うさぎ

2007.10.26UP



 

 夏休みに突入した教室棟は静まり返っていた。そこに突如、大きな音が響いた。何かが割れた様な、重量のあるものが落下した様な不穏な音に、会計室で残務処理をしていた会計部員二人は廊下に飛び出して音の根源を確認する。そこには見慣れた後輩が倒れていた。
「啓太!」
「伊藤君!」
 その日、啓太は午後に会計室を訪問する約束をしていた。その為に教室棟の廊下に居たであろう事は容易く想像が出来たが、朝の食堂で啓太の元気な姿を見ていた二人は心底驚いた。いや、それ以前に啓太が体調不良を訴えている所を見た事が無かった二人は、啓太が倒れたと言う事実に驚いたのだ。
「臣、啓太を運んでやれ」
「はい、郁」
 七条が啓太の体を丁寧に持ち上げ、一番近い体を横たえられる場所として、自分達の会計室に啓太を運び込んだ。
 意識の無い啓太を見て、二人は不安になる。
「やはり、保険医を呼んで来た方がいいですよね」
 七条が確認のように西園寺に語りかけると、西園寺は秀麗な眉を顰めた。
「確か、今日は不在の筈だ。呼ぶとすれば救急車になるのだろう。臣、遠藤に連絡を取れ」
 西園寺は深く考える素振りで、啓太の現在に置ける最も親密且つ、保護者となりうる人物の名をあげた。だが、西園寺が和希の名前を挙げたのは、当然ソレだけの理由ではない。啓太の身に過去に起こった事を知っている人ならば、誰でも同じ行動をとる筈なのだ。
 七条が和希への連絡手段を構築している間に、西園寺は啓太の現状を把握すべく、手首に指を伸ばす。だがその時、ふと啓太の右手にうっすらと浮かぶ文字の様なものを発見した。優しく啓太の右手を取り、その文字を目を凝らして読むと…。
(「和希の手」?)
 明らかに左手で自分で書いた様な歪な文字であったが、何とか解読が可能な範囲であった。だが、その意味がよくわからない。不思議に思いつつも、先ずは目の前にある事を解決しようと、西園寺は改めて啓太の手首を取り、皮膚の奥にある脈打つ場所を探す。じっと時計を見つめながら、正確にリズムを刻むそれに意識を集中させる。
「…68か」
 正常範囲値の脈拍に少し胸を撫で下ろしつつ、きっちりと頸まで止められていたシャツのボタンを緩め、服の中に手を忍ばせ、体温を確認した。
「熱も無さそうだな」
 さして自身と変わらない温度の体に、再び安堵の溜め息を付く。その時、背後から声が響いた。
「郁、遠藤君は後30分で帰島する予定だそうです」
「なんだ、何処かに行っていたのか?」
「今日まで4日間の出張だったそうです」
「そうか…なら、今解る範囲のバイタルを遠藤に伝えて、指示を貰え」
 素人ながら計った情報を伝えて、再び西園寺は啓太の顔に視線を戻す。廊下で倒れていた姿を見なければ、具合が悪いとは思えない程の健康的な肌の色に、逆に不安を煽られる。見た目では解らない何かが、啓太の体に起きているのではないかと。
 電話を終えた七条が西園寺に歩み寄り、椅子を促す。
「何と言っていた?」
 促されるままに椅子に掛けながら結果を聞くと、意外なものであった。
「そのまま寝かせておいて欲しいと」
「………何?」
 なんの手段も伝えられなかった事に驚愕して、目を見開いたまま再び啓太を視界に収めた。
「倒れたと言ったのか?」
「はい。脈拍、呼吸、体温を伝えた所、処置は一つだから心配するなとの事です」
 普段、あれ程啓太の心身を気遣っている人物の言葉とも思えないと、西園寺は眉間に皺を寄せる。
 頼りにならない指示に何とか自力で案を出そうと、自他ともに認める優れた頭脳を働かせていると、それまでぴくりとも動かなかった啓太が身動きした。
「ん………」
 小さな声に視線を向けると、驚く様な光景を目の当たりにした。
 なにか、酷くなやましいのだ。
 先程西園寺自身が啓太の衣服を緩めたのだが、それも相乗しているのだろうか。はだけた胸元から覗く肌と言うのは、何故か普段とは違う色に見える。うっすらと開いた唇からは、何かを求めるように赤い舌が小さく覗く。衣擦れの音をさせながらゆるりと動く細い足も、普段から見慣れている動きとは違って見えた。
 普段は健康そのもので、色気などと言う言葉とは縁遠い存在だと思っていた後輩の姿に、西園寺は思わず頬を染める。
「郁……」
 西園寺と同じように啓太を見ていた七条は、普段と略変わらない声色で親友の名を口にする。だが、旧友の声色の僅かな違いを西園寺は聞き逃さない。
「なんだ」
 西園寺から見れば企み顔の七条に、牽制を込めて普段よりも素っ気ない口調で西園寺は答えた。
「僕たち、誘われてると思いませんか?」
「思わないな」
 即答した西園寺にめげる事無く、七条は続ける。
「でもアレは、絶対にえっちな夢をみてると思いませんか?」
「思わない」
 言葉とは裏腹に、西園寺とてそれは感じた事だった。だが、啓太が淫夢を見ているからと言って、なんだと言うのだ。七条の言葉に一つでも同意すれば、この幼馴染みは途方も無い行動を起こすと熟知している西園寺は、言葉少なに全てを否定し続けた。
 その遣り取りが5回続いた所で、啓太が今までとは違う動きをした。
「あれ…」
 寝起き特有の掠れた声で小さく疑問符を口にして目を醒ました啓太は、見慣れない天井に違和感を覚え、ゆっくりと室内に視線を送る。
「気が付きましたか?」
「気が付いたのか?」
 七条がソファーに横たわっていた啓太を覗き込むと、啓太は益々不思議そうな顔をした。西園寺もソファーに歩み寄り、啓太の目が開いている事を確認する。二人に覗き込まれた啓太は、未だ現状の把握が出来ないのか、ぼーっと二人の顔を眺め続けた。
「具合はどうだ?」
「具合って…?」
 啓太は西園寺の言葉を繰り返して、何を問われているのかを認識しようとしたが、どうしても思考が働かずにまた二人の顔に視線を戻す。啓太の様子を見ていた七条は、先程の不穏な計画などおくびにも出さずに穏やかに口を開いた。
「伊藤君はさっきこの部屋の前で倒れたんですよ。何処か具合が悪かったんですか?」
 七条の言葉を受けて、啓太は「ああ」と小さく呟いて体を起こした。
「具合は悪くないんですけど…和希が帰ってくる予定が一日延びちゃったから…」
 啓太の言葉に、西園寺と七条は頸を傾げた。啓太の体調と和希の帰宅予定になんの関係があると言うのだろうか。二人はまだ啓太の目が覚めていないのかと言葉を待つ。だが、それ以上の説明が啓太から施される事は無かった。
 その後、何事も無かったかのように啓太は七条に差し出されたカップを受け取って、嬉しそうに口をつけた。その様子を二人は狐に摘まれた様な気持ちで眺める。先程の卒倒は一体なんだったのかと。体調不良ならば心配ではあるが納得がいく。元々体が弱いなどの理由がなくとも、他の理由で意識をなくす事が無いとは言えない。だが、意識がなくなる様な事態の直後にこんなにも健康そうな姿を見せられては、逆に不安にもなるのだ。
 西園寺は静かに啓太に問うた。
「啓太、お前は何か持病でもあるのか?」
 西園寺の問いに啓太はきょとんとした顔をして、数拍後、頸を横に降る。
 だがそれ以上口を開かない啓太に、西園寺は更に問い質した。
「では、お前自身は倒れた原因が分かっているのか?遠藤にも連絡を取ったが、あいつも『心配ない』と言うだけで、私達には何の説明も無い。それは私達には言えない理由があると言う事なのか?」
 矢継ぎ早に出る西園寺の言葉に耳を方向けていた啓太は、次第に頬を染めた。啓太の赤くなる頬の理由の解らない二人は、視線を合わせて再び頸を傾げる。
 何か恥ずかしい事でも聞いたのだろうか。
 卒倒の理由を聞いているだけだと言うのに、何故頬を染めるのだろうか。
 コレが普段から不摂生をしていて体調不良に陥っていたと言うのならば確かに恥ずべき事だとは思うが、啓太はかなり規則正しい生活をしている事で有名なのだ。他の理由を考えるにしても、啓太の恋人である和希は4日前から出張に出ていたという事であり、前の晩に頬を染める様な事をしていた結果、今回の卒倒に繋がったという事も考えられない。まあ根本的に、SEXで倒れるなど殆ど考えられない。もし仮にそうだとしたら、二人の性的趣味は周囲にかなり疑問を抱かせるものだ。
 ただ頬を染めるだけで一向に口を開かない啓太に、西園寺が考えあぐねていると、横からいつものおっとりとした口調で七条が口を挟んだ。
「そういえば、起き抜けに伊藤君は、遠藤君が帰ってこないからと言っていましたが、それが理由なんですか?」
 七条の言葉に、啓太は頬だけでなく頸まで真っ赤に染め上げた。
「お、俺!そんな事言ったんですか!?」
「ええ、言いましたよ。ねえ?郁?」
「ああ、言っていたな」
 冷静な二人の返答に、啓太は余計に慌てふためく。その様子に、七条は人のいい笑顔で人の悪い事を口にした。
「伊藤君、遠藤君がいなくて寂しくて倒れたんですか?まるでうさぎさんですね」
 そこには触れないでおいてあげるのが友情というものではないのかと、西園寺は己も思い当たった事であったが七条の言葉に頭を抱えた。案の定、啓太は今まで以上に赤くなり、既に全身ゆでだこ状態だ。
 だが、西園寺が助け舟を出す前に、啓太は二人が思いもよらない事を言った。
「おっ俺は別にしなくても死なないですから!ただ眠くなるだけで…!」
 西園寺と七条が啓太の叫んだ言葉の意味を考えるまもなく、会計室のドアが静かに叩かれる。
「こんにちは。啓太がご迷惑をかけた様で…って、目が覚めてたのか」
 倒れたと聞かされていた和希もコレまた何事も無かったかのように、ソファーに座りつつゆでだこになっている啓太を視界に収めた。方や啓太も和希が現れると、それまでの動揺を西園寺と七条の二人へではなく即座に和希にぶつけた。
「もう!和希が急に一日出張伸ばしたからこんな事になったんだぞ!」
「ああ、悪い悪い。俺だって帰ってきたかったんだけど、どうしても抜けられなかったんだよ」
 何処かの頭の悪い女がいいそうな台詞を啓太が声高に叫んでも、和希はそれを本気で悪そうに謝る。その不思議な光景に、西園寺と七条は開いた口が塞がらなかった。
 七条よりも一瞬早く自分を取り戻した西園寺が、静かに和希に向けて告げた。
「仕事は仕方ないのではないか?啓太も何を訳の解らない事を言っている」
 だが、それに答えたのは和希ではなく啓太だった。
「べっ、別に仕事をして来た事に怒ってるんじゃないです!ただ、約束させたのは和希なのにって…」
 しりつぼみに小さくなる啓太の声に、西園寺の眉間の皺は更に深くなる。そして、再び口を開こうとした所で和希が一瞬早く口を開いた。
「まあまあ、いいんですよ。啓太のいう通り、俺が啓太に試させたんだから」
 西園寺に柔らかく諭す和希の隣で、啓太は己の言った言葉の意味を瞬時に理解して真っ赤になる。コレではその辺の我侭な女と同じではないかと。
 俯く啓太に、更に西園寺は先程疑問に思った事を口に乗せた。
「啓太、その右手の『かずき』という悪戯書きは寂しさからか?」
 恋人のいない寂しさを紛らわせているように見えるその文字に、柔らかい微笑みを向ける。
「い、いえっ!寂しさとかじゃなくて………あの…」
 西園寺の指摘に啓太は今まで以上に赤く頬を染めて口ごもる。そんな啓太の様子を見て和希は小さく笑って、会計室からの退室を促した。
 だが逆に、その行動は会計部の聡い二人に事のあらましを説明したのも同じだった。
「………その人の体質による事なんでしょうけど…」
「臣。何も言うな」
 二人、啓太と和希が出て行った扉を見つめながら呆然と口を開く。
 つまり啓太は、本当にうさぎの様な体質だったという事なのだ。
 うさぎが1匹でいると死に至るというのは、寂しいからではない。雄雌つがいで飼っていて、更に2匹の間で性交渉が行われないと、生殖腺が詰まって死に至るという科学的に説明のつく事象なのである。そこと啓太がどう言う結びつきかといえば、会計部室の前で倒れたのは、4日和希と性交渉がなかった為に、欲求不満で寝不足になってしまったからという単純な物だ。だが、啓太とて最初から誰かとの性交渉を求めていた訳ではない。和希との交渉がなければ自己処理する事で普通に補っていたのだが、和希との関係を持った後、自己処理よりも強い快楽を覚えてしまったが為の不幸だった。
 幸運が取り柄の啓太だが、和希という将来性のある恋人を持った事が幸運なのか、それとも今のうさぎの様な体質を獲得してしまった事は、それを上回る不運なのかは、本人の受け取り次第と言う所だろう。
 ちなみに啓太は当然、和希との付き合いの幸運しか感じていなかった。

 

 

 

END


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