クローバー

2006.6.15UP




「和希………」
 ドアから一歩入った所で啓太を抱きしめたまま動かない俺に、懐かしい声で俺の名前を呼ぶ。
「……なんで急にいなくなったんだよ…俺がどれだけ探したと………」
 目の前の焦がれ続けた人が、再び消えてしまわない様にしがみつくのが精一杯で、まともな言葉にならない。
 暫くの沈黙の後、啓太はゆっくりと語り出した。
「急にいなくなったのは誤る。だけど、あの時はああするしかなかったんだ」
 変わらない甘いテノールが、優しく俺の鼓膜を揺さぶる。
「和希の事が好きで、凄く幸せで。自分の道が和希との幸せな生活で溢れちゃってた。だけど、それじゃダメなんだって思ったんだ」
「幸せだったんなら何でっ…」
 やっとの思いで開いた口から出た言葉は、この10年、繰り返し心の中で叫んでいた言葉。
「俺は、和希に普通に幸せになってもらいたかった。世間の目を気にしなくてもいい、普通の幸せを掴んで欲しかった」
「啓太無しで、どうして幸せになれると思ったんだよ」
「幸せになれただろ?和希が結婚したって事は、ニュースで見たよ?…その後の事も、風の噂で聞いたけど…。それでも、血を分けた自分の子供を持てて、今、幸せじゃないのか?」
 啓太は『一般論』の幸せな現状を問いただす。
 まるで、姿形容で決められた花言葉の様な。
 でもそれは、俺の描いていた幸せとは違っていて。
「…確かに、子供は可愛いよ。だけど幸せって、それだけではかれる物じゃないだろ。卒業のとき『一緒に暮らそう』って言ったのは、その事も全て含めての事だったよ。俺には啓太より欲しい物なんてなかったから」
 啓太が、俺の戒めを解いて体を離す。
 まるで拒絶するかの様に。
「…和希にとってあの結婚は、幸せな物じゃなかったのか?」
 蒼い瞳は俺の姿を映してはいなかったが、強い意志がこもっている。
 それがどういう意味か図りかねて、じっとその姿を見つめ、口を開いた。
「それじゃあ啓太は、何が幸せなのか本当の意味で分ってるって言うのか?」
「………」
「幸せって定義なんて、十人十色だろ?普通の結婚をしたからって、必ずしも幸せになれる訳じゃない。啓太を失って、一度は俺だってそれを求めたさ。それは否定しない。でも、いつだって心の中には啓太がいて…俺の根本を作り上げたお前がいて…啓太が居ない事でどれだけ苦しい思いをして来たか分るか?」
 俺の叫びを啓太はじっと聞いている。
 そして、一旦目を瞑り、静かに口を開いた。
「それじゃあ和希は、奥さんの事愛してなかったのか?」
「啓太とは別の意味で愛してた。彼女は啓太の事を思っている俺を愛してくれて、そんな彼女を俺も好きになった」
「じゃあ、それで良いじゃないか。ちゃんと幸せだったろ?俺がいなくても幸せになれただろ?」
「そうじゃない!」
 声を張り上げた俺に啓太は背を向けて、部屋の奥の窓辺へと歩み寄る。
「…俺だって、卒業の時に決意してた。絶対和希を幸せにしてみせるって。俺は和希の事が好きで、何よりも大切だから」
 既に日の落ちた外界の景色は、部屋の中の険悪な雰囲気など関係ないとでも言う様に、きらびやかな光の渦を作り出している。
 その光景を眺めているであろう啓太の瞳は、俺の場所からは見る事が出来ない。
「卒業して、和希の本当の生活を目の当たりにして、俺、やっと和希を幸せにする方法を思いついたと思った。だから、10年前の和希の誕生日に…和希に自由をプレゼントした。俺との恋愛関係を清算して、和希が自由に羽ばたける様に」
 それは、啓太がまだ高校生だった頃、俺が心の中で思っていた事。
 いつか、自分の元を離れたいと啓太が言ったとき。
 啓太に自由をと。
 でも、自分の感情はそんなに簡単な物じゃなくて。
 限られた時間でも良いから、側に、と。
 少しでも長く、と。
 出来れば一生、啓太の隣は俺であって欲しいと願ってしまう。
 矛盾する二つの思いに、三年の月日を費やして俺は決を下した。
 俺には啓太が全てで。
 啓太が側にいてくれれば、世界は薔薇色に染まっていて。
 だから、啓太を手放しはしない。
 そんな俺の我がままに、啓太は涙を浮かべて喜んでくれて。
 真の意味で、俺は幸せだった。
 憂うことなど、何もなくて。
 側で笑ってくれていた啓太の、俺への愛情を、未来を、疑う事もなく。ただ、幸せだった。
 その選択が啓太にとっても幸せだったのだと思えて、真の幸せを手に入れられたのだと思った。
「和希が結婚したって知って、俺は自分の考えが間違ってなかったって思ったよ?きっと和希は幸せで、俺の事も過去の事としてもう新しい人生を歩んでるんだって。素敵な奥さんに可愛い子供。皆から祝福されて、何も隠す事もなくて…だから、俺は笑顔でいられた。『鈴菱』の名前を見る度に、すごく嬉しかった。この名前の向こうで、和希が幸せに暮らしているんだって思って。だから今日、最後のプレゼントを渡したくってここに来た」
「最後のって…なんだよ。またどこかに消えるって言うのか?そんな事、俺が望んでいると思ってるのか?」
 言い募る俺に啓太は綺麗に微笑んで。
「大丈夫だよ。和希は俺がいなくても幸せになれる。これから先だってずっと」
 俺の一番聞きたくなかった言葉を投げかけて来た。
「それって……なんだよ。俺の幸せは啓太だけだ。子供の頃からずっと変わらない。ずっと伝えていた事じゃないか。なのに啓太は、俺の幸せを否定するのか?」
「それは………」
 これまで毅然として言葉を発していた啓太が、初めて言い淀む。
「俺は……和希の幸せを考えてる。後から振り返って、和希が後悔しない様に……」
「後悔なんてするわけない。そんな物をするとすれば、啓太を俺の腕の中から逃がした事だけだ。啓太の言う『普通の幸せ』なんて、俺にとっては幸せでも何でもない。それに、啓太はどうなんだよ。俺と離れて、お前は幸せになれたのか?この十年で、お前は幸せを手に入れられたのか?」
 畳み掛ける様に言葉を発した俺に、啓太は揺るぎない笑顔を俺に向けた。
「幸せだったよ、俺は。和希が幸せな事が、俺にとって一番の幸せだから。これからもそれは変わらない」
 青い瞳には、以前と変わらない強い光。
 俺を焦がれさせて止まない物が、そこには称えられている。
「…俺の幸せが啓太の幸せだって言うなら、この十年、啓太は幸せじゃなかったよ。啓太無しで、幸せにはなれなかった。どこを探してもお前がいない生活は、『幸せ』って言葉からは程遠かった」
「………」
 俺の言葉に啓太は黙り込んで、強い光を称えていた瞳には陽炎の様に涙が滲む。
 相変わらず華奢な姿体を、もう一度正面から抱きしめた。
「何を経験しても、何を考えても。結局俺は、啓太以外の幸せは感じられない。だから、戻って来てくれ。俺の事、幸せにして欲しい」
 耳元で懇願した俺の腕に、10年前と変わらない啓太の白い手がおずおずと添えられる。
「なんで……そんなに俺に執着するんだよ。和希の世界には、俺なんかとは比べ物にならない様な素晴らしい事が沢山あるだろ?」
「啓太以上に素晴らしく感じる物なんてない。昔から言ってるじゃないか。ずっと嘘だとでも思ってたのか?」
「だって……だって………」
 俺の腕の中で、啓太は言葉を探す様に頭を横に振っている。
 まるで、俺から必死に逃れようとしているかの様に。
「それとも、やっぱり啓太は俺の側に居たくないのか?俺の事、愛してない?毎年送ってくれていたカードと四葉のクローバーを啓太の俺への愛情だと思っていたのは、やっぱり単なる妄想だったのか?」
「何でそんな事っ」
「俺から離れていったのは啓太だよ。俺がそう思ってもおかしくないだろ」
「………」
 啓太は黙って俯いて、俺の肩に頭を持たせかけてきた。
「……愛してなかったら、俺は今日ココには来てない。ずっと…愛してた。ううん、愛してる」
 一旦過去形で言った言葉を、現在形に置き換えて気持ちを伝えてくれた事に、胸が震える。
「本当は俺、和希にすごく会いたかった。でも、こんな俺だから、和希の側にはいちゃいけないって思って…。でも…和希の誕生日だけは、俺にも和希の幸せを祈らせて貰いたかった。そんな事させてもらえる様な資格がないって分ってても、どうしても…」
 最後は嗚咽に変わった啓太の告白は、10年間乾いていた俺の心を満たしてくれた。
 そして、改めて自分の幸せを実感する。
 やはり、啓太以外には幸せはないと。
 啓太自身が、俺の『四葉のクローバー』だと。
「啓太…最後のプレゼントが欲しい」
 俺の肩口を濡らしている啓太に、唯一の希望を囁く。
 これ以外はいらない。
 その為なら、今持っている俺の全てと引き換えにしてもいい。
「…もう二度と、俺から離れないって誓って欲しい」
 永続する幸せを、下さい。
 離れないと、約束して。
「……和希の害にしかならないのに、そんな事を望むのか?」
「害じゃない。俺には何よりも必要な事だよ」
 数瞬の沈黙の後。
 啓太は俺を抱きしめてくれて。
「……Happy Birthday 和希」
 俺にとっての本当の幸せをプレゼントしてくれた………。

 

 

END

 


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