微笑み

2007.3.8up



 

「和希ってさー、いっつも笑ってるよね」
 夜、和希の部屋で課題をしていた啓太は、目の前で同じ様に課題をしていた和希に向かって不意に話かけた。
「え?そうか?」
 自覚の無かった和希は、視線をレポート用紙から上げ、少し不貞腐れた様な啓太を視界に納める。
 どうやら啓太は課題に飽きてしまった様で、シャーペンをくるくると回しながらじっと和希を見つめていた。
「ほら、今だって驚かないで笑ってる」
「えー、自覚無いんだけど」
 左手の人差し指で和希の頬をぐりぐりと突きながら不機嫌そうに啓太は言う。
「っていうか啓太、俺が笑ってるのヤなの?」
 執拗に押してくる人差し指を、和希は苦笑とともに押し返しながら、不機嫌な顔の理由を問う。問われた啓太は、更にその問いかけの最中の和希の面ざしに機嫌を降下させた。
「その笑顔はイヤだ。七条さんより質悪い」
 笑顔の悪魔と比較され、温厚を誇る流石の和希も、ぴくりと方眉を上げた。
「比較対象にすっごい問題を感じるぞ」
「だって、一番笑顔を振りまいてるのって七条さんじゃん。あの人も、怒ってても笑顔だし」
「中嶋さんといるときは、笑顔じゃ無いと思うんだけど」
「いや、なにげに顔の筋肉は上がってるんだよ。だから尚更恐いんだけど」
「で、どうしてその七条さんより俺の方が質悪いんだよ」
 何故そこまで攻められなければならないのか。先程まで啓太と和希の間には会話はなく、啓太の機嫌を損ねる様な行動もしていなかった筈だと和希は考える。しかも、どう見ても啓太は和希の事を煽っているのだ。大人気ないと思いながらも、和希は啓太の言葉に機嫌を降下させた。
「あ!」
 和希が眉を顰めた瞬間、啓太は顔を輝かせた。その行動理由の不可解さに、和希は更に眉を顰める。
「さっきからなんだよ、啓太は」
「やっと笑顔じゃなくなった!」
「…お前、俺の事愛してないだろ」
 よく聞く話。「好きな人には笑顔でいて欲しい」という理論を用いると、啓太は和希に対して恋愛感情を持っていない事になる。だが、2人は身も心も繋げあった恋人同士である事には間違いが無かった。課題を始める前にも2人はキスを交わして、危うく課題に対面する前に、お互いの裸に対面してしまう所だったのである。
「何言ってんだよバカ。大体、和希の方が俺の事愛してないだろ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、いっつも笑ってるもん」
 啓太の言葉は和希には宇宙語に聞こえた。
「なんで笑ってちゃいけないんだよ」
 笑みがこそげ落ちた和希の顔を啓太は愛おしげに眺めて、居場所を対面の座椅子から和希の膝へと移動させた。
「笑ってちゃいけない訳じゃ無いんだけど…普通さ、愛してたらそんなに余裕持てないだろ。俺なんか、いっつも和希の事気になって苛々してて、いつも笑顔でなんかいられない。今だって何考えて笑ってたんだよ」
 理由を聞いてしまえば何とも単純なもので。つまり啓太は、もっと和希が自分の事に対して余裕をなくして欲しいと言う事なのだ。その可愛らしい要求に対して、和希は再び微笑みを浮かべた。
「…また笑ってる」
「仕方ないだろ。幸せなんだから」
 啓太の要求を理解した和希は、愛しくも幼い恋人を笑顔を取り戻す為に、いくつかの事柄を用意した。その一つを早速施すべく、和希は眉を顰めた啓太の顔を両手で包み、そっとその柔らかい唇に己の唇を重ねる。
 軽く、柔らかく触れ合ったそれは、ちゅっと湿った音を立ててすぐに離れた。
「…なんでそんなに幸せを感じられるんだよ」
「啓太は、俺といて幸せじゃない?」
「幸せじゃない。前より不幸になった気がする」
「それは、聞き捨てならないな」
 くすくすと相変わらず笑う和希の首筋に、甘える様に啓太は額を押し付けた。
「だって、ホントに毎日苛々する。和希は誰と一緒に居たって笑ってるし、俺は和希が居ないと寂しくて笑えないし、さっきもなんにもしゃべんないのに和希は一人で楽しそうだし」
「課題やってるのに、寂しかったんだ?」
「目の前に和希がいるのに、話が出来ないんだもん。寂しいよ」
 幼子の様に首に縋り付いて駄々をこねる啓太に、和希の笑みは深くなっていく。それは、思い出の中を彷徨う時とは違う笑み。幼い頃の啓太はこんな事はしなかった。飛びかかってくる事は多々あっても、体を擦り付けて甘える様な事は勿論なく。大人になったその反応が、和希の幸せを増幅させていた。
 恋人だから。
 愛しい人だから、起こる欲求。
 声を聞かせて。
 自分を見つめて。
 少しでも近くにいて。
「お前、ちゃんと勉強もしようね」
「和希が居ない時にはちゃんと勉強してるもん」
「じゃあ、啓太にとっては俺はいない方がいいのか?」
 和希にとっては単なる言葉遊びでも、啓太にとってはそうは取れない。何気ない一言に、啓太の眉間には深く皺が刻まれた。
「…それは、絶対やだ」
「だって、啓太は俺と一緒にいると不幸になって、勉強もはかどらないんだろ?」
 自分の言葉の上辺だけをあげられて、啓太は『うー』っと唸って和希の胸元に顔を埋める。
 茶色の跳ねた髪が和希の喉をくすぐって、そのくすぐったさと愛しさに、和希は微笑みを消す事が出来ない。
「やっぱりダメ。和希は俺とずーっと一緒にいるの」
「不幸になって、勉強がはかどらなくてもか?」
「一緒にいられる時間が少ないからそうなるんだよ。もっとずーっと一緒にいてくれたら、幸せになれるかもしれないし、話をしてるのが当たり前になったら、勉強も出来るかもしれない」
 言葉遣いが幼くなるのは、きっと照れている所為。感情的にもまだ幼い少年な啓太は、自分の欲求を伝えるのに精一杯で、和希の笑顔の意味がわからない。そんな啓太が、和希には愛しくてならなかった。
「じゃあ…そうだな。理事長室に啓太の勉強机でも置くか」
「えー、なんだよ、それ」
 『子供扱いして』と、啓太は膨れる。その仕草も立派に子供らしいのだが、やはり少年な啓太には理解出来ない。
「理事長先生が直々に勉強見てやるよ。大切な生徒だからな」
 くすくすと楽しそうに笑いながら、和希は啓太の服の下に手を差し入れた。
「…大切な生徒に、手、出していいのかよ」
「手を出すのは『大切な恋人』だから良いんだ」
「変な屁理屈」
 差し入れられた手に一瞬顔を緩めた啓太だったが、やはり気になるのかチラリと課題に視線を向ける。
「課題は明日、職場でな」
「でも明日、どっかの会議に行くとか言ってなかった?」
「啓太も行くんだよ。会議室でお勉強するの」
「えーっ!それはヤダ!」
「だって、ずーっと一緒にいなきゃダメなんだろ?だから、俺が理事長室で仕事の時は、啓太も理事長室で学生の職業を全うするの。で、出向する時には啓太も出向先でお勉強。研究所にも啓太の場所作っておいてやるからな」
「それ最悪!」
 どこに行っても勉強をさせられるかと思うと、かなり気が滅入ると啓太はげんなりする。だが、それも一瞬の事。
「イヤになる位、一緒にいような。俺の隣が当たり前になる様に、ずーっと一緒だ」
 用意のいい大人は、そんな言葉すら用意していて。
 そして、その言葉を受けた啓太が微笑みを浮かべるのも、また予測済み。
 幼い恋人の幸せそうな微笑みを受けて、和希もまた深く微笑んだ。

 

 

 

END


TOP ODAI TOP