泣き始めた。
 そしてまた、啓太は和希の家に暫く居る事になった。
 その時は関係が修復される前に、啓太に再び恋人が出来て、啓太は和希の元を出て行った。
 啓太が家を出る日、和希は家の鍵を置いていこうとする啓太に、その鍵を握らせた。
 戸惑う啓太に、「何かあったら戻ってきていいから」と言い含めて。
 なんとなく、二度あることは三度ある気がしたのは、和希の心の中だけに刻まれて、口にはしなかった。
 そしてその予感は当たった。
 季節が二つ超えるかどうかの期間で、和希が家に帰ると啓太がいたのだ。
 少し気まずそうな啓太に、和希は普通に笑って、普通に生活を促した。
 その夜、不安定なこの関係を持って初めて、啓太は和希をベッドに誘った。
 逆らう気も無く和希は受け入れ、また暫く生活は流れる。
 それでももういい加減、二人はお互いを「恋人」と称することは無くなった。
 啓太は和希と関係を持ったまま、当たり前のように他の人に恋をして、恋をしたことを隠しもしない。
 連絡を頻繁に取っている携帯も、和希の目に付くところに置き去りにするようになっていた。
 そしていつの間にか、ふらりと和希の家から居なくなる。
 そして暫くすると、ふらりと戻ってくるのだ。
 何年も、そういう生活が続いていた。
 最初は気にしていた和希だったが、いつの頃からか「またか」と思うだけで、それ以上は思わなくなった。
 啓太には啓太の道がある。
 何も縛られることは無い。
 それでも自分の場所は啓太の場所で、それを確保できるだけでいい。
 そんな満足感が和希を満たしていた。
 今回も例に漏れず戻ってきた啓太を、和希は愛した。


 風呂から上がり、落ち着いて二人でベッドにもぐりこんだ後、寝しなに会話を交わす。
「今回の相手って、どんな感じだった?」
 名前も性別も知らない啓太の相手を和希が問えば、啓太少し考えて、「和希と違う人」と、当たり前の答えを返す。
 恋多き啓太の相手の、共通の特徴だった。
 和希と別れて最初に付き合った相手は、体育会系のごつい男だった。
 お世辞にも頭が切れるとも言いがたく、大学に進学した啓太の、バイト先の友人の一人だったが、ひょんなことから付き合うことになったらしい。
 詳しい経緯は、和希は聞いていない。
 それでも楽しそうだと思った啓太は受け入れたと、そう聞いただけだ。
 だが、別れるときに問題が出た。
 合わないと感じた啓太が別れ話を切り出したところ、逆上されたのだと、和希に再会した時には頬を腫らしていた。
 その相手とは、ストーキングに近い行為を啓太がされた所為で、和希は顔を合わせている。
 あまりにも自分と違う人間過ぎて、話をするのも大変だったのを憶えている。
 その次に好きになった相手は、華奢な女の子だった。
 おっとりとした性格で、それでも自分の夢を持っていた彼女は、啓太を捨てて海外に留学してしまったらしい。
 さらに次の相手は、強引に啓太を引っ張っていってくれるような、よく言えば行動力のある人で、悪く言えば我侭な人だった。
 啓太に恋をして、啓太を必死に口説き、それに啓太は流された。
 社会人だった彼は一人暮らしをしていて、和希の家に啓太が住んでいることを良しとせず、同棲を推し進めた。
 初めは啓太もそこに惚れていたらしいのだが、やはりそんな激しい恋が長続きするようなことは無く、いつの間にか二人で冷めていたという。
 そんな恋を何度も繰り返している啓太を見て、和希はひとつの共通項を見出した。
 誰も皆、主軸が啓太に無い人物ばかりなのだ。
 それでは恋も長続きしないだろうと思ったのだが、そこが自分とは違う部分だと同時に気がついた。
 啓太がそれを求めているのだとも。

 そのことに気がついてから、和希は啓太の恋を止めることをしなくなった。
 送り出しても、おそらく戻ってくる。
 そう解ったから。
 逆に引き止めれば、二度と啓太は戻ってこなくなる。
 啓太が恋をすれば応援し、疲れれば受け止める。
 そういう存在で落ち着いてしまった。


 独占欲が無いかと問われれば、それはおそらくあるのだろう。
 それでもその欲が求める先は束縛ではなく、確固たる啓太の中の自分の存在で。
 啓太が帰る場所が自分である事の、ある種の征服感のようなものだった。


 眠りにつきそうな、少しかすれた声で、啓太は呟いた。
「なんで、和希が落ち着くんだろう」
 和希以外の人間を求めた後の言葉としては、相手に失礼にも程がある。
 そう思って和希は小さく笑って、啓太の肩まで毛布を掛けた。
「……なんでだろうな」
 答えなど解っている。
 それでも啓太はそれを良しとはしないのだろう。
 だからこそ、高校の卒業と共に別れたのだ。

 確かめて、戻ってくればいい。
 和希以外に、心が開けない啓太を。

 甘えるように和希に擦り寄った啓太の髪を、愛おしさを隠すこともせず撫でる。
 啓太はその暖かさに安心したように、眠りについた。

 啓太の寝顔を見ながら、次に啓太がするであろう恋を想像してみる。
 身を焦がすような激しいものだろうか。
 それとも海に近い川の流れのように、穏やかなものだろうか。
 どちらにしても、おそらく人生の主軸は啓太に無い人物なのだろう。
 その事に疲れて帰ってくるのは、いつの日になるのだろうか。
 久しぶりの啓太の寝顔を眺めながら、和希も目を閉じた。




 次の日の朝、とってつけたように啓太は和希にひとつの包みを手渡した。
「……なにコレ」
 あからさまに女性用の包装に問えば、朝食を食べながら啓太は「誕生日プレゼント」と返す。
 包みを開ければ、そこにはどうみても女性用のネックレスが光っていた。
「コレを俺にどうしろと」
 細いチェーンの先に揺れる、可愛らしいペンダントヘッドに笑えば、啓太は「身に着けていて」と本気とも取れない軽い調子で返した。
 おそらく昨日の昼までの相手に贈る予定だったのだろうそれに、和希は肩をすくめる以外に何も出来ない。
 その可愛らしいネックレスを見ることもなく、軽く別れたらしい相手に同情も無かった。
 コレもひとつの記念か、と、笑って傍らに置く。
 そうしているうちに時間は過ぎて、啓太は普段の生活どおりに会社に行くらしく、以前この家に置いていったスーツに袖を通していた。
 和希もまた、時計を見て着替える。
「今日は夜、外で食べないか?」
 玄関先で和希が啓太にそう問えば、啓太は瞳を瞬かせた。
「なんで?」
「一日遅れてるけど、俺の誕生日、祝ってよ」
「祝ったじゃん」
「カレーじゃ俺の心は満たされない」
 夕べのメニューに、笑いながら請えば、啓太は条件をつけて頷いてくれた。
「いいよ。俺がもう、和希以外に靡かない位、格好よくエスコートしてくれればね」
 また啓太は、思ってもいない望みを和希に告げる。

 本当は、その逆の癖に。

 和希が本当の意味で啓太を手放す時を望んでいる啓太に、和希は笑って。
「了解。まかせとけって」
 真の望みを拒否して、言葉の上のまやかしの了承を伝える。

 そして、お互いを恋人と称さない二人は、一時の別れに唇を合わせて、朝の空気に身を委ねた。
 前の日の朝よりも、心が穏やかな事に気がつかないふりをして――――。

 

 

 

END




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