「あ…」
雨の中買い物に出た二人は、小さな公園の前で立ち止まる。
「…なに?なにかある?」
最初に足を止めた啓太に習うように立ち止まった和希は、公園の遊戯具に目を奪われている啓太に問いかけた。
「ううん、なんかある訳じゃないんだけどさ」
「…『ないんだけど』?何?」
「…これ、ちょっと持ってて」
啓太はそう言い残して、買い物の袋を和希に押し付けて公園の中に足を進める。
「ちょ…けいた?」
啓太が向かった先は、寂れた小さなブランコだった。
傍らに傘を放り出して、啓太は濡れたそれに腰掛ける。
「けいた…何やってるんだよ」
朝は土砂降りだった雨は今は霧雨になってたが、それでも小さな雨粒は容赦なく啓太の体を濡らす。
そんな中、何故か楽しそうに啓太はブランコを漕ぐ。
白いTシャツが水を含んで半透明になっても、啓太は子供のように遊び続けた。
疑問を投げかけた和希に、楽しそうな笑いだけを向けて。
「…風邪引くぞ」
「大丈夫だよ。俺、丈夫だもん」
雨の中、誰もいない公園に啓太の楽しそうな笑い声が響く。
それは昔、和希が見た光景だった。
ただその時は、空は晴れていたけれど。
一頻り濃いで満足したのか、啓太はばしゃっと水たまりに足を入れて前後運動を止める。
「あー、すっきりした」
「すっきりしたって…ホントになんだよ」
啓太の荷物と傘を持って、和希は全身ずぶぬれの啓太をあきれ顔で見つめた。
和希から見た啓太は時々突拍子も無い事をする人物ではあるが、それでも今回のこの行動の突飛さは理解の域を超えている。
「あーあ…そんなずぶ濡れで、どうやってバス乗るんだよ」
鞄の中から小さなハンカチを取り出して、水気を含んだ茶色のくせ毛を気持ちばかり拭きながら、事の真意を啓太の表情から読み取ろうと啓太の瞳を覗き込む。
「あははっ…やっぱり和希はハンカチだ!ハンカチ王子ー!」
「別に俺はスポーツ選手じゃないんだからハンカチでいいだろ。っていうか、その『やっぱり』ってなんだよ」
「昔もいつも綺麗なハンカチ持ち歩いてたじゃないか。俺が公園の水道で手を洗った後にズボンで拭こうとしたら、慌ててポケットからハンカチ出してくれてさ」
啓太に言われて、和希もふと子供の頃を思い出す。
いつも泥だらけの啓太の後を追って、走り回っていた頃を。
泥だらけの啓太を抱き上げて、普段汚す事の無かった服を散々汚して、家政婦に叫ばれた時の事を思い出してクスリと笑う。
「あの頃もハンカチなんて気休めだったけどな…いや、そんな事はどうでもいいけど、なんでこんな雨の中ブランコなんて乗ったんだよ」
小さなハンカチはあっという間に啓太の雫で濡れて、昔の色を再現した。
その色を見て、啓太はまた小さく笑う。
「俺、雨の日は見かけたらブランコに乗るって決めてるから」
「はぁ?」
小さな子供だってそんな事はしないと和希は言いかけて、啓太の瞳に少しの寂しさを読み取って口を噤む。
「気が付いたらやってた事だったんだけどさ…雨の日って、ブランコ寂しそうじゃない?」
普段子供で賑わう公園は、雨の日には当たり前の事だが人気はない。
屋外で遊ぶ事を前提とした場所は、往々にしてそうなるモノだ。
「まあ…寂しそうって言われれば、そんな感じもしなくはないけどさ」
「だろ?だからせめて俺だけでも遊んであげようかなって思ってさ」
「いや…だから…」
雨の日に寂しそうなのは認めるが、それはそうなる事が前提に作られている物なのだ。
誰が好き好んで雨に打たれながら遊戯具を使用するというのか。
「ずーっと何となく強迫観念みたいな物でやってきた事なんだけどさ…最近理由を思い出した」
啓太は和希の傘の下から出て、再び雨に打たれながらブランコに歩み寄る。
それはもう、楽しそうに。
和希はその不思議な光景を凡庸と見守るしかなかった。
「和希の家に、ブランコあっただろ?」
啓太と共に過した和希の田舎の家には広い庭があり、その片隅には子供の和希が遊べるようにと家庭サイズの砂場とブランコが設置されていた。
啓太と出会った頃の和希は既にそれを使用する事はなくなっていたが、順番待ちをしなくても良い公園設備は、啓太のお気に入りになった。
「ああ、そう言えばあったな。俺はあんまり使った覚えないけど、啓太、好きだったもんな」
「うん。それでさ…和希が留学しちゃった後、おじいさんが俺の事呼んでくれて、アレからもアソコで遊んでたんだ」
和希の記憶にあるその場所には、当然啓太の横には当時の自分がいて、他の誰かがそこに居るかなど考えた事もなかった。
お互いに離れて流れた時間がある事は嫌という程理解していたが、同じ時を刻んだ場所に、啓太1人の思い出がある事は正直和希には意外だった。
「…へぇ、そうなんだ」
「うん。今考えると、おじいさんも和希がいなくなって寂しかったのかもな。で、俺はそのご相伴にあずかってたって訳」
小さな子供が居ることは、確かに心が温かくなる。
実際に和希の祖父は和希の事を溺愛していたし、出立の時に寂しそうな顔をしていた祖父を和希は思い出す。
あの夏、啓太に救われていたのは和希だけではなかったのだ。
(俺が啓太と一緒にいたいって思うのは隔世遺伝か?)
そう言えば、と、普段は研究所にこもりっぱなしだった祖父が、啓太が遊びにきている時にはイソイソと出てきていた事まで思い出して和希は笑った。
その笑顔のまま啓太に振り向くと、少し淋しそうな顔をした啓太が居た。
「…けいた?」
過去を思い出して笑っている和希と、過去を振り返って寂しそうな啓太は、普段とは逆の役割の顔つきで。
その違和感から、公園に足を踏み入れてから何度目かの名前をその口に乗せた。
「多分…俺が家に帰る直前の事だと思うんだけど、雨が降っててさ。その日は外で遊べなかったんだけど、おじいさんが美味しいケーキがあるからって俺の事呼んでくれて、家の中から庭のブランコ見てたんだ。そうしたら、凄く寂しそうでさ…誰も遊ばないブランコが、和希の不在を俺に知らしめてる気がして…」
啓太は公園のブランコの濡れた座面に再び腰を下ろして、雫を零し続けている空に視線を向ける。
「俺、そのとき初めて雨の中でブランコ乗った覚えがある。ブランコに『一緒に和にいを待とうね』って言いながら」
「………」
辛かった別れは、小さな啓太には関係のない物だと和希は思っていた。
直ぐに他に友達を作って、和希の事など忘れるのだと。
幼い心が、たった1人の人物との別れで、そこまでの傷など負う事など無いと。
「誰も遊んでくれないと、和希がいない寂しさが紛れないだろ?だから…理由忘れてもずっとそうしてきたんだと思う」
「そっか…」
異国の地は辛い事が多かったけれど、それでもそこには和希の目標があって、寂しさを感じる時間はあまりなかった。
けれど住み慣れた場所に居た啓太にとっては、存在しない人物を忘れるにはあまりにも日常すぎて。
「おじいさんも何にも言わないでバスタオル用意してくれててさ。…でもあれだよ、きっとあの時、おじいさんも同じ気持ちだったんだよ」
渡米したての頃、週に一度は電話をしてきていた祖父は何を思っていたのかと和希は考える。
電話での会話は体を気遣うものだったり、勉強の進度だったりと在り来たりなモノだったので、当時の和希は特別に考えを巡らす事は無かった。
月に一度は渡米してきていた両親との会話と何も変わる事は無く、故に和希は自分を思いやる以外の物だとの認識を持たなかった。
だが、当時神童と称されていた和希に気が付かなかった事を、啓太は気が付いた。
人の心は頭で理解する物ではないのだ。
故に、和希は…。
「…啓太がいてくれたから、おじいさんも乗り切ってくれたんだろうな」
寂しさに。
愛しさに。
先達としての枷に。
心の安住を求める者に、啓太はその場所を与える。
雨の中、寂れたブランコに乗る何処にでも居そうな少年は、和希にとっては何処にもいない無二の存在。
その存在にありったけの感謝を込めて、傘をさしかけた。
「さ、もう行こう?風邪引くよ」
ハンカチなどでは到底拭いきれない雫を称えた啓太の肩に手を置いて、過去から現在への帰還を促す。
啓太が振り仰いだ和希の顔は、過去と寸分違わずに優しい物だった。
その笑顔に促されて、啓太は腰を上げる。
「………うん」
一言頷いて、ブランコから立ち上がった啓太は、自分の傘を広げる事なく和希に寄り添う。
和希の隣で見る雨の中のブランコは、今まで啓太が見てきた物とは違う印象を啓太に与えた。
もう、寂しくないから。
もう、和希はココにいるから。
今は記憶の中にしか存在しないブランコがそう語っている気がして、啓太は微笑む。
寂しそうに見えていた雨の中のブランコは、今はつかの間の休みに浸っているようにも見えた。
END
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