夢心地

2007.4.17up



 

 朝日がカーテンの隙間から差し込んで、意識が浮上する。
 そこで初めて人は、布団の温もりを感じる事が出来る。
 その瞬間の、幸せ。
 適度な温もりは、幸せの象徴。
 和希は隣で寝息を立てている恋人を抱き寄せて、その幸せに酔う。
 一人の温もりも幸せだと思うのだから、まさに愛しい人の温もりは夢心地。
 現実離れしている幸せに、自然と頬が緩んだ。
「う…ん…」
 腕の中の啓太は、幸せそうに和希の胸に顔を擦り付ける。
 胸元を茶色の跳ねた髪の毛がくすぐり、その柔らかい感触と動作の愛らしさに和希は小さく笑った。


 二人が一緒に暮らしはじめて早2年。
 初めのうちはこんな甘い朝が当たり前だったのだが、最近ではそんな甘さは何処にも無かった。
 大学を卒業して働きはじめた啓太にとっては、朝は戦争で。
 啓太の会社は和希よりも通勤時間のかかる場所であったし、特に朝の支度は啓太の役割と決まっていた為、和希がベッドで微睡んでいても啓太は既に起きているというのが日常だった。


 啓太の寝顔を見つめながら、和希は幸せに酔っていた。
(寝顔はいつまでも幼いまんまだな)
 長い睫毛。
 薔薇色の頬。
 ふっくらとしていて、何も付けていなくても赤い唇。
 暫くじっくりとみる時間がなかった所為か、それらがとても懐かしく感じた。
「…啓太、朝だよ」
 耳元でそっと囁いてやれば、啓太はむずがる様に体ごと和希にすり寄る。
「…かずき…」
 寝起き特有の掠れた声で名前を呼ばれ、和希の顔は緩みきった。
「まったくもう…甘えんぼさんだな」
 柔らかい頬をそっと指の背で撫でてやれば、啓太はますます和希に縋り付く。
 その姿体を抱きしめると、いつもよりも柔らかい感じがした。
 まるで夢の様に幸せだと啓太の顔に唇を寄せようとした時…。

「いつまで寝てやがるんだ!」
 腕の中で、まだ夢の中に居る筈の啓太から罵声が飛んだ。
「………え?」




 ………本当に夢だった。




「まったく、何度呼んでも目を醒まさないなんて!俺はあと30分で家出なきゃいけないんだから早くしてくれよ!」
 ぱちっと目を瞬くと、そこはいつもの寝室の様子。
 カーテンは既に開け放たれていて、部屋の中は朝の光に満たされていた。
(なんだ…夢か)
 平日の朝にあんなゆったりした空気が存在する筈も無かったと、夢から覚めた和希は気が付いてがっくりと項垂れる。
「それにしても、和希が目覚ましで起きないなんて珍しいな。疲れ、たまってるのか?」
 目をこすりながらベッドの上に体を起こした和希に、啓太は怪訝な目を向ける。
「…いや、そんなでもないけど」
 あの幸せな夢の中からは、目覚ましくらいでは抜け出られなかったのだと和希は思った。

 別に、今が幸せではないとは思わない。
 仕事も順調。
 体も調子よく、精神的にも充実している。
 そして何よりも、啓太が傍にいるのだ。
 同じ家で暮らし、同じベッドで寝起きして。
 昔思い描いていた幸せな暮らしを手に入れたのだ。
 それなのに…何を贅沢な事をとは思うが、たまに別々に生活をしていた頃を懐かしく思う。
 会えない時間があった分、会える時間を二人で大切にして甘く過した頃。
 二人の夜を喜んで、朝の別れを惜しんでシーツの中でキスを繰り返していた。
(今じゃお早うのキスなんて有り得ないもんな…)
 生活とはそう言うものだと理解はしている。
 だが、やはりたまには甘い一時も欲しいと思うのはいけない事だろうか。


 窓を全開にしてベランダに布団を干している啓太に向かって、和希はぽつりと言ってみた。
「啓太…」
 朝のさわやかな空気の中、啓太は日差しの中から和希の声に振り向く。
「何?」
「お早うのキスしよ」
「………は?」
 方眉を上げて『何言ってんだコイツ』と表情で語る啓太に、和希は乾いた笑いで「いや、なんでもない」と誤摩化してベッドを降りる。
(男同士でも、やっぱり一緒に生活するとこうなるんだなぁ)
 結婚した友人達が結婚生活に付いて語ると一様に『付き合ってるうちが華』と漏らしていた事に、この時和希は初めて同意した。
 寝ていた事で固まった筋肉を解す様に思いっきり伸びをして目を開けると、目の前に啓太がいた。
「………どうした?」
 和希をじっと見つめる啓太に、何事かと言葉をかける。


 …………ちゅっ。


 一瞬の事。
「………え?」
「これで満足?」
 触れるだけのキスを施して、啓太はそのまま和希の布団に手をかけて、再びベランダへと踵を返した。そして、窓の外から和希に向かって話かける。
「ダイニングにコーヒー入れてあるから、自分で注いで飲めよ」
「………あ、うん」
 普段通りの会話だったが、後姿の啓太に目を遣ると耳が赤くなっていた。


 キスなど、もう数えきれない程しているというのに。
 キス以上の事も勿論数えきれないくらいしているのに。
 初々しい反応は、未だ健在。


(………訂正)
 和希は先程心の中で同意した事を、即座に否定した。
 華なのは付き合っている時ではない。
 まさに、今が華。
 それがわからない友人達をひっそりと哀れんでみたり。
 途端に明るくなった気分のまま、自らもベランダに降りて背後から啓太を抱きしめた。
「ちょっと!邪魔だよ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「そんな暇があったら、さっさと顔洗って来い!早くしないと和希の朝飯作らないで行くからな!」
「えー、それはヤダ」
 一通り布団を干し終えた啓太は和希を背中から剥がそうと体を捻るが、和希は離れようとはしなかった。
「もうっ!和希!」
 時間も差し迫っている啓太は、苛ついた調子で和希を嗜める。
 そんな啓太を和希は飄々とした態度で躱す。
「なあ、もう一回して?」
「なっ…ば、ばか!」
 真っ赤な顔をして啓太は背後から回されている和希の腕をばしばしと叩く。
「痛いよ啓太」
「かっ和希が馬鹿な事言ってるのが悪い!」
「馬鹿な事って…酷いなぁ。俺は啓太とキスしたいだけなのに」
「だから…!」
 尚も和希の腕を叩き続ける啓太の手を逆に捕まえて振り向かせ、和希はそのまま啓太を腕の中に抱き込んで口付けた。
「……んっ」
 それは先程の啓太の施した軽い触れるだけのキスとは違い、唇が触れ合った瞬間に和希は啓太の口内に直ぐさま舌を潜り込ませる。逃げ惑う啓太の舌を捉えて吸い上げ、舌の根元から歯列の裏、上顎まで丁寧に舌で愛撫を施す。
「……んっ…んぅ……」
 くちゅくちゅと湿った音が鼓膜に響いて、羞恥を煽る。
 爽やかな朝日の中、二人の間の空気だけが淫碑なものに変わっていく。
 啓太の口内を一巡りして、ちゅるっと音を立てて和希は舌を抜いた。
 離れ際、仕上げとばかりにちゅっと軽く唇を吸う。
「…お早う」
 朝からするのには少々濃い口付けに啓太は足下をふらつかせた。
「………な、何が『お早う』だ!ばか!」
 ご満悦な笑みを浮かべる和希を思いっきり突き飛ばして、啓太は部屋の中へと駆け込んだ。


 和希が身支度をしてリビングに入ると、啓太はいつもの様にキッチンで和希の分の朝食の支度をしていた。
 和希の気配を感じて、啓太はまだ熱の引かない頬を見せない様に背中を向けたまま、ぶっきらぼうに問う。
「…半熟?堅焼き?」
「んー、今日は半熟」
 ダイニングテーブルの上にセットされているコーヒーサーバーから自分の分のコーヒーをカップに注ぎ、和希は朝刊を手に取る。
 キッチンからじゅーっと卵の焼ける音がして、チンっとトースターが時間を告げた。
「…うわっ!もうこんな時間!」
 朝刊を広げる和希の前に、いささか乱暴にドンっとサラダとベーコンエッグとトーストを置いて、啓太は家の中を走り回る。
 暫くしてスーツに着替えた啓太が再びダイニングに走り込んできて、自分の分のお弁当を掴んで和希に声をかけた。
「和希の分のお弁当、そこにあるから持ってって!あと今日は俺多分残業ないけど和希は!?」
「あー、俺は出向先から直帰」
「じゃあ夕飯の支度よろしく!いってきまーす!」
「いってらっしゃーい」
 和希が全部言い終わる前に、玄関の扉ががちゃんと閉まる音がした。




 付き合っている最中の様な色気は無いけれど、それはとても幸せな光景で。和希が子供の頃に夢に描いた幸せな家庭そのものだった。
 愛する人との生活は、本当に夢の様な幸福。
 目が覚めた時は夢の中の光景がまさに夢心地に感じたが、現実の方がよっぽど夢のようだと、啓太の用意した朝食を食べながら和希はゆったりと微笑んだ。

 

 

 

END


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